religionsloveの日記

室町物語です。

富士の人穴の草子①-異郷譚4ー

 「異郷譚」の四番目に取り上げるのは「富士の人穴草子」です。前半は異郷譚っぽいのですが、後半は地獄めぐりの様相です。地獄は異郷とはいえませんね。刊本写本も多く有名な話なので紹介するまでもないのかもしれませんが、お付き合いください。

 原文は「室町物語大成 富士の人穴の草子 346」を漢字や仮名遣いを適宜改めて載せました。「大成」の「富士の人穴草子 347」(以下347と略します)「富士の人穴 474」(以下474と略します)、信州大学小谷コレクションの「富士の人穴草子(三種)」(以下小谷と略します)を参照しました。

その1

 頃は正治三(1201)年卯月三日、辰の刻に二代将軍左衛門督源頼家殿は、和田平太胤長を召して、「これ平太よ聞きなさい。音に聞く富士の人穴といってもその内部は誰も見たことがないという。どんな不思議な世界があるのだろうか。探検して参れ。」とおっしゃいました。胤長は畏まって、「承りました。天を翔ける翼、地を走る獣を取って参れとの御命令でございますならば、たやすい事でございますが、この富士の人穴はどのようにしたら入られましょうか。しかし、御命令に背いたとあれば天の恐れとなりましょう。二つとない命ですが主君に差し上げましょう。」と申し上げました。

 胤長は御前を罷り立ってすぐに伯父の義盛の御前に参り、「胤長はよにも不思議なる御命令を君より承りました。」と申します。義盛が何事ぞとおっしゃいますと、「それです、富士の人穴を探検して参れとの御命令でございまして、その人穴へ入りましたならば、この深沢へ再び帰る事ができるかはわかりません。ですから人々との対面も今日を限りでございましょう。みなみな後の世でお目にかかりましょう。」と申して心細げに暇乞いをいたします。義盛は涙を流しなさって、「幼けなきより膝の上で育てた胤長ゆえ殊に不憫とは思うが、公儀とならばいたしかたない。功名を上げてとくとく帰りなさい。」とおっしゃったので、平太は涙ぐんで立とうとします。

 ここに居合わせた朝比奈三郎義秀はこれを見て、泥丸(でいまる)という太刀を取り寄せて鍔元をニ三寸引き出し、平太をはったと睨んで、「吾殿の有様の見苦しさよ。日本国の侍が見る前で泣き顔を見せるとは未練がましいぞ。こんな者を一門の中に置いては、みんなが臆病になってしまうわい。そんなに恐ろしいなら首を差し出しなさい。打ち首にしよう。」と言ったので、これを聞いて、「某(それがし)は臆病ではございません。竜の住む世界、岩盤石、虎が臥す野辺であっても、一度二度とうち破って人穴へ入ろうと思っています。決して不覚を取る事はありません。」と言って朝比奈殿に暇乞いをして立ったのでした。朝比奈はこれを見て笑いながら、「いや、殿輩よ、『走る馬にも鞭を打つ』とか『血潮に染まる紅も、生地を紅に染めればより色を増す』という諺もござる。義秀も連れていってほしいとは思うけれども、一人指命されたことゆえいたしかたない。必ず功名を遂げて、一門の名を上げなされ。」と暇乞いのをしてとどまったのでした。

 平太のその日の装束はいつにもまして華やかでした。肌着には帷子を脇深く解いて、その上には段金(どんきん)の小袖を着て、霞流しの直垂は両の袂を結んで肩に懸け、烏帽子を強く結んで、両方の括りを結わえて、銀の胴金を施した一尺七寸の刀に、畳んだ扇を差し添えて、赤銅造りで練鍔(ねりつば)の太刀の二振りを提げて佩いて、松明十六丁を手下に持たせ、七日と申す時には帰りましょうと言って、岩屋の内に入りました。諸人はこれを見て、「弓取りの身ほどつらいものはないなあ。」と言ってみな涙を流しました。

 さて、平太が人穴へ入って一町ほど行って見れば、口が朱を差したように真っ赤な蛇が簀の子を描くようのとぐろを巻いています。主命なのでしかたなく飛び越え飛び越え五町ほど行ってみると、生臭い風が吹きます。恐ろしいことこの上ありません。それを行き過ぎてみると、年の頃十七八ばかりの女房が、十二単を重ねて着て、紅の袴をまとって、三十二相を具足しているように美しく、簪は蝉の羽を並べて、する墨を流したように繊細で美しい。白金の踏板に黄金の杼を持って機を織っていらっしゃいましたが、迦陵頻ののような美しい声で、「何者が私の住む所へ来たのですか。」とおっしゃって平太の前へ出てきました。平太は畏まって、「私は鎌倉殿の御使いで、三浦の一門和田の平太胤長と申す者でございます。」と申し上げると、その女房は、「何者が使いであっても通すことはできません。無理に通ろうとしたならば、すぐさま命を奪いましょう。おまえは今年十八になると思うのですが、三十一とう春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡と戦って討たれるはずです。早々に帰りなさい。」とおっしゃいますので、平太は、「いかに頼家殿が日本を支配しているといっても、命があればこそ所領もいただけるというものだ。愚かな事をするものではない。」と思い、岩屋の奥を見ないのは無念極まりなかったのですが、この女房の仰せに従って、仕方なく帰参したのでした。

原文

 そもそも頃は*正治三年卯月三日、辰の刻に頼家の*こうの殿、*和田の平太胤長(原文たねなを)を召して仰せけるやうは、「いかに平太承れ。音に聞く富士の人穴といへども未だ見ることもなし。いかなる不思議のことやある。探して参れ。」とありければ、胤長(原文たねなを)承りかしこまつて申しけるやうは、「さん候ふ。天を翔つる翼、地を走る獣を取りて参れとの御定にて候はば、安き御事にて候へども、これはいかんとしてか入り申すべき。御定を背き申せば天の恐れなり。二つとなき命を君に奉らん。」と申す。

 御前を罷り立ちすぐに義盛の御前に参り、*この由かくと申せば、「胤長(ここから胤長になっている)こそ*希代不思議なる御定を君より承って候ふ。」と申す。義盛何事ぞやと仰せありければ、「されば富士の人穴捜して参れとの御定にて候ふ間、かの人穴へ入るほどにて候はば、*深沢へ再び帰らん事は不定なり。されば人々の対面も今を限りにてぞ候ふ。みなみな後の世にこそお目にかからん。」とて心細げにて暇乞い申す。義盛涙を流し給ひけるは、「幼けなきより膝の上にて育てし間、とりわけ不憫と思へども、私ならぬ事なれば力及ばず。功名してとくとく帰り給へ。」とのたまへば、平太涙ぐみて立ちにける。

 かかりけるところに*朝比奈三郎義秀これを見て、*てひまるといふ太刀を取り寄せて鍔元ニ三寸寛げて、平太をはつたと睨めて、「烏許なる吾殿が有様や。日本の侍の見る前にて泣き顔にて見ゆる事こそ未練なれ。あれほどの者を一門の中に置いては、みなみな臆病になるべし。それほどならば首を延べ給へ。」と言ふければ、これを聞きて申しけるは、「某臆病にてはあらずや。辰の世界、岩盤石、虎臥す野辺なりとも、一度二度とはうち破りて入り候はんと思ふ我が身なり。不覚の事はよもあらじ。」とて暇乞ひして朝比奈殿とて立ちにけり。朝比奈これを見て笑ひながら申しけるやうは、「や、殿輩、*走る馬にも鞭を打つ血潮に染むる紅も、染むるによりて色を増す。義秀も連ればやとは思へども一人指されてある間力及ばず。相構へて功名して、一門の名を上げ給へ。」と暇乞ひしてとどまりけり。

(注)正治三年=正治三年は二月に建仁改元されているので卯月はないはずだが。

   こうの殿=衛門督を敬っていう語。頼家は正治二年に左衛門督に遷任。

   和田の平太胤長=鎌倉殿の御家人和田義盛の甥。胤直という人物は見当たらな

    い。

   この由かくと申せば=和田義盛が聞きなおしているので、不要な部分。

   希代不思議=世にもまれな事。

   深沢=鎌倉にある地名。和田氏の館があったのか。

   朝比奈三郎義秀=和田義盛の三男。剛勇無双と伝えられる。

   てひまる=名刀か?347では「四尺八寸のいかもの作り」474では「例の太

    刀」「四尺八寸の太刀」とあり、小谷に「四尺八寸の太刀」とある。四尺八寸

    はかなりの長さで、大太刀の形容に用いられるようである。「後鑑」に一色左

    京太夫が「四尺八寸の泥丸(どろまる)」を持ったとあるようだ。「古事類

    苑」によると、「明徳記」に一色詮範が「四尺三寸と聞こえし泥丸」持ってい

    たとあるようだ。朝比奈三郎が「泥丸」を所持していたかは確認できなかった

    が、泥丸という大太刀が存在していたのは確か七ようである。

   走る馬にも鞭を打つ=よく走っている馬にさらに鞭を加えていっそう早く走らせ

    ること。よい上にもよくすること。「血潮に染むる・・・」も同義か。

 平太がその日の装束はいつに優れて華やかなり。膚には帷子脇深くとき、その上には*段金(どんきん)といふ小袖を着、霞流しの直垂の両の袂結んで肩に懸け、烏帽子の影(掛け?)強くして、両の*括り結ひて白金の*胴金(どうがね)したる一尺七寸の刀に、たみたる(畳みたる?みたせる?)扇差し添へて、赤銅造りの太刀・練鍔(ねりつば)二振り提げて佩くままに、松明十六丁*持たせ、七日と申し候はんに帰るべしとて、ゆわや(岩屋?)の内に入りにけり。諸人これを見て、「弓取りの身ほどあはれなる事はあらじ。」とてみな涙をぞ流しける。

 さる間平太人穴へ入りて一町ばかり行きて見れば、口には朱を差したるごとくの蛇(くちなは)*簀の子を描きたるごとくなり。主命なれば力及ばず飛び越え飛び越え五町ばかり行きて見れば、生臭き風吹きけり。恐ろしきこと限りなし。それを行き過ぎ見れば、年の齢十七八ばかりなる女房(にうばう)の、十二単を重ねて紅の袴を*ふみしたひ、*三十二相を具足して、簪は蝉の羽を並べ、する墨を流せるがごとし。白金の*機(はた)あしに黄金の杼を持つて機を織りておはしますが、迦陵頻の御声にて、「何者なれば我が住む所へ来たるぞ。」とのたまひて出で給ふ。平太畏まつて申しけるは、「これは鎌倉殿の御使ひに、三浦の一門和田の平太*胤長と申す者にて候ふ。」と申しければ、かの女房のたまひけるは、「何者が使ひなりとも通すまじきなり。おして通るものならば、たちまち命を取るべきなり。」とのたまへば、*平太心に思ふやう、「いかに日本を持ちたればとて、命があればこそ所領もほしけれ、痴れたる事をばせぬものぞかし。汝は今年十八になると覚ゆるなり。三十一といはん春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡に戦ひて討たれむずるなり。早々帰れ。」とありければ、平太この由承つて岩屋の奥を見ぬ事無念さ申すばかりなけれども、女房の仰せなりければ、力及ばず帰りける。

(注)段金=中国産の錦の一種。

   括り=狩衣などの袖や裾に付けてある紐。

   胴金=鞘や柄が割れないように中ほどに付けた環状の金具。

   持たせ=使役なら部下を伴ったことになる。

   簀の子を描きたる=とぐろを巻く形容か。

   ふみしたひ=語義未詳。

   三十二相=仏の備えている三十二のすぐれた相好。転じて女性の美しい容貌。

   機あし=機脚か。踏板(ペダル)のことか。

   胤長=ここから正しい氏名になっている。かなり書き誤りが多い本文である。

   平太心に思ふやう=こう書いたあるが、以下は明らかに女房の言ったことであ

    る。胤長は確かに三十一歳で誅殺されているがこう言われて納得するのだろう

    か。女房が平太の心に訴えたのだと解する。347,474のほうがわかりや

    すい。

 

かくれ里(劉阮天台)-異郷譚3ー

 「異郷譚」の三番目に取り上げるのは「かくれ里」(赤城文庫蔵)です。「室町物語大成」によれば、寛文か延宝ごろ(17世紀後半)の絵巻だそうです。題を欠いているため仮に「かくれ里」とつけたようですが、内容は「劉阮天台」呼ばれ画題にも採られているものですのでそれを副題に付けました。

 「幽明録」に「天台二女」という題で収められていて、高校の漢文の教科書にも採られています。また、日本では鎌倉初期の源光行の「蒙求和歌」に末尾に「ふるさとはありしにもあらず来し方に又かへるべき道はわすれぬ」という和歌を添えて載っています。叙述はこの二書より詳しいです。狩野派の手による絵巻らしいので絵に添えて文章も潤色したのかもしれません。でも前の紹介した「蓬莱物語」「不老不死」ほどは衒学的でないのは絵の邪魔にならない配慮でしょうか。主人公の劉晨と阮肇が「りうしん」「けんてう」とひらがなで書かれていたので出典を捜すのにやや手間取りましたが、インターネットは調べ物には非常に有効だと実感しました。何回か検索したらヒットしました。

 割と有名な話なので紹介するまでもないのかもしれません。まあとりあえずお付き合いください。

 

 唐土天台山に隠れ里がありました。世間ではこれを知ることはありませんでした。

 ところが後漢の明帝の御時、永平十五年壬申(みずのえさる)の年(後72)に、剡県の劉晨・阮肇という者は天台山に霊薬があるという事に聞き及んて、二人は相伴ってその山に分け登ったということです。その天台山という山は台州という国の天台県の北にあって、数百丈の滝の流れがあって、険しく厳めしい山でした。

 この二人は山に分け入って、ここかしこに薬を尋ね求めて、やがて日も暮れてしまおうとするので、自分の里に帰ろうと思って、麓の道に下ろうとしたのですが、忽然として自分の来た道を見失って、どう行ったらいいかわからなくなりました。どうしようかとあちらこちら彷徨っているうちに、二人とも疲れて目はくらみ気も失うようで、歩みももたどたどく、路傍に腰をかけて休みました。そしてそのあたりを見回しますと桃の木があります。桃がたわわに実っています。二人が大いに喜んでこの桃を取って食しますと、疲れもとれて身も爽やかなりました。

 さて、それから山を下ると、谷川に着きました。そこで川に下り流れに浸かり、水を飲んだり手足を洗ったりしていますと、川上の山間から菜っ葉が水に浮かんで流れてきました。怪しく思っているとふところ今度は胡麻飯ののついたお椀が流れてきました。二人は、「ここは人里近い所なのだろう。それならばこの川を渡っての山に上ってみよう。」と語り合って早速川を渡ったのですが、水の深さ四尺余りで、二人手を取りあって向かいの岸に上がって見やると、人里があると見えて煙がむらむらと立ちのぼっています。「きっとあそこはぞ人の住む所に違いない。」と喜び急いで下ると、再び谷のみぎわに出ました。

 その谷の傍らに美しい女子が二人います。見目形は実に優美で類ない粧いです。二人の前に立って向かって言うには、「もしもし劉晨・阮肇殿、あなたたちがここにおいでなさることはあらかじめ承知していたので、ここまで御迎えに参っていたのですよ。どうしてこんなに遅くなったのですか。お急ぎなさいませ。我が宿にご一緒に参りましょう。」と。二人はこれを聞いて大いに驚き、不思議に思いました。「どこともわからない山中を迷い歩いて心もとない時に、このように細やかなお言葉をかけてくださるとは、夢ともうつつともわかり難いことです。」と申し上げますと、女子は、「何をお疑いなさるのですか。あなたがたとは前世から契りを深く結んだ仲ですので、今このようにあなたがたはいらっしゃったのですよ。夢などとは思いなさるな。」と言って二人を一緒に伴って宿所へ帰ったのでした。

 劉晨・阮肇が案内された場所に着いて女子たちの住家を見申し上げますと、想像も表現もできない程の素晴らしさです。白金(しろがね=銀)の築地の内に七宝の宮殿が立ち並び、三方に黄金の門が開かれています。庭には宝石の砂を敷き散らし、天井には錦の帳を懸け並べて、七宝の瓔珞が春風に翻る有様は、まことに帝釈天の喜見城の厳かな飾りつけはこのようなものだろうかと思うほどです。

 さて、宮殿の内に入ってみると玉の石畳を敷物のように敷き詰めています。劉晨・阮肇の二人をこの床の上に招いて上らせて座らせ、女子も同じように向か合って座に居ずまいを正します。青衣を着た召使いの童女が珍しい料理が並べられた膳を捧げ持って来て四人の前に供えます。これを見るとに山海の珍しい物を揃えてさもざまな味付けで調理したもので、目にも耳にもしたことのない飲食です。やがて食事がすんで、黄金の盃が運ばれてきました。次に白金の銚子が出てきてこれを二人に勧めます。飲んでみるとその味わいは、世の常の酒とは全く違います。これは天の甘露というものでしょう。この酒を飲むやいなや、心は澄み透り晴れやかになって、身も軽やかに思われました。お仕えするものは、みなみな女子や男子の中でも比類ない者と見えます。その男女の見目形が美しく、きらびやかなことは、天女の姿もこのようなものなのでしょうか。

 さて、夜に入ると今度は種々の珍しい果実を提供して和ませてくれます。この宴の席に玉の簪を挿した女房たちが十人ほど入って来なさって、このようにおいでなさったことを言祝いで、桃を三つか五つ差し上げなさいました。これは世の常の桃ではありません、三千年に一度花が咲き実の成る崑崙山の桃の種からとれたものです。二人はこれを賞玩します。主人の女子はそこで次の様に語りました。「ただ今おいでになった女房たちはこの辺りに門を並べてお住みになっている人々です。あなたがたが思いがけずここにおいでなさったのをお祝いしていらっしゃったのです。」。劉晨・阮肇は喜んで礼儀正しく言葉を尽くしてお礼を言いました。そして女房たちにも酒を勧めなさいます。あなたこなたと盃が回され、酒宴は延々と続き人々は興に乗じて楽しみなさいました。

 二人の女主人は、琵琶・琴を取り出してお客様である女房たちの前に置きなさいます。女房たちは瑠璃の宝石をちりばめて飾った(瑠璃の宝石のように美しい)御手で弾きなさいます。その音声の妙なることは、まことにたとえようもございません。その音色に驚いて、鳳凰も舞い下り竜神も浮かび上がるほどです。やがて管絃の宴も果てたので客人の女房たちは暇乞いをして帰りなさいます。主の二女は劉晨・阮肇を誘って夜の臥所(ふしど)に入りなさいます。比翼連理の語らひである男女の契りは浅からず、明かし暮らしているうちに、十五日ほど過ぎると、劉晨と阮肇には故郷に帰りたいと思う心がもたげてきました。二女はこれを悟って様々に慰めもてなして、楽しみで万事を紛らわして月日を送りました。その所の景色はいつも春三月の天候のようです。野山は花盛りです。また木の実のなっている木もあります。草はみな五穀の類の稔るものばかりです。何百匹の鳥が木々の梢で囀り、もの寂しいなどということは全くありません。

 このようにして半年ほど過ぎた時、劉晨・阮肇が二女に、「われらが故郷を出た時はただちょっと山に入って薬を取ろうと思ってここまでやってきたのです。このようなの所に来てこんな楽しみを受けようとは、夢うつつにも思いも寄りませんでした。ですからいつまでもこうしてはいられません。ここにいるのはじつに喜ばしいことですが故郷も恋しゅうございますので、今は一度帰って老いた母、幼い子供などに逢ってよくよく暇乞いして、その後また参りましょう。」と申し出たので、二女はこの由をお聞き入れなさって、「確かにあなたがたの仰せになるように故郷を恋しく思われるのも気の毒に感じます。一旦お帰りなさって父母をも拝み、妻子にも会ってその後にまたおいでなさい。お待ちいたしましょう。」と言って暇乞いの宴をして送り出しました。

 童女を招いて、「あの人々を大唐国に送り届けよ。」と申されたので、承知しましたと申して童女は劉晨・阮肇を導いて山の洞を出て谷に下り、それから多くの山を越して麓に下ると大きな道に着きました。ここで童女は、「これより東に向かって三里ほど行きなされば人が大勢行き交う道に出なさるでしょう。」と教えつつ暇乞いをして帰りました。劉晨・阮肇はそが教えのとおりに東を差して歩みますと、人里が近いと見えて煙がかすかに立ち上る様子です。たしかに人里に近づいているようだと思って進んでいくと、人が大勢行き交う道に出て、剡県へ行くべき方角を尋ねて、終に故郷へ帰り着きました。

 さて、剡県の里に着いてみるとかつてあった住家も見えず、家があったと思われる所は田や畑などになっていて、どこを見てもかつて見たような所はありませんでした。まして顔見知りの人などいません。これはどうしたことかと不思議に思ってある家に立ち入って、「この里に劉晨・阮肇という者の妻子がいたと思うのですがどうなったのでしょうか。」と尋ねますと、主はそれを聞いて、「そのような人の名は聞いたことはございません。」と答えます。ここかしこの家々に立ち入りしかじかの事情を語って問いますと、ある家の主がこの由を聞いて、「たしかに世間の語り草としてそのようなことを伝え聞いております。昔漢の時代に劉晨・阮肇という人が、天台山に薬を取りに入って終に帰らなかったと。今教える方がその人の七世の孫です。」と言って劉し(劉氏?劉子?)の家を教えました。二人がそこを訪ねて対面すると劉しは年八十ほどの翁でした。しかじかと事情を語ると、その翁は、「その人々のことは既に二百年昔の事です。何故に今になってお訪ねなさるのですか。」と言うので、劉晨・阮肇、なんともこの者は不思議な事を言うのだろうと思いました。詳しく説明しようと思って二人は答えました。「我らはなんとその古の劉晨・阮肇という者です。かの山の中に住暮らしていたのはわずか半年ばかりのほどと思っていましたが、このように星霜年久しく積もっていたとはあきれたことです。今は父母にお会い申し上げることも、妻子を見ることも、この世ではかなわないことなのですね。」と言って嘆き悲しむと、主はこれを聞いて、「それでは我らのご先祖さまでいらっしゃいますか。昔我らが先祖にそのような事があったと親・祖父(おほぢ)が語り伝えなさっていましたが、名をのみ承っていましたのに、今まさしく御姿を見させたいただくとは不思議なことです。」と言って涙を流したということです。

 さて、里の人々はこれを聞いて不思議の事であるということで、家々からり老いも若きもこぞって集まって二人を見物し、みな不思議がりました。かくて劉晨・阮肇は暫くここに暮らしていたのですが、見知らぬ世界に伴侶・家族もいないので、何かにつけて心細く思われ、再びかの二女のもとを訪ねて天台山に入ったということです。晋の大康八年、丁未(ひのとひつじ)の年(後287)に、劉晨・阮肇は隠れ里に入って行方知れずとなりました。

原文

 唐土天台山に隠れ里ありけり。世にこれを知ることなかりき。

 しかるに後漢の*明帝の御時、永平十五年壬申(みずのえさる)の年、剡県の劉晨・阮肇と云ふ者天台山に*よき薬のありと云ふ事を聞き及びて、二人相伴ひかの山に分け登りけり。かの天台山と云ふ山は台州と云ふ国の天台県より北にあり、数百丈の滝の流れあり、険しく厳めしき山なりけり。

 かの二人山に分け入り、ここかしこにて薬を尋ね求めて、*やうやう日も暮れなんとするほどに、わがふるさとに帰らんと思ひて、麓の道に下りしが、たちまちに元来し道を失ひて、行くべき方も弁へず。いかがせんとてかなたこなたを巡り惑ふほどに、二人ともに疲れに臨みて目暮れ心消え、歩むもたどたどしかりければ、傍らなる橋(端?)に腰をかけて休み居たり。またそのあたりを見れば*桃の木あり。桃盛りに成れり。大きに喜びてこの桃を取りて食しければ、疲れも助かりて身も涼やかになりにけり。

 さてそれより下るほどに、谷川にぞ着きにける。すなはち川に下り浸り、水を飲み足手を洗ひなどして立ち居たるに、その川上は山間なるが*菜の葉水に浮かみて流れ出でたり。怪しく思ふところに胡麻飯のつける杯流れ来たれり。その時二人相語りていはく、「このところは里近き辺りなるべし。さらばこの川を渡りて向かひの山に上るべし。」とてすなはち川を渡るに、水の深さ四尺余りなりければ、二人手を取り組みて向かひの岸に上がりて見れば、人里ありと見えて煙むらむらと立ちのぼる。「さてはここぞ人の住む所なるべし。」と喜びて急ぎ下るほどに、また谷のみぎりに出でにけり。

 その谷の傍らに美しき女子二人あり。見目形世に優れ類なき粧ひなり。二人の前に立ち向かふていふやう、*「いかにや劉晨・阮肇汝たちここに来たり給ふことを、かねてよく知りぬる上に、ここまで御迎へに参りぬ。何ぞや来たり給ふことの遅かりしぞ。急がせ給へ。我が宿に伴ひ行き侍らん。」と云ひければ、二人の人々これを聞きて大きに驚き、怪しく思ひけり。「そことも知らぬ山中を惑ひありきて覚束なき折節に、かく細やかにのたまふこそ夢うつつとも弁へ難けれ。」と申しければ、女子の曰く、「何をか疑ひ給ふ。御身たちと先の世より契り深く結びし故にただ今ここに来たり給へリ。夢と*な思ひ給ふそ。」とて二人ともに相伴ひつつ宿所へぞ帰りける。

 劉晨・阮肇かしこに到りて女子の住家を見奉るに、心も言葉も及ばれず。白金の築地の内に七宝の宮殿を立て並べ、三方に黄金の門を開きたり。庭には玉の砂子を敷き散らし、天井には錦の帳を懸け並べ、七宝の*瓔珞春風に翻る有様、まことに*帝釈喜見城の荘厳もかくやと思ふばかりなり。

 さて、宮殿の内に入りて見れば玉の石畳の褥を延べたり。劉晨・阮肇二人をこの床の上に招き上せて座せしめ、女子も同じく相向かふ座に居直りけり。*青衣の童女*珍膳を捧げ来たつて四人の前に供へたり。これを見るに山海の珍物を揃へて百味の調したれば、未だ目にも見ず耳にも聞かざる所の飲食(おんじき)なり。食やうやくすんで後、黄金の盃もて来たれり。次に白金の銚子もて出でてこれを勧む。飲みてみるにその味はひ、世の常の酒にはあらず。これは天の甘露といふものなるべし。この酒を飲みしよりも、心澄み透り晴れやかにして、身軽らかに覚えけり。宮仕えするものはみなみな女子や男子の類なきところと見えたり。その男女の見目形美しく、きらやかなること、天女の姿もかくやらん。

(注)明帝=後漢第二代の皇帝。永平十五年は、後72年。

   よき薬=「幽明録」では「谷皮」とある。

   やうやう日も暮れなん=一日の出来事であろう。「幽明録」では13日彷徨った

    とある。

   桃の木=桃は霊性を感じさせる。また「桃花源記」をも連想させる。

   菜の葉=「幽明録」では「蕪菁」とある。

   「いかにや・・・=「幽明録」では劉・阮がお椀を手に持っているのを見て女た

    ちは笑ったとある。わざとお椀や蕪を流して劉・阮が来るように誘ったという

    ことだろう。来るのが遅いのをなじるのはそのせいである。

   な思ひ給ふそ=「な思ひ給ひそ」であるべきところ。禁止の意。

   瓔珞=天蓋にぶらさげる装飾。

   帝釈喜見城=帝釈天の居城。須弥山の頂上、忉利天の中央に位置する。

   青衣の童女=青い衣は賤しい召使の衣服。また青衣は采女を指す言葉でもある。

   珍膳=珍しい料理。

 さて、夜に入りしかば種々の珍菓を供へて慰めけり。かかりける所に玉の簪したる女房たち十人ばかり入り来たり給うて、かくのおはすことを喜ばしめて、すなはち桃を*三五供へ給ふ。これは世の常の桃にはあらず、三千年に一度花咲き実成る*崑崙山の桃の種なり。二人これを賞玩す。主の女子すなはち語りて曰く、「ただ今来たり給ふ女房たちはこの辺りに門を並べて住み給ふ人々なり。*汝たちのたまさかにここに詣で給ふことを喜びにおはしつるなり。」とのたまへば、劉晨・阮肇喜びて礼儀正しく言葉を尽くしけり。かの女房たちに酒を勧め給ふ。あなたこなたと盃巡りて、酒宴やや久しく人々興に乗じ給ふ。

 主の二女、琵琶・琴を取り出だして各人(まらうど)の女房たちの前に置き給ふ。*瑠璃を延べたるごとくなる御手をもつて弾き給ふ。その音声の妙なること、まことにたとふべきかたぞなかりける。鳳凰も舞ひ下がり竜神も浮かび出でるばかりなり。やうやう管絃も過ぎしかば客人の女房たちは暇乞ひして帰り給ふ。主の二女は劉晨、阮肇誘ふて夜の臥所(ふしど)に入り給ふ。*比翼連理の語らひ浅からずして、明かし暮らしけるほどに、十五日ばかりになりし時、劉晨・阮肇故郷に帰らんと思ふ心出で来にけり。二女これを悟りて様々に慰めもてなしけるほどに、楽しみによろづを紛らはして月日を送りぬ。その所の*景気はいつも春三月の天気のごとし。野山に花盛んなり。あるいは木の実なれる木もあり。草はみな五穀の類より外の草なし。*百の鳥木々の梢に囀り、もの寂しきことはあへてなかりけり。

 かくて半年ばかり過ぎし時、劉晨・阮肇二女に語りて申すやう、「われら故郷を出でし時はただかりそめに山に入りて薬を取るべしとてここに詣でつるなり。かやうの所に来たりてかかる楽しみを得べしとは、夢うつつにも思ひ寄らざる次第なり。いつまでもかくてあるべき。まことに喜ばしけれども故郷も恋しく侍れば、今一度帰りて老いたる母、幼き子供などに逢うてよくよく暇乞ひして、またこそ参り侍らめ。」と申しければ、二女この由を聞き給うて、「げにも汝たちの仰せらるるごとくに故郷を覚束なく思ひ給ふらんこともいとほしければ、一まづ帰り給うて父母をも拝み、妻子にも逢うてその後また来たり給へ。相待ち申し侍らん。」というて暇乞ひして出だしけり。

 *丱女を招きて、「あの人々を大唐に送り届けよ。」と申されければ、承ると申して劉晨、阮肇を誘ひ山の洞を出でて谷に下り、それより山をあまた越して麓に下れば大なる道あり。ここにして丱女の曰く、「これより*東に向かつて三里ばかり行き給はば人あまた行き交ふ道に出で給ふべし。」と教へつつ暇乞ひして帰りけり。劉晨・阮肇は彼が教へのごとくに東を差して歩みければ、人里近しと見えて煙かすかに立ち上る気色こそすれ。いかさま人倫に近づくよと思ひて出づるところに、人あまた行き交ふ道に出でて、剡県へ行くべき方を尋ね問ひて、終に故郷へ帰り着きにけり。

 さて、剡県の里に到りてみればありし住家も見えず、家ありし所と覚えしは田となり畑となりなどして、いづくを見れども元見し所はなかりけり。まして見知りたる人もなし。こはいかにと怪しく思ひてある家に立ち入りて云ふやう、「この里に劉晨・阮肇と云ふ者の妻子の候ひしはいかになり候ふやらん。」と言ひければ、主聞いて、「左様の人の名は聞きも及ばず。」とぞ答へける。ここかしこの家々に立ち入りしかじかの由を語りて問ひければ、ある家の主この由を聞きて、「まことに世語りにさやうの事を聞き伝へて侍り。昔漢の代に劉晨・阮肇といひし人、天台山に薬を取りに入りて終に帰らずと。すなはちその人の七世の孫なり。」とて*劉しが家を教へけり。二人かしこに臨んで見るに劉しは年八十ばかりの翁なり。しかじかの由を語りければ、かの翁申すやう、「その人々のことは既に二百年あまりに及べり。何故に今尋ね給ふぞ。」と言ひければ、劉晨、阮肇、いかさまこの者不思議なるものと覚えたり。語らんと思ひて二人答へて曰く、「我らはすなはち古の劉晨・阮肇と云ふ者なり。かの山の中に相住みしことわづかに半年ばかりのほどとこそ思ひつるに、かやうに星霜年久しく積もりけるにや。あさましや、今は父母に会ひ奉らんことも、妻子を見侍らんことも、この世にてはかなふべからず。」とて嘆き悲しみければ、主これを聞きて、「さては我らが先祖にておはしますか。昔我らが先祖にしかじかの事ありと親・祖父(おほぢ)の語り伝へ給ふに、名をのみ承り及びつるに、今まさしく御姿を見奉るこそ不思議なれ。」とて涙を流しける。

 さて、里の人々これを聞きて不思議の事なりとて、家々より老少こぞりあひて二人の人を見物し、とりどりに怪しみをなしけり。かくて劉晨・阮肇は暫くここに住みしかども、知らぬ世界に伴ふ方もなきところなれば、よろづにつけて心細く覚えしかば、またかの二女のもとを訪ねて天台山にぞ入りにける。晋の*大康八年、丁未(ひのとひつじ)の年に、劉晨・阮肇隠れ里に入りて行き方知らずなりにけり。

(注)三五=三つか五つ。十五個ともとれるが、ちょっと多いだろう。「幽明録」では

    「三五桃子」とある。

   崑崙山の桃の種=種は実のことか。もしくはその種から育った実か。崑崙山の桃

    は西王母伝説に見える、一つ食べれば三千年生きるという桃。

   汝たち=「幽明録」では「賀汝婿来」とあり、婿入りの祝言の扱いである。ちな

    みに女房の数は3、40人。

   瑠璃を延べたるごとくなる御手=この形容はよくわからない。瑠璃をブレスレッ

    トとして腕いっぱいに装飾しているのであろうか。

   比翼連理の語らひ=男女の深い契り。「長恨歌」に見える。

   景気=様子。有様。

   百の鳥=「幽明録」では逆に百の鳥が望郷を促したとある。

   丱女=童女

   東=中国では、東が平地や海、西が山や異郷というイメージがある。実際川は原

    則的に東流する。

   劉し=劉子、劉氏か。劉晨の後裔。

   大康八年=後287年。丁未。後漢の永平15年からは215年後。

不老不死全編-異郷譚2ー

上 その一

 昔から今に至るまで素晴らしいことと語り伝えられているものとしては、かの不老不死の薬にまさるものはないでしょう。

 その昔、天竺では耆婆という人はこの薬を伝え聞いて、自らもこれを服して、生きながら天上に行って大仙人となったということです。この人は中天竺の王舎城の主、瓶沙王の妾腹(めかけばら)の皇子です。母は奈女とか申したそうです。この女性は父も母もいなく、スモモの木の根本より生まれ出たといわれる美しい姫君で、ある人が拾い取って養育しましたが、日に日に成長して、世に類ないほど美しく光輝くほどで、五天竺に並びなき美人としてその誉れは隠れないものでした。八か国の大王たちは皆噂を聞き及びなさって、「私の所へ参内せよ。」「あの方の元へ嫁ぎなさい。」と使者がひっきりなしに訪れます。女性はたった一人です。求婚なさる御方はそれに対して八か国の大王たちですから、養い親もどの方に献上しようとも、全く判断がつかないので、高い楼閣を作って、その上に奈女を上らせ住ませて申します。「八か国の大王いずれかを特別扱いしてその他の方を疎かにいたすことはできません。養女ははただ一人です。この上はどなたでも構いません、力比べでお取りください。」と。かくて八か国の大王は、軍隊を編成して、女が置かれている楼閣の元に押し寄せ、各々がこれを奪い取ろうとして、合戦に及んで、どの敵ということなく、互いに討ち合って戦うほどにその日もすっかり暮れてしまいました。

 さてその時、中天竺の瓶沙王は謀(はかりごと)を廻らし、夜になってひそかに楼閣の上に上がり、女を奪い取って、誰にも気づかれずに王舎城に帰ってしまいました。夜が明けて後、再び王たちは押し寄せて楼閣を仰ぎ見ましたが、かの女はどこに行ったか分かりません。八か国の兵どもは不本意ながらも、力を落として各々本国に帰りました。後に瓶沙王こそこの女を奪い取ったのだと、世間に知れ渡りましたが、今となっては仕方ないことと、諸国の大王たちも臍を噛む思いでした。また、一方では王舎城に押し寄せて合戦をしようという評定も行われたそうですが、女ゆえに合戦をして国を乱したそうだと後の世までも語り伝えられるのも口惜しいことだと、思いとどまりなさった大王もあったということです。さて、瓶沙大王は謀をもって女を盗み取って帰りなさり、この上なく寵愛なさって、ついに奈女は皇子を孕んでこの耆婆を産んだのです。

 耆婆は生まれる時に両の手に薬の袋を握って生まれたので、まことに奇特のことであるということで、西天竺の山中にいた彌婁乾陀という仙人の元に遣わして薬の道を習わせなさいましたが、たった九十日の間に悉く理解しました。城に帰ってますます精進努力をして、七表八裏九道の二十四脈に通達し、人の体の十四経の動脈・十五絡の静脈、縦横の血管の筋を理解し、四百四十種の病の原因を知り、温涼補瀉の薬方を悟り、君臣佐使の薬方を悟って、人の病を療治すると、治癒しないことは全くありませんでした。

 ある時、耆婆が高い楼閣に上がって、市場の露店を見ていたところ、二十歳ばかりの男が柴を担いで売っていましたが、この男の身の内、十四経十五絡の血脈、三百六十の血管、九百分の筋肉、四十九重の皮膚、十二の骨の関節、三百六十の骨の節々、五臓六腑まで透きとおって、まるで水晶の玉を磨いて、ものを透かしたようでした。耆婆はこの姿を御覧になって、「確かそう大雪山の峰には薬王樹というものがあるそうだ。この木の枝を人に近寄せると、人の身の内は透きとおって、病気のある所ははっきりわかるという。しかしこの山は人の行けるような所ではないので、名のみは聞いても世間では持っている者はいないと彌婁乾陀仙人が語っていたが、この柴の中にきっと薬王樹があるのだろう。」と思い、この柴を買い取って束を解いて一本づつ人の身に当てたところ、その中に枝一つあまり見慣れない柴でしたが、この枝を当てて見ると、紛れもなく人の五臓が透きとおって見えたのです。この薬王樹を求め得てから、いよいよ療治するに、掌を指すように的確にたやすくできたのでした。

 しかしこの人はまさしく大王の子ではありましたが、妾腹に生まれて王となすことはできないということで、后腹の皇子阿闍世太子が、御弟ではありますが春宮(皇太子)に即位なさり、耆婆は大臣の官位を下されて、領国を賜りましたが、間違いなく長兄なのに弟と取り違えれれて、即位できないことを恨んで、自分で不老不死の薬をなめて、生きながら忉利天へと雲を分入って上り天仙となったということです。

 その二

 また唐土の古代では、三皇五帝のその昔、神農と申した聖人がいらっしゃいました。天下を保ち国を治め民の病を憐れんで、草木の味わいを嘗め分けて、薬というものを始めて施しなさった方です。体を養い性を養い命を延べるために、上品・中品・下品・の薬の品を一年三百六十日にたとえて、三百六十種上中下合わせて一千八十種の薬を寒熱補瀉に分類して、本草経三巻を著述なさったのは素晴らしいことです。

 さてその後、軒猿黄帝と申す帝の時、天老・岐伯などという仙人が臣下となって政務を執り行いましたが、これに対して人の病気・身の養生・天地の廻り・薬の分類などを様々問答しなさいました。それを書き記して「素問内経」と名付けられました。黄帝は不老不死の薬を伝授され、鼎湖峰という所でこれを嘗めなさって、たちまちに天上の仙人となられました。その時天上から全長十丈ほどの大蛇が天下りして、黄帝はこれに乗りなさって、お供の臣下十余人を伴って天上に上がりなさいました。

 山の上には数多くの仙人が隠れ住んでいましたが、人里の騒がしさを嫌って立ち現れることもなかったのですが、その中で秦越人扁鵲は薬の道を悟り、人の身の内を明らかにし、「八十一難経」を著して、名医の誉れ世に高くていましたが、不死の薬を服して仙境に隠れたということです。

 仙人の話は数多くありますが,、その中でも特に素晴らしいものと語り伝えられていますものとしては、淮南王劉安という方です。この人は智慧は博く学を極めた方で、命を延べる薬を求めて山の中に分け入って、黄精・伏兎などというもろもろの薬種を尋ねていました時に、八人の翁に行き会いました。この翁たちは岩の洞にすまいして、薬を練って服していて、老いた容貌は若やいで、十六七の童子の姿を保っていたのです。劉安はこれを見て、間違いなくこの八人の翁はこの山中に住む仙人であると思って、近く立ち寄って、さまざまな礼儀を正して、この薬の方術をお教えくださいとお願いすると、すぐさま懇切丁寧にこれを教えて八人の仙人は雲に乗って飛び去ったということです。劉安は教えのごとくにこの薬を練って、自らこれを服したところ、心もさっぱりし身も軽やか思われたので、試みに虚空に飛び上がると鳥のように軽く舞い上がります。そうして仙術を習得し、終には天上に上がったということです。その薬を練った銀の鍋、黄金の臼に残った薬を、犬や鶏が集まって喰らったところ、その犬も鶏も皆天上に飛び上がります。ですから「犬は天上に吠え鶏は雲間に鳴く」と「神仙伝」に書かれているような犬や鶏の習性はこれに由来するのです。

 また尸解仙と申す仙人は容貌が衰え寿命が迫ってくると、その体を地に臥せて後ろからまるで蝉が脱皮するように背中が裂けて若い童子となって出てくるのです。残った屍は透きとおって空蛻(ぬけがら)の殻のようでした。

 鉄械という仙人は常に鉄の鹿杖(かせづえ)に薬の袋を結び付けて担いでいたので、鉄の鹿杖と文字に書いて鉄械と名付けられました。薬を練って食とし、五穀を食べることはなかったそうです。山中を住家として心楽しく暮らしていました。その容貌が年齢を重ねて年衰えていくと、高い巌に腰をかけてかの鉄の鹿杖にすがって、虚空に向かい大息を吹き出すと、その息が薄雲のようになって息の端に十五六歳ほどの童子の姿が現れ映って、元の体はもぬけの殻となったといいます。年積もり齢が傾くといつももぬけて若やいだので、間違いなく不老不死の方術といえるでしょう。

 その他に、東方朔・費長房・丁令威などという輩は、皆長生不死の道を悟ってその誉れは世に高いものでありました。

 その三

 唐の時代に孫子邈(孫思邈、そんしばく)という者がいました。生来薬の道に詳しく、人の病を癒す方法にはこの上なく明晰でありました。その孫子邈がある時道を行くと俄かに空がかき曇り黒雲が四方に垂れこめて、夜の帳をおろすように暗くなり、墨を擦ったように視界は真っ暗で、漆黒となった雲の内から輝き出た稲光は、まるで火が降りかかったようでした。鳴り響く雷の音は、山も崩れ岩も砕けるようです。雨がしきりに降って土砂崩れするかと思われて、車軸を流すような大雨で孫子邈は心も動転しました。恐る恐る、生い茂るする木陰に隠れて難を避けようとすると、再び雷がパーンと鳴り響いて、何だかわからないのですが立ち寄った木の本にどうと落ちるものがありました。孫子邈は耳もつぶれる心地で、気が遠くなったのですが、心静めてじっと見ていると、雲は晴れ雨も止みました。

 そこに十四五歳と思われる左足を挫いたと思われる美しい童子がいて、孫子邈に向かって申します。「私は海中の竜宮世界に住んで、阿香竜王という者です。雲を起こして雨を降らして人間界の草木五穀を養う者です。今日もまた雲を起こしこれに乗って虚空を巡り下界に雨を施したのですが、思いがけず踏み違えて巌の上に落ちかかり左の足を挫きました。君よ願わくはこの怪我を治していただけないでしょうか。」と。孫子邈はそんなことは容易いことだと薬を与えたところ、忽ちその痛み癒えたのでした。

 童子は大いに喜んで、「とてもお世話になりました。このご恩に私の住む所にご招待いたしましょう。」と言って、孫子邈と連れ立って海のほとりに行ったところ、大海の水が二つに分かれて中に一つの道が現れました。その道をニ三里通り過ぎるかと思うと、一つの楼門にたどり着きました。銅でできた築地が高く峙って、数多くの七宝の幢幡が立ち並んでいました。門の内に入って見ると、黄金の砂が敷かれて瑠璃の石畳が長く続いています。さらにその奥に入ってみると、棟数三十六ほどの建物が並び立ち、廊から廊へと繋がれていて、そのものものしさはいいようもありません。鳳を象った甍は高く峙って、虹霓を模した梁が長く横たわっています。鴛鴦の瑠璃の瓦は、整然と並び、天空には銀の網が張られ四天の楼台には七宝の花が供えられ、幢が立てられています。宮殿楼閣には幾重にも珊瑚の垂木・瑪瑙の長押・水晶の欄干が並んでいます。それぞれに黄金の鐺(こじり)があります。銀の階・瑠璃の大床の綺麗美妙であることはいいようもありません。硨磲(しやこ)の簾に琥珀の縁(へり)を縫いつけて、真珠の瓔珞を垂れさせています。沈檀の名香の空薫(そらだき)の香りが奥ゆかしくいいようもございません。半分ほど巻き上げてある簾の内を見るとば螺鈿の曲彔(きよくろく)には豹・虎の毛皮を懸け、蜀江の錦や呉郡の綾といった美しい掛け物が施された褥や床もあります。その傍らには諸々の音楽の楽器が数限りなく並び立ててあるのです。

 三番目の楼閣は遊覧の時の御殿と見えて、庭には金銀の砂を敷き四季のありさまを目の前に展開します。

 東は春の景色で、軒端に近い梅が枝の花は、去年降った白雪が消えずに色を残しているのかと疑われ、その匂いを愛でて鶯が、谷の扉を出て来て、声も耳新しく鳴いています。寒さの名残りの薄雪に、衣を重ねてしのぐように、着て更に着る如月(きさらぎ)ではありませんが、如月になると、山は霞がたなびいて、岸の青柳が芽を張る時に、その「目も遥る」ではありませんが、目も遥かに見渡しますと、ほころび初める桜の花は、もう盛りは遅いと残念がっているようです。松に懸った藤の花は、春の名残りを惜しがっているようです。

 南には夏の時を得て、立石の庭園の遣り水は水底清く、汀に生えるかきつばたは、色もひとしお濃紫で、花の匂いはとても奥ゆかしいのです。御殿に上がる階段のもとにある薔薇まで自分の出番を知っているように得意そうに咲いているのは麗しいことです。垣根に咲いている卯の花は、月か雪かは知りませんが、白妙と見える曙のくっきりした横雲の内から名乗るように鳴くほととぎすは、千載集や源頼政の歌ではありませんが、沼の岩垣が水をせきとめて、五月雨が文目(あやめ)のように乱れ流れるですが、そのあやめのように咲き乱れ、古今集の「五月待つ」の歌ではありませんが昔の跡を偲べとでしょうか、花橘の香りがにおっています。沢辺に乱れ飛ぶ蛍よ、「おまえも思いの火がから、身を焦がすのだろう」と詠まれた夕間暮れ、梢の涼しい蝉の声、その蝉が脱皮していくのも風情があります。

 西には秋の風が冴えて、萩の花が散る籬には、えもいわれず揺れてくねる女郎花。誰を招くのだろうか花薄。尾花は荻原にそよいで、声重げな蜩が、音を吹き送る夕嵐。風が吹いても散らない白菊の花に引き続き紅葉葉が、時雨に染まって薄く濃く見える風情です。むらがり乱れる雲の間から、漏れ出る月の影は冴えて、夜寒になると小牡鹿(さおじか)がが、妻を恋う声もぞっとするほどで、虫の音もまた弱っていきます。そのしみじみとした情感は秋が他の季節より優っているといえましょう。

 北には冬の空寒く、いとおしげに鷗が羽を交わして温め合います。霜の夜にはさぞや侘びしくしているのでしょう。薄が枯れていく焼野に降り積もる雪は深く、友を訪ねる道も埋もれて、軒の筧の水も氷っています。

 これを見、あれを見るにつけても、まったく見飽きない景色です。これはいったい天地の外なのだろうか、どのような国なのだろう、と思う心にも自然とこの上ない楽しみを感じるのでした。

 東には黄金の日輪を白銀の山の上に三十余丈の幢幡(はたほこ)の上に懸け、西には白銀の月輪を黄金の山の上に三十余丈の幢幡の上に懸けています。門には不老門、殿には長生殿と書かれた扁額が懸けられておます。その美妙綺麗で荘厳な飾りつけは心も言葉も及ばないものです。

下 その一

 さて、誘われるままに奥に入りますと、竜神は衣冠を正して出迎えて、孫子邈を七宝の曲彔に座らせ、自ら曲彔の椅子を横に並べ、礼儀に則った様子です。海の中全体にお触れを遣わして珍しい客人をもてなしました。海の各々は参上して接待をいたそうと、この仰せに従って夥しい数が集まりました。潮を呑んで気を吐くと雲となり雨となる威勢のいい鯨。青海原の水底からは限りないほど多くのふか。鬼一口を学んで人を一口でのみ込むというその名も知られた鰐。それぞれが巡らせる盃で酒を酌んで飲むのに因む鮭(さけ)。酔っては波を飛ぶのか飛び魚。眠りの夢は醒めるのですがそれに因む鮫(さめ)。満ちて来る潮にもまれても砕けない金頭(かながしら)の魚。甲貝ではありませんが兜の緒を締めて、腰に差したのは太刀ではありませんが太刀魚で、柄に手をかけるではありませんが鎌柄(かまつか)。名乗るのを聞くと法螺貝を吹くのではありませんが鯔(ぼら)。敵に姿を現わせなくてもに因む「あらわ𩶤(せん)」ではありませんが、いつもいくさに勝つに因む鰹。この城主ではありませんが鰶(このしろ)。その城主の手柄として、やがて天下を平らげるに因む玉珧(たひらぎ)。民の竈がにぎわうに因む若布(にぎは)。それは栄えではありませんが鱏(えい)という魚でしょう。天下が治まっているしるしとして、貢ぎ捧げる手は蛸の数ほどで、同じく数ある烏賊の手は、色もいっそう白く、その魚(しろいを)が、いとより(糸縒り)かかる柳のような柳葉魚(ししゃも)。君が袂を引くではありませんが熊引き。待って契った甲斐もなくではありませんが蟶(まて)貝。恋路に忍ぶ君が門ではありませんが鯉。近寄って安らごうとするではありませんが細魚(さより)。どうしてかつれなくも逢わないではありませんが鮑貝(逢わび)。月は暗い夜ではありませんが海月(くらげ)。夜もすがらの長き(牡蠣をかけるか)を侘びて夜泣きするのではありませんが夜なき貝。独り丸寝(まろね)は味気ないではありませんが鯵。浜千鳥の鳴き声だけが聞こえ、床までもいっそう冷(つべ)たいではありませんが砑螺貝(つべたがい)。暁を翔る鳥ではありませんが鳥貝。その声が八声鳴くと東が赤らむのに因む赤貝。雲がたなびくのではありませんが横蜘蛛蛸(くもだこ)。夜が明けたと告げる烏ではありませんが烏貝。世を渡る帆立舟ではありませんが帆立貝。憂しとは言わじ(言いません)ではありませんが鰯(いわし)。この上ない宝を持つのは福ではありませんが鯸(ふく)。豊作が続く種子(たなご)ではありませんが鱮(たなご)の魚。刈り入れて積む田ではありませんが田平子(たびらこ、鱮の異名)。米(よね)を作るに因む鰢(つくら)の魚。ただ何事も爽(さわ)らかではありませんが鰆(さはら)。めでたいめでたいといって鯛までも集まってきますが、その外、海老・蝤蛑(がざめ、がざみ)・螺(にし)・栄螺(さざい)・牡蠣・鮋(はえ、はや)・蛤に至るまで、名のある類は残らず来て竜宮城の大庭に群がる事は幾千万と数えきれないほどです。

 ここに奥の方から美しい竜女が二十余人、花を飾り裳裾を引いて出て来て、まずは管絃を演奏しました。嶰竹(かいちく)の横笛、泗浜の方磬、瑠璃の琴には師子筋の絃を張り、黄金の柱(ぢ)を立ててあります。琥珀の琵琶には珊瑚の甲、瑪瑙の腹、水精(水晶)の撥(ばち)を添えています。鐘山鸞竹の篳篥(ひちりき)には白金の口に湘江の芦の葉を舌(リード)としています。へきかいたうの緑竹の笙はハクビシンの骨髄で管を固め、玳瑁の太鼓は海馬(とどorせいうち)の皮で張って、七宝の鋲を並べて打ち、栴檀の木を撥としています。その外、和琴・鶏婁(けいろう)・鞨鼓(かっこ)・せいく(鉦鼓か)・柷敔(しゅくぎょ)・かくいん(?)・箜篌(くご)・銅拍子(どびょうし)・振鼓(ふりつづみ)・腰鼓などもろもろの楽器を思い思いに取り持って、演奏を初めた舞楽の曲目は、春の遊びに楽しみを極める庭の春庭楽。のどけき空に蜘蛛の子が糸遊(いとゆう)するのに連れだって散り飛ぶ柳の花のような柳花苑。梅の枝は匂う軒端に谷の鶯が囀る曲は春鶯囀と名付けられています。玉の植木に咲く花の盛りは今ぞと歌う後庭花。酒の杯を廻らすのか廻杯楽。雲の上にある十天を歌う十天楽。聖の道を学ぶとはこれが本当に五常であるが五常楽。恋路を知らせる想夫恋。竜の都に名を得た海青楽はことに趣深いものです。命が尽きるまでの万歳楽。寿命の久しさを歌う採桑老。舞人は誰ですか裹頭(頭を布で包んだ姿)で舞う裹頭楽。治まる御代の太平楽。時も移るので今は早や夜半楽を演奏しています。

 舞楽もやがて果てましたので、今度は百味の膳を調(あつら)えて孫子邈に勧めます。さすがに故郷唐土では珍しい、竜馬の肝・熊の掌(てのひら)・麞(くじか)の胎児・猿の木取(手足)・猊(げい)の醢(ししびしお)・人魚の炙り物と味わいよき肉の類、また東門竜蹄の瓜、鶏心盛陽の棗、くわいこう(開封か?)の搗栗、大宛の安石榴、桑郎(桑落か)の名酒、茘枝禄(れいしりよく)の酒などと、名高き物であるともてはやされて、世には稀なものばかりです。そうでなくても名さえ知らない珍しい木の実、すばらしい酒の味はどうであろうかと、食するに従い飲むに従って、心も晴れやかに身も軽く飛び立つばかりに思われるのでした。

 やがて宴が終わり時も経ったので竜神は座を立って、ひとつの巻物を取り出し、孫子邈に与えて、「君は我が子の患えを癒してくださいました。報恩に薬の道を伝えようと思います。よくこの処方に従って人の病を癒しなさってください。」と言ってさらにもう一つの巻物も開き、そちらでは不老不死の薬の処方を授けたのでした。

 今は御いとま申し上げますということで、孫子邈は竜宮城を後にしてあっという間に海をしのぎわが家にこそ帰りました。そして早速竜宮の神の処方に従い、「千金翼方」という書を著して名医の名のもとに人々を施療して、自らは不死の薬を服して天上に上ったということです。

 その二

 また秦の始皇帝は徐福という仙人にお命じになって、蓬莱山の不老不死の薬を求めさせなさいましたが、海は漫々として雲の波煙の波が立ちこめて影さえ見えませんでした.。風に任せ舟に任せて行きますと、南の海の中にひとつの山を見つけたのですが、蛟竜に舟は取り付かれて、思い通りに行くことはできませんでした。始皇帝はこのことを怒って連弩の石弓で蛟竜を撃ち殺しなさいました。しかし徐福はさらにその先に行くことはできず、日本の紀伊の国熊野の浦に逃げ来たと語り伝えられています。

 その後また漢の武帝と申した帝は、道士の五利文成という者に会って、不老不死の薬を求めなさいましたが、五利文世が申すには、「これより西にある大きな山(崑崙山)の内に仙人がおります。西王母といいます。この仙人はよく長生不老の方術をもって薬を服用し、容貌は衰えず年齢は傾きません。寿命は長く保って終わりが尽きて死ぬことはありません。この仙人を召して伝授してもらって学ばれたらいかがですか。」と。「それならどのようにして呼びよせたらよいのだろうか。」と武帝はおっしゃいます。五利文成は、「新しく御殿を建てて室内に錦の褥を敷いて、七宝の机に百味の食を供えて、帝は御身を慎み物忌みなさってお待ちなさいませ。それがしが行って帝の宣旨を申し入れてお迎え申し上げましょう。」と申します。武帝は早速五利文世の言葉の通りに、御殿を建てて供え物を用意してお待ちなさいました。こうして物忌みの七日目の午の刻に、虚空の間に五色の雲がたなびいて鸞鳥・孔雀その外山鳥の類が雲に従って翔けてきました。雲の内には音楽が聞こえ、よい香が薫り西王母が天から下って来臨なさいました。仙女十余人がお供を手に手に捧げているもののうちから、自分の園から採れた桃七つを瑠璃の鉢に積み上げて、これを帝に献上しました。帝は、「このような大きな素晴らしい桃は私の園では名前も聞いたことがない。この桃を植えさせてもらいましょう。」とおっしゃいました。西王母は、「この桃は人間の食すべき物ではございません。なぜなら、地に植えて後三千年で芽を出し、その後三千年で花を開き、更に三千年で実を結ぶのです。ですから九千年を経過しないとこの桃はならないのですから、人は食べたいといっても叶うことはできません。でもこの桃は私の住む所の園にはございます。桃をひとつを食せば三千年のを寿命を保ちます。それとは別に長生不死の薬を帝にお教えいたしましょう。」と答えなさって、自ら秘かに伝授いたしまして、三日三晩宴を催されて後、西王母は雲に乗って自分の住む山に帰りなさいました。武帝の臣下に東方朔という者がいましたが、こっそりこの事を立ち聞きして、その西王母の園の桃を盗み取って、三つまで食べてしまいました。残る四つの桃もどこへ持ち去ったのでしょうか、行方知らずとなりました。このようなわけで桃を三つ食べた東方朔は九千年まで命を保ったということです。武帝は不死の薬を嘗めて、常に仙人と交わりながら、天下を治めなさったのですが、御子の宣帝に御代を譲りなさって、五柞宮という御殿で天上にお上りになったということです。

 その三

 さて日本に不老不死の薬が伝来して知られることに関しては、神代の昔少彦名命(すくなびこなのみこと)と申す御神は、薬の道をもって天上下地あらゆる人々を施療して病を癒し、諸々の御神には不老不死の妙方を授け申し上げなさいましたので、諸神は皆悉く長生不死の寿齢を保ちなさいました。これを人の世に伝え残しなさらなかったのは、世の人がこの薬を頼りにして、いいかげんな政治をし、恣(ほしいまま)に驕りを極め、世を乱し悪事をなすことを恐れたからということです。そのようなわけでこの少彦名命はこの平安京垂迹し五条天神として祀られています。この神社で毎年の節分の夜には朮(うけら)の餅が供えられるのも、人の疫気を祓いなさる不老不死の薬の一部であるからとかいうことです。

 やがて人皇の世となって、その昔雄略天皇と申す帝の御時に、「これより南の海に蓬莱・方丈・瀛洲という三つの島がある。この山は諸々の仙人の住む所である。その内に不老不死の薬があって齢も傾かず命も尽きず、いつまでも変わらぬ世を保ち、常に楽しみある所なので、常世の国と名付けられている。」と語られていました。帝はある時、「数多の臣下の中で誰か蓬莱山に行って、不老不死の薬、ならびに香菓のくだものを取り求めて来る者はいないだろうか。」と言い出されました。公卿・殿上人数多い中で田道(たぢ)の間守の命と申す臣下が進み出て、「君の仰せならば、雲に上り地を潜っても、力の及ぶ限りお命じに背かず成し遂げいたしましょう。それがしが一葉の舟を浮かべて南海に赴いて、蓬莱山に尋ね行き、不老不死の薬を求め、香菓のくだものを取って帰りましょう。」と言って、すぐさま御前を罷り立って、大船を拵えて二百余人の供を召し連れて、南海の浜に行って北風を待って帆を上げ、梶を回らして蓬莱山に赴きました。

 やがて順風に任せて南の方二万里ほどを行ったかと思われるところで、大海の内にひとつの山を見つけました。これこそ噂に聞いた蓬莱山だろうと、みんな一同に喜んで舟を岸に寄せようとしましたが、荒い風が吹き下ろして波は高く吹き上がることはまるで雪の山に吹雪が舞うようです。舟は潮にもまれて、波に乗る時には天に上がるような心地がし、波を下りる時には水底に沈むようでしたので、水主(かこ)・梶取(かんどり)も力を失ない、どうにもならずおろおろするばかりでした。田道間守命は舷に立ち出て、北の方角に向って手を合わせて、「日本国天照御神、我れ今君の勅使として蓬莱山常世に国に赴くなり。願わくはこの風を留め給いて、この山に渡し給え。」と念願しなさると、まことに神の御恵みでありましょう、荒い風は静まり、波も止んだので大御神に陸地に舟を上げていただいたように、ほどなく蓬莱山の岸に着きました。

 この山の様子は、碧海の内から六つの亀が六方に並んで、その背中に山を載せて浮かんでいます。山は水晶輪の石畳が麓から峰まで到り、珍しい草木に花が咲き乱れ、暖かなことは常春の気色です。梢に見慣れぬ鳥が音色美しく囀るのを聞くにもまったく不思議な感じがします。

 そこに年の頃十六七と見える美しい仙人の女房が五六人が、岩の間を伝って出て来ました。田道の間守はその一人の袖を引いて、「私は日本の天子の御使いです。この山にあるという不老不死の薬を求めてやって来たのです。道案内をしてくださいませんか。」と言いますと、「日本の天子の御使いと聞きましたが、この所はたやすく人間の来るべき山ではありません、はるばるの波を凌いで渡りなさったからには、ただの人ではいらっしゃらないでしょう。こちらおいでなさい。」と言って道案内し申し上げて、岩の間の苔むした路を伝って行きますが、谷を越え坂を上る道すがらの有様は、匠が作る人工の山であってもどうしてこれほどの風景ができるであろうかとと思われ、その趣深さはこの上ありません。

 ニ三里ほど行くと一つの門に到りました。楼門の上に額があります。太真院と書かれています。門では五色の鬼が数多(あまた)厳しく門番を務めていましたが、仙女が帰って来たのを見て、みんな頭を地につけて礼拝しました。田道の命が門の中に入りなさると、七宝の宮殿は宝玉をちりばめて金の糸を縒って入れ違えにして飾り、軒と軒とは垂木を並べて、廊と廊とは長押でつながっていて、楼閣が幾重にも立ち並び、五色の雲が空にたなびき、音楽は演奏する人もいないのに自然と響き聞こえます。よい香りが満ち満ちて光り輝いています。理想郷を壺中の天地といいますがここを離れてどこに仙境があるでしょうか。乾坤(人間界)の外に来たような心地がして、仙女に告げてこれこれと申し入れたところ、仙人が数多く出てきて会い、日本天子の御使いよこちらへと奥の方に招じ入れました。その綺麗美妙なることは心も言葉も及ばないほどです。

 黄金の池の内には八功徳の水を湛え、岸を洗う波の音は琴のような調べで汀の松に届き、白銀の砂の上には迦陵頻・鳳凰・鸚鵡などという鳥が、羽先を並べて囀り舞って遊ぶのも趣深いことです。山から落ちる滝の有様は竜門三級の水のようで、さながら真っ白な布を曝すがごとくで、緑の水は川となって流れてその中には珍しい魚が住んでいます。繁茂する植木にはいろいろな花がその色を争うように咲き、木立ちは絵に描くこともできないほど素晴らしいものです。人の世では見慣れない果物が枝ごとにたわわに実っています。これを見、かれを見るにつけても全く感嘆するばかりです。

 しばらくして音楽が聞こえて蓬莱宮の大仙王の太真君が立ち現れなさり、日本国の御使いに向かって礼儀を尽くし様々にもてなし、そしてその後に瑠璃の壺に不老不死の薬を入れ、橘の果実を取り添えて勅使に差し上げなさいました。田道間守はこれを手に持って、すぐさま舟に乗りこんだので、数多の仙人は岸まで出て見送りのはなむけをしました。

 南の風に帆を張って、ほどなく日本の地に着きました。田道間守にとっては日本の地を出て以来、蓬莱山に赴いて今ふたたび日本の地に帰朝したのはそれほどの期間だとは思っていなかったのですが、なんと三十余年にも及んでいたのでした。帝は帰朝を待ち受けなさっていて、思いの外御年齢はおとりになっていましたが、田道はこの薬を天皇に献上いたしまして、天皇がこれをお召し上がりなさると、その齢は忽ちに若やぎなさいました。また香の菓の果物を早速南殿(紫宸殿)の右近衛の陣の座に植えなさいました。今の右近衛の橘です。橘は蓬莱宮の果物でしたが、この御世に始めて日本に伝わったという事です。

 天皇と間守はただ二人この方術を伝授されて不老不死の寿命を保ちなさいました。そうして四海波静かに治まる御代のしるしとして、麒麟が帝の御園生に来て、鳳凰は御溝の水に影を映しました。そのように天下泰平の徳は表され、国土安穏の恵みを示し、五日に一度吹く風は枝を鳴らさないほど穏やかで、十日に一度降る雨は土塊(つちくれ)を崩さない程優しく、五穀は成就し民は栄えることこの上ない御代だったということです。

原文

 *昔が今に至るまでめでたき事に云ひ伝侍るは、かの不老不死の薬にまさる物はなし。

 その上、天竺には*耆婆と云ひける人こそ此の薬を伝へ知りて、自らこれを服しつつ、生きながら天上にありて大仙人となりにけれ。この人は中天竺王舎城の御主、瓶沙王の御ためには妾腹(てかけばら)の皇子なり。母をば奈女とかや名づく。此の女には父もなく母もなく、李の木の本より現れ出でたりける美しき姫なりければ、ある人これを拾ひ取りて養ひ育て侍りしに、日に添へて生ひ立ちつつ、世に類なく美しう光出るばかりに見えたり。*五天竺に並びなき美人の誉れ隠れもなし。八か国の大王たち各々聞き及び給ひて、「こなたへ参らせよ。」「あなたへ遣はせ。」とて御使ひ隙もなし。女はただ一人なり。求め給へる御方はまた八か国の大王たちなればいづ方へ奉らんとも、さらに思ひ分けざりければ、かの女を高き楼閣を作りて、その上に上せ置きて申すやう、「八か国の大王いづれを取り分きて疎かにし奉るべからず。女はただ一人なり。この上はいづ方なりとも力比べに取り給へ。」とぞ申しける。かかりしかば八か国の大王より、兵(つはもの)をもよほし、女を置きたる楼閣の元に押し寄せ、各々これを奪ひ取らむとするほどに、すでに戦(いくさ)に及びつつ、いづれを敵と云ふこともなく、互ひに討ち合ひ戦ふてその日もすでに暮れにけり。

 ここに瓶沙王謀(はかりごと)を廻らし、夜に入りてひそかに楼閣の上に上がり、女を取りて王舎城に帰り給ふにさらに知る人なし。夜明けて後、また楼閣の元に押し寄せて見るに、かの女行方なし。八か国の兵どもはほいなきことに思ひながら、力なく各々本国に帰りける。後に瓶沙王こそこの女をば取り給ひけれと、世に聞こえしかども、今は力なしとて諸国の大王たちも*残り多きことに思ひ給へリ。また、傍らには王舎城に押し寄せて軍(いくさ)せんと云ふ評定もありけれども、女ゆへにいくさして国を乱し侍りけりと後の世までも言ひ伝へむことも口惜しかるべしとて、とどまり給ふ大王もありけるとかや。さても瓶沙大王は謀を以つて女を取りて帰らせ給ひ、限りなく寵愛し給ひしに、終に皇子を孕みてこの耆婆を産み侍りけり。

(注)昔が今に・・・=室町物語の冒頭としては定型のものではないようだが、「蓬莱

    物語」とよく似ている。室町時代物語大成を見渡すと、類似した冒頭としては

    「文正草子」を見るだけである。三つを列挙してみる。

    (不)  昔が今に至るまで  めでたき事に云ひ伝侍るは  かの不老不死

      の薬にまさる物はなし。

    (蓬)  昔が今に至るまで  めでたき例に云ひ伝え侍る事 数々多きその

      中に、殊にすぐれて奇特なるは不老不死の薬とて、

    (文)(それ)昔が今に至るまで めでたき事を聞き伝ふるに  賎しき者の

        ことのほかになり出でて

    冒頭に用いられる例は少ないかもしれないが定型的な表現としてはあったかも

    しれない。ただ「蓬莱物語」と「不老不死」は何らか影響し合った可能性は高

    いだろう。

   耆婆=古代インドの医師。

   五天竺=古代インドを東西南北中に分けた総称。

   残り多き=残念である。名残多い。

 生まるる時に両の手に薬の袋を握りて生まれしかば、まことに奇特のことなりとて、西天竺の山中に*彌婁乾陀と云ふ仙人の元に遣はして薬を習はせ給ひけるに、ただ九十日のうちに悉く明らめたり。家に帰りてますます工夫を努めしかば、*七表八裏九道の二十四脈を通達し、*十四経十五絡の人の身の経絡、縦横の血筋を分かち四百四十種の病の元を知り、*温涼補瀉の薬を悟り、*君臣佐使の方を悟りて、人の病を療治するに、さらに癒えずといふことなし。

 ある時、耆婆高き楼閣に上がりて、市の店(たな)を見たりしに、二十ばかりの男

柴を担ふて売りけるが、この男の身の内、十四経十五絡、三百六十の血の道、九百分の肉叢(ししむら)、四十九重の皮の隔て、十二の骨の番(つがひ)、三百六十の骨の節々、五臓六腑透きとほりて、さながら水晶の玉を磨きて、ものを透かしたるがごとし。耆婆はこの由を見給ひて、「まことや大雪山の峰には薬王樹とてこれあり。この木の枝を人に差し寄すれば、人の身の内透きとほりて、病のある所かくれなし。されどもこの山は人の行くべき所ならねば、名のみ聞きて世には持ちたる者なしと仙人の語りしかば、この柴の中にこそ薬王樹はあらめ。」と思ひ、この柴を買ひ取りつつ束(つかね)を解きて一本づつ人の身に当てしかば、その中に枝一つさしも見慣れぬ柴なりけるが、この枝を当てて見れば、紛るる所なく人の五臓透きとほりて見えにけり。この薬王樹を求め得てより、いよいよ療治するに*掌(たなごころ)を指すがごとし。

 しかるにこの人はまさき大王の子なれども、妾(てかけ)腹にて生まれつつ王になるべきことならずとて、后腹の皇子阿闍世太子、御弟ながら春宮に立ち給ひ、耆婆は大臣の官をなされて、国を賜り侍りしかども、まさしき兄ながら御弟にも引き違へられて、位を踏まざる事を恨みて、自ら不老不死の薬をなめて、生きながら*忉利の雲に分け上り天仙となりにけり。

(注)彌婁乾陀=未確認。「にるけんだ」と読むか。「奈女耆婆経」などを追えば辿り着

    くか。

   七表八裏九道=七表・八裏・九道の脈。脈の種類。二十四脈ともいう。

   十四経十五絡=十四の動脈と十五の静脈。

   温涼補瀉=温めたり冷ましたり、体内に足りないものを補ったり不要なものを排

    出すること。薬の効用。

   君臣佐使=生薬をその役割によって四つに分類したもの。君薬・臣薬・佐薬・使

    薬。

   掌を指す=極めて明白で正確である。極めて容易である。

   忉利=忉利天。天上界のひとつ。

 また唐土(もろこし)の古(いにしへ)は、三皇五帝のその上、*神農と申せし聖人ましましけり。天下を保ち国を治め民の病を憐れみて、草木の味はいを嘗め分けて、薬といふことを始めて施し給ひけり。体を養ひ性を養ひ命延ぶること、上中下の薬の品三百六十日にかたどりて、*三百六十種上中下合はせて一千八十種の薬に*寒熱補瀉を分かちて、本草経三巻を作り給ふぞありがたき。

 さてその後、軒猿黄帝と申す帝の時、*天老岐伯と云ふ仙人臣下となりて政を務めしが、これに対して人の病・身の養生・天地の廻り・薬分かちを様々問答し給ひけり。これを書き記して素問内経と名付けらる。黄帝既に不老不死の薬を伝はり、*鼎湖と云ふ所にしてこれを嘗め給ひしかば、忽ちに天上の仙人となり給ふ。すでに天上より臥長十丈ばかりの大蛇天下り侍りしかば、黄帝これに乗り給ひ、お供の臣下十余人同じく天上に上がり給へリ。*山の上には数多仙人も隠れ住みけれども、人里の騒がしきを嫌ひて立ち出づることもなきを、*秦越人扁鵲といふもの薬の道を悟り、人の身の内を明らめ分かちて、*八十一難経を作りて、名医の誉れ世に高く、不死の薬を服して仙境に隠れたり。

(注)神農=中国伝説上の帝王三皇の一人。医学薬学の祖とされる。

   寒熱補瀉=その一の「温涼補瀉」に同じ。

   三百六十種上中下合はせて一千八十種=ウィキペディアでは一年365日になぞ

    らえた薬を上品125種、中品120種、下品120種に分類したとある。本

    書では約三倍になるが、典拠があるのか。

   天老岐伯=岐伯は「黄帝内経」の「素問」で黄帝と対話する医師。天老も「黄帝

    外経」で岐伯と対話しているので古代の名医の一人であろう。

   鼎湖=鼎湖峰。浙江省にある黄帝ゆかりの山。

   山の上=文脈の上では鼎湖峰だが、話題が転換して一般的な山の意か。

   秦越人=戦国時代の名医。趙国にいたころは扁鵲と呼ばれた。

   八十一難経=「難経」とも。医学書。扁鵲が著者と伝えられている。

 中にもまた奇特のことに云ひ伝へ侍るは、*淮南王劉安と云ふ人は智慧博く学を極めて、命を延ぶる薬を求め山の中に分け入りつつ、*黄精・伏兎なんど云ふもろもろの薬種を尋ね侍りし所に、八人の翁に行き会ひたり。この翁岩の洞に立ち寄りつつ、薬を練りて服せしかば、忽ちに老いたる容貌若やぎて、十六七の童子の姿になりにけり。劉安これを見て、いかさまにもこの八人の翁はこの山中に住む仙人なりと思ひて、近く立ち寄り、さまざま礼儀を整へ、この薬の方術を教へ給へと望みしかば、すなはち懇ろにこれを教へて八人の仙人は雲に乗りて飛び去りけり。劉安は教へのごとくにこの薬を練りつつ、自らこれを服せしかば、心も潔く身も軽らかに覚えしかば、試みに虚空に飛び上がれば鳥のごとくに軽く上がる。漸く仙術を学び得て、終に天上に上がりけり。かの薬を練りたりける銀(しろかね)の鍋、黄金の臼に残りたりし薬を、犬・鶏集まり喰らひしかば、その犬も鶏も皆天上に飛び上がる。さればこそ*犬は天上に吠え鶏は雲間に鳴くといへるはこの事なり。

 また*尸解仙と申せし仙人は容貌衰へ齢約(つづ)まれば、その屍(かばね)地に臥せりて後ろより若き童子となりて、蝉のもぬけて出るごとくに背中裂けてもぬけ出でたり。残る屍は透きとほりて空蛻(ぬけがら)の殻のごとくなり。

 *鉄械といふ仙人は常に鉄(くろかね)の鹿杖(かせづえ)に薬の袋を結び付けてこれを担ふて行きければ、鉄の鹿杖と文字に書きて鉄械とは名付けたる。薬を練りて食とし、五穀を喰らふことなし。山中を住家として心を楽しみ侍り。その容貌年積もりて齢漸う衰ふれば、高き巌に腰をかけてかの鉄の鹿杖にすがりて、虚空に向かつて大息を吹き出だせば、その息薄雲のごとくして息の端に十五六なる童子の形現れ移りて、後なる形はもぬけの殻となりにけり。年積もり齢傾けばいつももぬけて若やぎしかば、不老不死の方術まことに偽りなかりけり。

 その他に、*東方朔・費長房・丁令威なんどいふ輩、皆長生不死の道を悟り名誉の誉れ世に高し。

(注)淮南王劉安=漢の高祖の孫。「淮南子」の編者。

   黄精・伏兎=薬草、生薬。

   犬は天上に吠え鶏は雲間に鳴く=「神仙伝」に見える故事。

   尸解仙=レベルの低い仙人のようである。

   鉄械=李鉄拐のことか。仙人。

   東方朔・費長房・丁令威=いずれも仙人。

 ここにまた*孫子邈と云ふ者あり。自づから薬の道に心賢く、人の病を癒すにその*発明なることいふばかりなし。ある時道を行くに俄かに空かき曇り黒雲四方に垂れ覆ひつつ、衾を垂れて墨を擦りなしたるごとく方角も見えず、ただ暗闇になりて雲の内より輝き出でる稲光は、さながら火の降りたるに似たり。鳴りはためく雷の音は、山も崩れ岩も砕くるがごとし。雨しきりに降りて*うつすかと覚え、車軸を流しつつけしからず、*心動転し侍り。孫子邈、肝魂も失する心地して、繁りたる木陰に立ち寄りけるに、また雷はたはたと鳴り響きて、何とは知らず立ち寄りたりける木の本にどうと落つるものあり。孫子邈は耳もつぶるる心地して、心も遠くなりにけるが、思ひ静めて見ゐたれば、雲晴れ雨も止みにけり。

 ここに十四五ばかりと見えつる美しき童子左の足を傷みけるよと思しきが、孫子邈に向かふて申しけるは、「我はこれ海中の竜宮世界に住みて、*阿香竜王と云ふ者なり。雲を起こし雨を降らして人間界の草木五穀を養ふ者なり。今日もまた雲を起こしこれに乗りて虚空を巡り雨を下界に施すところに、思ひがけず踏み違へて巌の上に落ちかかり、左の足を損じ侍り。君願はくはこの患へを癒して給はれ。」と云ふ。孫子邈それこそ易き事なれとて薬を与へしかば、忽ちその痛み癒えにけり。

(注)孫子邈=孫思邈。中国唐代の医者、道士。薬王とも称される。孫思邈は蛇を助け

    て龍宮に行き、龍王から30種類の製薬の方法を教わったという説話が「続仙

    伝」にあるという。未確認。

   発明=賢いこと。聡明。利発。

   うつす=「雨をうつす」の表現は未確認。震動する、土砂崩れする、の意か。

   心動転し=本文「したらてんし」。「室町物語大成」の傍注により改めたがよく

    わからない。

   阿香竜王=「阿香」は晋代に雷を推したと伝えられる少女。また、雷の別称。ど

    こかで伝承が交錯したのか。

 童子大きに喜び、「いざやこの大恩に我が住む所を見せ奉らん。」とて孫子邈とうち連れて海のほとりに赴きければ、大海の水両方に分かれて中に一つの道ぞ出来たる。その道を行き過ぐることニ三里にやなりぬらんと覚えしかば一つの楼門に着く。銅(あかがね)の築地高く峙ち七宝の幢(はたほこ)多く立て並べたり。門の内に入りて見れば、黄金の砂を敷き瑠璃の石畳を引き延(は)へたり。猶その奥に入りて見るに、棟数三十六相並び廊より廊に伝ひて夥しき事いふばかりなし。*鳳の甍高く峙ちて虹の梁(うつはり)長く*のえふしたり。鴛鴦の瑠璃の瓦面を乱れず、空には銀(しろかね)の網を張り四天の台(うてな)には七宝の花・幢を立てたり。宮殿楼閣重々なる珊瑚の垂木・瑪瑙の長押・水晶の欄干には黄金の*鐺(こじり)あり。銀の階・瑠璃の大床綺麗美妙なることいふばかりなし。硨磲(しやこ)の簾に琥珀の縁(へり)を縫ひ、真珠の瓔珞を垂れたり。沈檀名香の空薫(そらだき)の香り奥ゆかしくいふばかりなし。半ばばかり巻き上げたる簾の内を見入りたれば螺鈿の*曲彔(きよくろく)には豹・虎の皮を懸け*蜀江の錦の茵・呉郡の綾の床あり。その傍らには諸々の音楽の器物(うつはもの)、数を尽くして立て並べたり。

(注)鳳の甍・・・=宮殿内外の描写が続く。このあたりは複数の類書を参照している

    のか、執拗とも思われるほどに形容を尽くしている。

   のえふし=「偃(のえふ、のひふ)す」か。平伏する。

   鐺=垂木などの端につけた金属製の飾り。

   曲彔=主として僧侶が使う椅子の一種。

   蜀江の錦・呉郡の綾=高級な織物とされるもの。

 第三の楼閣は遊覧の時の御殿とうち見えて、庭には金銀の砂を敷き四季のあり様目(ま)の前なり。

 *東は春の景色にて、軒端に近き梅が枝の、花は去年(こぞ)降る白雪の消えぬ色かと怪しまれ、匂ひに愛でて鶯や、*谷の扉(とぼそ)を離れ来て、声珍らかに鳴きぬらん、寒き名残りの薄雪に、衣を重ねて如月や、山は霞のたなびきて、岸の青柳*目も遥(はる)に、ほころび初むる桜花、盛り遅しと侘びぬらん、松に懸れる藤の花、春の名残りも惜しげなり。

 南に夏の時を得て、立石・遣り水底清く、水際に生ふるかきつばた、色も一入濃紫の、花の匂ひぞいとゆかしき、御階(みはし)のもとの薔薇(さうび)まで折り知り顔に麗しや、垣根に咲ける卯の花は、月か雪かと白妙に、曙著(し)るき横雲の、*うちより名乗るほととぎす、*沼の岩垣水こめて、あやめ乱るる五月雨に、昔の跡を偲べとや、花橘の香ぞ*聞こゆる、沢辺に乱れ飛ぶ蛍、*なれも思ひのあるにこそ、身を焦がすらん夕間暮れ、梢涼しき蝉の声、もぬけて行くも心あり。

 西には秋の風冴えて、萩が花散る籬には、さすがにくねる女郎花、誰招くらん花薄、尾花荻原うちそよぎ、声重げなる蜩の、音を吹き送る夕嵐、吹けども散らぬ白菊の、花より続く紅葉葉の、時雨に染めて薄く濃く、むらむら迷ふ雲間より、漏れ出づる月の影冴えて、夜寒になれば小牡鹿の、妻恋ふ声もものすごく、虫の音もはた弱りゆく、あはれは秋ぞ優りける。

 北には冬の空寒く、惜しや鷗の羽を交はして、霜夜やいとど侘びぬらん、焼野の薄枯れ枯れに降り積む雪の深ければ、こと問ふ道も埋もれて、軒の筧も氷(つらら)せり。

 これを見かれを見るにつけても、いとど見飽かぬ景色なり。こはそも天地の外にしてまたいかなる国ぞやと、思ふ心も自づから例しなき楽しみをぞ覚えたる。

 *東には黄金の日輪を白銀の山の上に三十余丈の幢幡(はたほこ)の上に懸け、西には白銀の月輪を黄金の山の上に三十余丈の幢幡の上に懸けたり。門には不老門、殿には長生殿と書きたる額をぞ懸けにける。美妙綺麗の荘厳は心も言葉も及ばれず。

(注)東は春の・・・=以下七五調を連ねている。掛詞も多用している。「蓬莱物語」

    にはない過剰さである。

   谷の扉=谷の戸。谷の入り口。「夜をこめて谷のとぼそに風さむみかねてぞしる 

    きみねのはつ雪(千載・冬446)」

   眼も遥に=目の届く限り遥かに。「柳の芽も張る」に掛ける。

   うちより名乗る=「横雲の内」から名乗るのか、「横雲のうち」ではないが、

    「うち寄って」名乗る、と掛けたのか?

   沼の岩垣水こめて=「五月雨にぬれぬれ引かむあやめ草沼の岩垣浪もこそ越せ

    (千載和歌集169)や「五月雨に沼の岩垣水越えて何れかあやめ引きぞわづら

    ふ(源平盛衰記)」という源頼政のエピソードがある。

   聞こゆる=嗅覚に感じる。匂う。

   なれも思ひのあるにこそ=典拠があるか。

   東には・・・=実際の太陽や月があるのか、太陽や月を象ったものがあるのか。

 かくて奥に誘ひ入りしかば、竜神は衣冠正しくして出で会ひつつ、孫子邈を七宝の曲彔に据ゑ、自ら曲彔の座を並べ、礼儀乱れぬあり様なり。海中に触れ遣はし珍しき客人をまうけたり。各々参りて御もてなしを致すべしと、この仰せに従ひて集まるものぞ夥しき。潮を呑みて気を吐けば雲となり雨となる勢ひ高き鯨の魚、青海原の水底は限り知られぬふかの魚、*鬼一口や学ぶらんその名も著るき鰐の魚、とりどり巡る盃をしたたみ酌むや鮭の魚、酔うては波を飛び魚や、眠りの夢は鮫の魚、満ち来る潮にもまれても砕けもやらぬ*金頭(かながしら)、甲貝の緒を締めて、腰に差したる太刀魚の、*かまつかに手をかけて、名乗るを聞けば鯔(ぼら)の魚、敵だにあらは*𩶤(せん)で、いつもいくさに鰹や、鰶(このしろ)主の手柄として、やがて天下を*玉珧(たひらぎ)や、民の竈も*若布(にぎは)ふは鱏(えい)と云ふ魚ならん。治まれる世のしるしとて、貢ぎ捧ぐる蛸の手に、同じ数ある烏賊の手は、色も一入白魚(しろいを)の、*いとより(糸縒り)かかる*柳魚、君が袂を*熊引きに、蟶(まて)契りし貝(甲斐)もなく、恋(鯉)路に忍ぶ君が門、近く細魚(さより)て安らへど、などつれなくも鮑貝、月は海月(くらげ)の夜もすがら、長き(牡蠣をかけるか)を侘ぶる夜なき貝、独り丸寝(まろね)のあぢ(鰺)きなく、*音をのみぞする浜千鳥、床さへいとど砑螺貝(つべたがい)暁かけて鳥貝の、八声に東の赤貝や、横蜘蛛蛸(くもだこ)もたなびけば、明けぬと告ぐる烏貝、世渡る舟の帆立貝、憂しとは鰯限りなき、宝を持つか鯸(ふく)の魚、*ほに穂栄ゆる鱮(たなご)の魚、刈り入れて積む*田平子(たびらこ、鱮の異名)の、米(よね)を鰢(つくら)の魚とかや、ただ何事も鰆(さはら)かに、めで鯛めで鯛と云ひて集まりけるほどに、その外海老・蝤蛑(がざめ、がざみ)・螺(にし)・栄螺(さざい)・牡蠣・鮋(はえ、はや)・蛤に至るまで、名ある類は残らず来たりて竜宮城の大庭に群がる事幾千万と云ふ数を知らず。

(注)鬼一口=非常に危険な事。また、勢いがあってたやすいこと。「伊勢物語・芥

    川」が語源か。

   金頭=魚名。以下、魚・海産物に掛詞を用いている。

   かまつか=コイ科の淡水魚。

   𩶤=大漢和に載っているがどのような魚かわからない。

   玉珧=二枚貝の一種。

   若布=「角川俳句大歳時記」ではワカメに「にぎわ」の別称を挙げるが、出典は

    わからない。「万葉集」に「にぎめ」の用例がある。無関係かも。うがちすぎ

    かもしれない。

   いとより=鯛の一種。

   柳魚=柳葉魚(シシャモ)のことか。

   熊引き=鱪(しいら)の別称。

   音をのみぞする浜千鳥=何を掛けているのか不明。

   ほに穂=「ほに穂が咲く」は穀物がよく実る、豊作である、の意。「鱮」を「種

    子(たなご)」に掛けるか。

   田平子=鱮の別称。「田」に掛けるのか。

 かかる所に奥の方より美しき竜女二十余人、花を飾り裳裾を引きて出で来たり、まづ管絃をぞ奏しける。*嶰竹(かいちく)の横笛、*泗浜の方磬、瑠璃の琴には*師子筋の絃を張り、黄金の柱(ぢ)を立てたり。琥珀の琵琶には珊瑚の甲、瑪瑙の腹、水精(水晶)の撥を添へたり。*鐘山鸞竹の篳篥(ひちりき)には白金の口に湘江の芦の葉を舌とせり。*へきかいたうの緑竹の笙には*鳳髄をもつて管を固め、玳瑁の太鼓を海馬(とどorせいうち)の皮にて張りたりけり。七宝の鋲を並べ栴檀木を撥(ばち)とせり。その外和琴・鶏婁(けいろう)・鞨鼓(かつこ)・せいく(鉦鼓か)・柷敔(しゆくきよ)・かくいん(?)・箜篌(くご)・銅拍子(どびやうし)・振鼓(ふりつづみ)・腰鼓もろもろの楽器を思ひ思ひに取り持ちて、奏し初める楽の名は、春の遊びに楽しみを極むる庭の*春庭楽、のどけき空の*糸遊(いとゆふ)に連れて散り飛ぶ柳花苑、梅が枝にほふ軒端には谷の鶯囀るを春鶯囀と名付けたり。玉の植木に咲く花の盛りは今ぞ後庭花、廻るや酒の廻杯楽、雲の上なる十天楽、聖の道を学ぶとはこれやまことに五常楽、恋路を知らする想夫恋、竜の都に名を得たる海青楽ぞおもしろき。命は尽きぬ万歳楽、齢久しき採桑老、舞人は誰ぞ裹頭楽、治まる御代の太平楽、時も移れば今は早や夜半楽をぞ奏しける。

(注)嶰竹=崑崙山の嶰谷に産する竹で作った笛。または曲名。

   泗浜=泗水の浜から採れる石。楽器の磬に用いる。

   師子筋=「華厳経」に「たとえば人ありて、師子の筋をもって、もって琴の絃と

    せんに、音声ひとたび奏するに一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごと

    し。」とあるそうだ(未確認)。

   鐘山鸞竹=不明。篳篥の産地、竹の種類か。

   へきかいたう=不明。笙の産地か。以下の楽器・曲名には確認できないものがあ

    った。

   鳳髄=ハクビシンまたは雉の骨髄。

   春庭楽=以下「楽」などがつく三文字は雅楽の曲目。

   糸遊=春の晴れた日に蜘蛛の子が糸に乗じて浮遊する現象。

 舞楽もやうやう過ぎにければ、百味の膳を調へて孫子邈に勧めたり。*さしも故郷にては、竜馬の肝・熊の掌(たなごころ)・麞(くじか)の胎(はらごもり)・*猿の木取・猊(げい)の醢(ししびしほ)・人魚の炙り物とて味はひよき肉の類、また*東門竜蹄(りうてい)の瓜、*鶏心(けいしん)さいよう(盛陽?)の棗、*くわいこうの搗栗、*大宛の安石榴(あんせきりう)、*桑郎(桑落か)の名酒、*茘枝禄(れいしりよく)の酒などこそ、名高き物なりともてはやして、世には稀なるものぞかし。それにはあらで名をだにも知らぬ珍しき木の実、めでたき酒の味はひかなと、食するに従ひ飲むに従うて、心も晴れやかに身も軽く飛び立つばかりに覚えけり。

 すでに事終はり時移れば竜神座を立つて、ひとつの巻物を取り出だし、孫子邈に与へて、「君我が子の患へを癒し給ふ。報恩に薬の道を伝ゆるなり。よくこの方に従ふて人の病を癒し給へ。」とてまたひとつの巻物を開き、不老不死の薬の方をぞ授けける。

 今は御いとま申すとて、孫子邈立ち出でつつ時の間に海をしのぎわが家にこそ帰りけれ。すなはち竜宮の神方に従ひ、「千金翼方」と云ふ書を作りて名医の名を施しつつ、自ら不死の薬を服して天上に上りけり。

(注)さしも故郷にては=さすがに生まれ育った地(この世、故郷)では。「珍しい」

    と後に続くのが省略されたのか。

   猿の木取=猿の手足。

   東門竜蹄=東門は瓜の別称。竜の蹄は白瓜の別称。

   鶏心(けいしん)さいよう(盛陽?)=「故事類苑」に紹介する「本草和名」に

    は「・・・一名鶏心、・・・一名盛陽之霊芝・・・」とある。棗の種類。

   くわいこう=不明。搗栗に産地があるのか。

   大宛=中国西域の国。ここから石榴(ざくろ)は伝えられたという。ここまで書

    くと竜宮城が俗世を脱した理想郷というより、俗世の欲望の集積地といった感

    があり、描写として逆効果だと思うのであるが・・・

   桑郎 茘枝禄=桑郎、茘枝禄(ライチ酒か)は川口謙二氏の著述に酒の名前とし

    て載っているようだが未確認。「桑郎」は「桑落」なら「童蒙酒造記」に見え

    る酒の産地、酒の名。

 *また秦の始皇は徐福といふ仙人に仰せて、蓬莱山の不老不死の薬を求めさせ給ひしに、海漫々として雲の波煙の波立ち迷ふて*ほとりもなかりしを、風に任せ舟に任せて行きけるに、南の海の中にひとつの山を見つけたりけれども、鮫竜(蛟竜)といふものに舟を領せられて、心のままに行くことのなかりければ、*始皇このことを怒りて連弩の石弓にて鮫竜を撃ち殺し給ひけり。しかれども徐福は猶行き着くことのかなはずして、日本紀伊の国熊野の浦に逃げ来たり侍るとかや云ひ伝へし。

(注)また・・・=徐福の話は「蓬莱物語」に比べてさっぱりとしている。「不老不

    死」が「蓬莱物語」を参照して、話題がかぶらないようにしたのかもしれな

    い。重複する部分は少ない。

   ほとり=端の影という意味か。

   始皇=怒ったのは始皇帝ではなくて徐福だと思うのだが。

 その後また漢の武帝と申せし帝は、道士に*五利文成と云ふ者に会ふて、不老不死の薬を求め給ひしに、五利文世申すやう、「これより西にあたつて太山の内に仙人あり。*西王母と名づく。この仙人はよく長生不老の方術をもつて薬を服し、容貌衰へず齢傾かず。命長く保ちて終はり尽くることなし。願はくはこの仙人を召して伝へ学び給へかし。」と申す。「さらばいかにして呼び近づくべきや。」とのたまふ。五利文成申すやう、「新しく御殿を建てて内に錦の褥を敷き、七宝の机に百味の食を供へ、帝の御身を慎み物忌みし給ひて待ち給ふべし。それがし行きて帝の宣旨を申し入れて迎へ奉らん。」と申す。帝すなはち五利文世の言葉のごとく、御殿を建て供へ物を調へて相待ち給ふ。かくて御物忌み七日と申す午の刻に、虚空の間に五色の雲たなびきて鸞鳥・孔雀その外山鳥の類雲に従ひて飛び翔ける。雲の内には音楽聞こえ、異香(いきやう)薫じて西王母天下り来たり給ふ。*仙子十余人御伴して手に手に捧ぐるその中に、園の桃七つを瑠璃の鉢に積み上げて、これを帝に捧げたり。帝のたまひけるやうは、「かかる大なるめでたき桃は我が園には名をも聞かず。この桃を植え侍らん。」とのたまふ。西王母答へて申すやう、「この桃は人間の食すべき物にあらず。その故は、地に植えて後三千年に生ひ出で、三千年にして花を開き、三千年にして実を結ぶなり。されば九千年を経ざればこの桃なること侍らねば、人さらに食すること叶ひ難し。さてこの桃は我が住む所の園にあり。桃ひとつを食すれば三千年を保つなり。また長生不死の薬をば帝に教へ奉るべし。」とて、自ら秘かに伝へ奉り、三日三夜の御遊ありて西王母は雲に乗りて我が住む山に帰り給ふ。武帝の臣下に*東方朔と云ふ者秘かにこの事を立ち聞きつつ、かの西王母が園の桃を盗み取りて、その数三つまで喰らひけり。残る四つの桃もいづちにか取り去りぬらん、行く方なし。この故に桃を三つまで喰らひければ、東方朔は九千年まで命を保ち侍りけり。武帝は不死の薬をなべて(嘗めて)常に仙人に交はりつつ、天下を治め給ひけるが、御子の宣帝に御代を譲り給ひて、*五柞宮といふ御殿より天上に上らせ給ひけり。

(注)五利文世=五利将軍は欒大とい道士。文世将軍は少翁という道士。ともに漢の武

    帝に用いられた。本文では一人の人物として扱っている。「史記」「漢書

    「資治通鑑」などに見える。

   西王母=仙女。西方の崑崙山に住むという。「太山(泰山)」は別の山だが大き

    な山という一般名詞として使っているのか。

   仙子=仙人。仙女。

   東方朔=前にも名前は出てきたが、武帝時代の政治家。仙格化されている。

   五柞宮=武帝離宮武帝はここで没した。死んだことも行きて天上に上ったと

    いえば不死ということになる。詭弁に思えるが。

 そもそも日本に伝はりて不老不死の薬ありと知ること、神代の古は*少彦命と申せし御神、薬の道をもつて天上下地に施して、病を癒し諸々の御神たちに不老不死の妙方を授け奉り給ひけるによりて、御神は皆悉く長生不死の御齢を保ち給ふ。これを人の世に伝へ残し給はざる事は、世の人この薬を頼みて政を濫りにし、恣(ほしいまま)に驕りを極め、世を乱し悪を作らん事を恐れて人には伝へ給はずといへり。されば今の世までもかの少彦の命はこの平安城に跡を垂れて*五条の天神と申す。年ごとの節分の夜は*餅朮を出ださるるも、人の疫気を祓ひ給ふ、不老不死の薬の片端なりとかや。

(注)少彦命=少彦名命。医薬・酒造・温泉・農業の神。

   五条の天神=京都下京区にある神社。主祭神少彦名命菅原道真とは関係な

    い。

   餅朮=朮(うけら)の餅。追儺の夜に供えた餅。朮はキク科の多年草で薬用・食

    用になる。屠蘇散の原料の一つ。

 *まさしく人皇の世になりて、その上雄略天皇と申す帝の御時、これより南海に*蓬莱・方丈・瀛洲とて三の島あり。この山は諸々の仙人の住む所なり。その内にこそ不老不死の薬ありて齢も傾かず命も尽きずいつまでも変はらぬ世を保つに、常に楽しみある所なれば、常世の国と名付けたる。帝ある時のたまひ出だされけるは、「数多の臣下の中に誰か蓬莱山に行きて、不老不死の薬ならびに香菓のくだものを取り求めて来るべきや。」とのたまふ。公卿・殿上人多き中に*田道(たぢ)の間守の命と申せし臣下進み出でて、「君の仰せならば、雲に上り地を潜りても、力の及ばん事をばいかでか背き奉らん。それがし一葉の舟に浮かび南海に赴きて、蓬莱山に尋ね行きて、不老不死の薬を求め、香菓のくだものを取りて帰り申すべし。」とて、やがて御前を罷り立ちて、大船を拵へ二百余人の供を召し連れ、南海の浜に赴き北風を待ち得て帆を上げ、梶を回らして蓬莱山にぞ赴きける。

 かくて順風に任せて南の方二万余里を行けるよと思しきに、大海の内にひとつの山を見つけたり。これこそ聞こゆる蓬莱山なりとて、みな一同に喜びつつ舟を寄せむとする所に、荒き風吹き落ちて波高く上がることたとへば雪の山のごとし。舟は潮にもまれて波に乗る時には天に上がる心地し、波を下るる時には水底に沈むがごとくなれば、水主(かこ)・梶取(かんどり)も力を失ひ、いかがすべきとあきれ惑ふ。田道の間守の命は船梁(舷か)に立ち出でつつ、北の方に向かひ手を合はせて、「日本国天照御神、我れ今君の勅使として蓬莱山常世に国に赴くなり。願はくはこの風を留め給ひて、この山に渡し給へ。」と念願し給へば、げにも神の御恵みに荒き風静まり、波も留まりければ陸地(ろくち)に舟を上ぐるがごとくにして、ほどなく蓬莱の岸に着きたり。

 かの山のあり様、*碧(みどり)の海の内より六の亀六方に並びて、その背中に山を載せて浮かび出でたり。山は*水精輪にして岩を畳み麓より峰に到り、奇しき草木に花咲き乱れ、暖かなることいつも春の気色なり。梢には見慣れぬ鳥の色音よきが囀るを聞くにもいと珍らかに覚えたり。

 かかる所に年の頃十六七と見ゆる美しき仙子の女房五六人、岩間を伝ふて出で来たる。田道の間守袖を控へて、「我はこれ日本天子の御使ひなり。この山にあるといふ不老不死の薬を求むるために来たりてあり。道しるべし給へ。」とありしかば、「日本の天子の御使ひと聞くからに、この所はたやすく人間の来るべき山にあらず、はるばるの波を凌ぎ渡り給ふは、これただ人におはしまさず、こなたへ来たり給へ。」とて道しるべ申しつつ、岩間の苔路を伝ひ行き、谷を越え坂を上る道すがらの有様、匠作れる山なりともいかでかこれほどの風景あらんと、おもしろさ限りなし。

 やうやう行くことニ三里ばかりにして一つの門に到りけり。楼門の上に額あり。太真院と書きたり。門には*五色の鬼数多厳しく番を務めたりけるが、仙子の帰り来たるを見て、みな頭を地につけたり。田道の命門の内に入り給へば、七宝の宮殿玉をちりばめ金を縒(え)りて入れ違へ、軒と軒とは垂木を並べ、廊と廊とは長押を続けて、楼閣重々に峙ち、五色の雲は空にたなびき、音楽は自ずからなす人なしに響き聞こゆ。異香満ち満ちて光り輝く。*壺中の天地といふともここを離れてはまたいづ方に仙境あらん。*乾坤の外に来れる心地して、仙子に告げてかくと申し入れたりしかば、仙人数多出で会ひつつ、日本天子の御使ひこなたへとて奥の方に招じ入れたり。綺麗美妙なることは心も言葉も及ばれず。

 黄金の池の内には*八功徳の水を湛へ、岸を洗ふ波の音は琴の調べ、汀の松に通ひ、白銀の砂(いさご)の上には迦陵頻・鳳凰・鸚鵡なんどいふ鳥、羽先を並べて囀り舞ひ遊ぶもおもしろや。山より落つる滝の有様は竜門三級の水、さながら著(いちしる)く白き布を曝すがごとく、緑の水は川を流して内には奇しき魚住めり。繁りあひたる植木にはいろいろの花色を争ひ、木立ちは絵に描くとも及ぶべからず。世には見慣れぬ果物は枝を分かちて*成りこだれたり。是を見、彼を見るにつけていとどめでたさ勝りけり。

 しばらくありて音楽聞こえて蓬莱宮の大仙王太真君立ち出で給ひ、日本の御使ひに向かつて礼儀を尽くし様々もてなし、さてその後に瑠璃の壺に不老不死の薬を入れ、*香の菓(かくのこのみ)の果物取り添へて勅使に奉り給ひけり。田道の間守の命これを取り持ち、やがて舟に取り乗りければ、数多の仙人は道送りのはなむけしつつ岸までぞ出でにける。

 南の風に帆を引きて、ほどなく日本の地に着きたり。始め日本の地を出でて蓬莱山に赴き今すでに日本の地に帰朝せしを久しからず覚えしが、三十余年に及びけり。帝待ち付け給ひしが、御齢のことのほかに傾け給ひしが、田道はこの薬を天皇に捧げ奉る。天皇これを聞こし召し給ふに、御齢忽ちに若やがせ給ふ。また香の菓の果物をばすなはち*南殿の右近衛の陣の座に植えさせ給ふ。今の右近衛の橘なり。橘は蓬莱宮の果物なりしを、日本に伝はる事はこの御世よりも始まれり。

 天皇と間守の命ただ二人この方術を伝へて不老不死の寿を保たせ給ひて四海波静かに治まる御代のしるしとて、麒麟は*御園生に来たり、鳳凰は御溝の水に影を映し、天下泰平の徳を表し国土安穏の恵みを示し、*五日の風枝を鳴らさず十日の雨土塊(つちくれ)を破らず、五穀成就し民栄えて尽きせぬ御代とぞ聞こえし。

 

(注)まさしく・・・=掉尾にあるこのエピソードが最も語りたい内容なのであろう。

   蓬莱・方丈・瀛洲=三神山。中国の伝説で東方絶海にあって仙人が住むという

    山。

   田道の間守の命=田道間守。新羅王子天日槍の子孫。記紀に見える。

   碧(みどり)の海=碧海。滄海。大海原。

   水精輪=水晶輪。水晶でできた輪。

   五色の鬼=赤鬼、青鬼、黄鬼、緑鬼、黒鬼。

   金を縒(え)りて入れ違へ=金で縒った糸で宝石を入れ違いにする。モザイク模

    様のイメージか。

   壺中の天地=俗世間とかけ離れた別天地。

   乾坤=天地の間。人の住む所。

   八功徳の水=八つの功徳を具えている水。極楽浄土にある八功徳池に満ちている

    という。

   竜門三級=竜門の三段になった滝。滝は急流の瀬。鯉がここを上りきると竜にな

    るという。登竜門の語源。

   成りこだれり=垂れ下がるようになる。たわわに実る。

   香の菓=かくのこのみ。かくのみ。橘。

   太真君=太真院の主人である仙女。「長恨歌」では楊貴妃がそれとされる。

   南殿=紫宸殿。右近衛府には橘が植えられていた。

   麒麟=伝説上の動物。良い政治が行われると出現するという。鳳凰は聖天子出生

    の瑞兆。

   御園生=植物園。

   五日の風枝を鳴らさず十日の雨土塊を破らず= 「風不鳴條、雨不破塊、五日一

    風、十日一雨。(論衡 是応)」とあり、世の中が平穏無事であることのたと

    え。しかし、まとめとしては「不老不死」からずれる。

不老不死⑥-異郷譚2ー

下 その三

 さて日本に不老不死の薬が伝来して知られることに関しては、神代の昔少彦名命(すくなびこなのみこと)と申すた御神は、薬の道をもって天上下地あらゆる人々を施療して病を癒し、諸々の御神には不老不死の妙方を授け申し上げなさいましたので、諸神は皆悉く長生不死の寿齢を保ちなさいました。これを人の世に伝え残しなさらなかったのは、世の人がこの薬を頼りにして、いいかげんな政治をし、恣(ほしいまま)に驕りを極め、世を乱し悪事をなすことを恐たからということです。そのようなわけでこの少彦名命はこの平安京垂迹し五条天神として祀られています。この神社で毎年の節分の夜には朮(うけら)の餅が供えられるのも、人の疫気を祓いなさる不老不死の薬の一部であるからとかいうことです。

 やがて人皇の世となって、その昔雄略天皇と申す帝の御時に、「これより南の海に蓬莱・方丈・瀛洲という三つの島がある。この山は諸々の仙人の住む所である。その内に不老不死の薬があって齢も傾かず命も尽きず、いつまでも変わらぬ世を保ち、常に楽しみある所なので、常世の国と名付けられている。」と語られていました。帝はある時、「数多の臣下の中で誰か蓬莱山に行って、不老不死の薬、ならびに香菓のくだものを取り求めて来る者はいないだろうか。」言い出されました。公卿・殿上人数多い中で田道(たぢ)の間守の命と申す臣下が進み出て、「君の仰せならば、雲に上り地を潜っても、力の及ぶ限りお命じに背かず成し遂げいたしましょう。それがしが一葉の舟を浮かべて南海に赴いて、蓬莱山に尋ね行き、不老不死の薬を求め、香菓のくだものを取って帰りましょう。」と言って、すぐさま御前を罷り立って、大船を拵えて二百余人の供を召し連れて、南海の浜に行って北風を待って帆を上げ、梶を回らして蓬莱山に赴きました。

 やがて順風に任せて南の方二万里ほどを行ったかと思われるところで、大海の内にひとつの山を見つけました。これこそ噂に聞いた蓬莱山だろうと、みんな一同に喜んで舟を岸に寄せようとしましたが、荒い風が吹き下ろして波は高く吹き上がることはまるで雪の山に吹雪が舞うようです。舟は潮にもまれて、波に乗る時には天に上がるような心地がし、波を下りる時には水底に沈むようでしたので、水主(かこ)・梶取(かんどり)も力を失ない、どうにもならずおろおろするばかりでした。田道間守命は舷に立ち出て、北の方角に向って手を合わせて、「日本国天照御神、我れ今君の勅使として蓬莱山常世に国に赴くなり。願わくはこの風を留め給いて、この山に渡し給え。」と念願しなさると、まことに神の御恵みでありましょう、荒い風は静まり、波も止んだので大御神に陸地に舟を上げていただいたように、ほどなく蓬莱山の岸に着きました。

 この山の様子は、碧海の内から六つの亀が六方に並んで、その背中に山を載せて浮かんでいます。山は水晶輪の石畳が麓から峰まで到り、珍しい草木に花が咲き乱れ、暖かなことは常春の気色です。梢に見慣れぬ鳥が音色美しく囀るのを聞くにもまったく不思議な感じがします。

 そこに年の頃十六七と見える美しい仙人の女房が五六人、岩の間を伝って出て来ました。田道の間守はその一人の袖を引いて、「私は日本の天子の御使いです。この山にあるという不老不死の薬を求めてやって来たのです。道案内をしてくださいませんか。」と言いますと、「日本の天子の御使いと聞きましたが、この所はたやすく人間の来るべき山ではありません、はるばるの波を凌いで渡りなさったからには、ただの人ではいらっしゃらないでしょう。こちらおいでなさい。」と言って道案内し申し上げて、岩の間の苔むした路を伝って行きますが、谷を越え坂を上る道すがらの有様は、匠が作る人工の山であってもどうしてこれほどの風景ができるであろうかとと思われ、その趣深さはこの上ありません。

 ニ三里ほど行くと一つの門に到りました。楼門の上に額があります。太真院と書かれています。門では五色の鬼が数多(あまた)厳しく門番を務めていましたが、仙女が帰って来たのを見て、みんな頭を地につけて礼拝しました。田道の命が門の中に入りなさると、七宝の宮殿は宝玉をちりばめて金の糸を縒って入れ違えにして飾り、軒と軒とは垂木を並べて、廊と廊とは長押でつながっていて、楼閣が幾重にも立ち並び、五色の雲が空にたなびき、音楽は演奏する人もいないのに自然と響き聞こえます。よい香りが満ち満ちて光り輝いています。理想郷を壺中の天地といいますがここを離れてどこに仙境があるでしょうか。乾坤(人間界)の外に来たような心地がして、仙女に告げてこれこれと申し入れたところ、仙人が数多く出てきて会い、日本天子の御使いよこちらへと奥の方に招じ入れました。その綺麗美妙なることは心も言葉も及ばないほどです。

 黄金の池の内には八功徳の水を湛え、岸を洗う波の音は琴のような調べで汀の松に届き、白銀の砂の上には迦陵頻・鳳凰・鸚鵡などという鳥が、羽先を並べて囀り舞って遊ぶのも趣深いことです。山から落ちる滝の有様は竜門三級の水のようで、さながら真っ白な布を曝すがごとくで、緑の水は川となって流れてその中には珍しい魚が住んでいます。繁茂する植木にはいろいろな花がその色を争うように咲き、木立ちは絵に描くこともできないほど素晴らしいものです。人の世では見慣れない果物が枝ごとにたわわに実っています。これを見、かれを見るにつけても全く感嘆するばかりです。

 しばらくして音楽が聞こえて蓬莱宮の大仙王の太真君が立ち現れなさり、日本国の御使いに向かって礼儀を尽くし様々にもてなし、そしてその後に瑠璃の壺に不老不死の薬を入れ、橘の果実を取り添えて勅使に差し上げなさいました。田道間守はこれを手に持って、すぐさま舟に乗りこんだので、数多の仙人は岸まで出て見送りのはなむけをしました。

 南の風に帆を張って、ほどなく日本の地に着きました。田道間守にとっては日本の地を出て以来、蓬莱山に赴いて今ふたたび日本の地に帰朝したのはそれほどの期間だとは思っていなかったのですが、なんと三十余年にも及んでいたのでした。帝は帰朝を待ち受けなさっていて、思いの外御年齢はおとりになっていましたが、田道はこの薬を天皇に献上いたしまして、天皇がこれをお召し上がりなさると、その齢は忽ちに若やぎなさいました。また香の菓の果物を早速南殿(紫宸殿)の右近衛の陣の座に植えなさいました。今の右近衛の橘です。橘は蓬莱宮の果物でしたが、この御世に始めて日本に伝わったという事です。

 天皇と間守はただ二人この方術を伝授されて不老不死の寿命を保ちなさいました。そうして四海波静かに治まる御代のしるしとして、麒麟が帝の御園生に来て、鳳凰は御溝の水に影を映しました。そのように天下泰平の徳は表され、国土安穏の恵みを示し、五日に一度吹く風は枝を鳴らさないほど穏やかで、十日に一度降る雨は土塊(つちくれ)を崩さない程優しく、五穀は成就し民は栄えることこの上ない御代だったということです。

原文

 そもそも日本に伝はりて不老不死の薬ありと知ること、神代の古は*少彦命と申せし御神、薬の道をもつて天上下地に施して、病を癒し諸々の御神たちに不老不死の妙方を授け奉り給ひけるによりて、御神は皆悉く長生不死の御齢を保ち給ふ。これを人の世に伝へ残し給はざる事は、世の人この薬を頼みて政を濫りにし、恣(ほしいまま)に驕りを極め、世を乱し悪を作らん事を恐れて人には伝へ給はずといへり。されば今の世までもかの少彦の命はこの平安城に跡を垂れて*五条の天神と申す。年ごとの節分の夜は*餅朮を出ださるるも、人の疫気を祓ひ給ふ、不老不死の薬の片端なりとかや。

(注)少彦命=少彦名命。医薬・酒造・温泉・農業の神。

   五条の天神=京都下京区にある神社。主祭神少彦名命菅原道真とは関係な

    い。

   餅朮=朮(うけら)の餅。追儺の夜に供えた餅。朮はキク科の多年草で薬用・食

    用になる。屠蘇散の原料の一つ。

 *まさしく人皇の世になりて、その上雄略天皇と申す帝の御時、これより南海に*蓬莱・方丈・瀛洲とて三の島あり。この山は諸々の仙人の住む所なり。その内にこそ不老不死の薬ありて齢も傾かず命も尽きずいつまでも変はらぬ世を保つに、常に楽しみある所なれば、常世の国と名付けたる。帝ある時のたまひ出だされけるは、「数多の臣下の中に誰か蓬莱山に行きて、不老不死の薬ならびに香菓のくだものを取り求めて来るべきや。」とのたまふ。公卿・殿上人多き中に*田道(たぢ)の間守の命と申せし臣下進み出でて、「君の仰せならば、雲に上り地を潜りても、力の及ばん事をばいかでか背き奉らん。それがし一葉の舟に浮かび南海に赴きて、蓬莱山に尋ね行きて、不老不死の薬を求め、香菓のくだものを取りて帰り申すべし。」とて、やがて御前を罷り立ちて、大船を拵へ二百余人の供を召し連れ、南海の浜に赴き北風を待ち得て帆を上げ、梶を回らして蓬莱山にぞ赴きける。

 かくて順風に任せて南の方二万余里を行けるよと思しきに、大海の内にひとつの山を見つけたり。これこそ聞こゆる蓬莱山なりとて、みな一同に喜びつつ舟を寄せむとする所に、荒き風吹き落ちて波高く上がることたとへば雪の山のごとし。舟は潮にもまれて波に乗る時には天に上がる心地し、波を下るる時には水底に沈むがごとくなれば、水主(かこ)・梶取(かんどり)も力を失ひ、いかがすべきとあきれ惑ふ。田道の間守の命は船梁(舷か)に立ち出でつつ、北の方に向かひ手を合はせて、「日本国天照御神、我れ今君の勅使として蓬莱山常世に国に赴くなり。願はくはこの風を留め給ひて、この山に渡し給へ。」と念願し給へば、げにも神の御恵みに荒き風静まり、波も留まりければ陸地(ろくち)に舟を上ぐるがごとくにして、ほどなく蓬莱の岸に着きたり。

 かの山のあり様、*碧(みどり)の海の内より六の亀六方に並びて、その背中に山を載せて浮かび出でたり。山は*水精輪にして岩を畳み麓より峰に到り、奇しき草木に花咲き乱れ、暖かなることいつも春の気色なり。梢には見慣れぬ鳥の色音よきが囀るを聞くにもいと珍らかに覚えたり。

 かかる所に年の頃十六七と見ゆる美しき仙子の女房五六人、岩間を伝ふて出で来たる。田道の間守袖を控へて、「我はこれ日本天子の御使ひなり。この山にあるといふ不老不死の薬を求むるために来たりてあり。道しるべし給へ。」とありしかば、「日本の天子の御使ひと聞くからに、この所はたやすく人間の来るべき山にあらず、はるばるの波を凌ぎ渡り給ふは、これただ人におはしまさず、こなたへ来たり給へ。」とて道しるべ申しつつ、岩間の苔路を伝ひ行き、谷を越え坂を上る道すがらの有様、匠作れる山なりともいかでかこれほどの風景あらんと、おもしろさ限りなし。

 やうやう行くことニ三里ばかりにして一つの門に到りけり。楼門の上に額あり。太真院と書きたり。門には*五色の鬼数多厳しく番を務めたりけるが、仙子の帰り来たるを見て、みな頭を地につけたり。田道の命門の内に入り給へば、七宝の宮殿玉をちりばめ金を縒(え)りて入れ違へ、軒と軒とは垂木を並べ、廊と廊とは長押を続けて、楼閣重々に峙ち、五色の雲は空にたなびき、音楽は自ずからなす人なしに響き聞こゆ。異香満ち満ちて光り輝く。*壺中の天地といふともここを離れてはまたいづ方に仙境あらん。*乾坤の外に来れる心地して、仙子に告げてかくと申し入れたりしかば、仙人数多出で会ひつつ、日本天子の御使ひこなたへとて奥の方に招じ入れたり。綺麗美妙なることは心も言葉も及ばれず。

 黄金の池の内には*八功徳の水を湛へ、岸を洗ふ波の音は琴の調べ、汀の松に通ひ、白銀の砂(いさご)の上には迦陵頻・鳳凰・鸚鵡なんどいふ鳥、羽先を並べて囀り舞ひ遊ぶもおもしろや。山より落つる滝の有様は竜門三級の水、さながら著(いちしる)く白き布を曝すがごとく、緑の水は川を流して内には奇しき魚住めり。繁りあひたる植木にはいろいろの花色を争ひ、木立ちは絵に描くとも及ぶべからず。世には見慣れぬ果物は枝を分かちて*成りこだれたり。是を見、彼を見るにつけていとどめでたさ勝りけり。

 しばらくありて音楽聞こえて蓬莱宮の大仙王太真君立ち出で給ひ、日本の御使ひに向かつて礼儀を尽くし様々もてなし、さてその後に瑠璃の壺に不老不死の薬を入れ、*香の菓(かくのこのみ)の果物取り添へて勅使に奉り給ひけり。田道の間守の命これを取り持ち、やがて舟に取り乗りければ、数多の仙人は道送りのはなむけしつつ岸までぞ出でにける。

 南の風に帆を引きて、ほどなく日本の地に着きたり。始め日本の地を出でて蓬莱山に赴き今すでに日本の地に帰朝せしを久しからず覚えしが、三十余年に及びけり。帝待ち付け給ひしが、御齢のことのほかに傾け給ひしが、田道はこの薬を天皇に捧げ奉る。天皇これを聞こし召し給ふに、御齢忽ちに若やがせ給ふ。また香の菓の果物をばすなはち*南殿の右近衛の陣の座に植えさせ給ふ。今の右近衛の橘なり。橘は蓬莱宮の果物なりしを、日本に伝はる事はこの御世よりも始まれり。

 天皇と間守の命ただ二人この方術を伝へて不老不死の寿を保たせ給ひて四海波静かに治まる御代のしるしとて、麒麟は*御園生に来たり、鳳凰は御溝の水に影を映し、天下泰平の徳を表し国土安穏の恵みを示し、*五日の風枝を鳴らさず十日の雨土塊(つちくれ)を破らず、五穀成就し民栄えて尽きせぬ御代とぞ聞こえし。

 

(注)まさしく・・・=掉尾にあるこのエピソードが最も語りたい内容なのであろう。

   蓬莱・方丈・瀛洲=三神山。中国の伝説で東方絶海にあって仙人が住むという

    山。

   田道の間守の命=田道間守。新羅王子天日槍の子孫。記紀に見える。

   碧(みどり)の海=碧海。滄海。大海原。

   水精輪=水晶輪。水晶でできた輪。

   五色の鬼=赤鬼、青鬼、黄鬼、緑鬼、黒鬼。

   金を縒(え)りて入れ違へ=金で縒った糸で宝石を入れ違いにする。モザイク模

    様のイメージか。

   壺中の天地=俗世間とかけ離れた別天地。

   乾坤=天地の間。人の住む所。

   八功徳の水=八つの功徳を具えている水。極楽浄土にある八功徳池に満ちている

    という。

   竜門三級=竜門の三段になった滝。滝は急流の瀬。鯉がここを上りきると竜にな

    るという。登竜門の語源。

   成りこだれり=垂れ下がるようになる。たわわに実る。

   香の菓=かくのこのみ。かくのみ。橘。

   太真君=太真院の主人である仙女。「長恨歌」では楊貴妃がそれとされる。

   南殿=紫宸殿。右近衛府には橘が植えられていた。

   麒麟=伝説上の動物。良い政治が行われると出現するという。鳳凰は聖天子出生

    の瑞兆。

   御園生=植物園。

   五日の風枝を鳴らさず十日の雨土塊を破らず= 「風不鳴條、雨不破塊、五日一

    風、十日一雨。(論衡 是応)」とあり、世の中が平穏無事であることのたと

    え。しかし、まとめとしては「不老不死」からずれる。

不老不死⑤-異郷譚2ー

下 その二

 また秦の始皇帝は徐福という仙人にお命じになって、蓬莱山の不老不死の薬を求めさせなさいましたが、海は漫々として雲の波煙の波が立ちこめて影さえ見えませんでした.。風に任せ舟に任せて行きますと、南の海の中にひとつの山を見つけたのですが、蛟竜に舟は取り付かれて、思い通りに行くことはできませんでした。始皇帝はこのことを怒って連弩の石弓で蛟竜を撃ち殺しなさいました。しかし徐福はさらにその先に行くことはできず、日本の紀伊の国熊野の浦に逃げ来たと語り伝えられています。

 その後また漢の武帝と申した帝は、道士の五利文成という者に会って、不老不死の薬を求めなさいましたが、五利文世が申すには、「これより西にある大きな山(崑崙山)の内に仙人がおります。西王母といいます。この仙人はよく長生不老の方術をもって薬を服用し、容貌は衰えず年齢は傾きません。寿命は長く保って終わりが尽きて死ぬことはありません。この仙人を召して伝授してもらって学ばれたらいかがですか。」と。「それならどのようにして呼びよせたらよいのだろうか。」と武帝はおっしゃいます。五利文成は、「新しく御殿を建てて室内に錦の褥を敷いて、七宝の机に百味の食を供えて、帝は御身を慎み物忌みなさってお待ちなさいませ。それがしが行って帝の宣旨を申し入れてお迎え申し上げましょう。」と申します。武帝は早速五利文世の言葉の通りに、御殿を建てて供え物を用意してお待ちなさいました。こうして物忌みの七日目の午の刻に、虚空の間に五色の雲がたなびいて鸞鳥・孔雀その外山鳥の類が雲に従って翔けてきました。雲の内には音楽が聞こえ、よい香が薫り西王母が天から下って来臨なさいました。仙女十余人がお供を手に手に捧げているもののうちから、自分の園から採れた桃七つを瑠璃の鉢に積み上げて、これを帝に献上しました。帝は、「このような大きな素晴らしい桃は私の園では名前も聞いたことがない。この桃を植えさせてもらいましょう。」とおっしゃいました。西王母は、「この桃は人間の食すべき物ではございません。なぜなら、地に植えて後三千年で芽を出し、その後三千年で花を開き、更に三千年で実を結ぶのです。ですから九千年を経過しないとこの桃はならないのですから、人は食べたいといっても叶うことはできません。でもこの桃は私の住む所の園にはございます。桃をひとつを食せば三千年のを寿命を保ちます。それとは別に長生不死の薬を帝にお教えいたしましょう。」と答えなさって、自ら秘かに伝授いたしまして、三日三晩宴を催されて後、西王母は雲に乗って自分の住む山に帰りなさいました。武帝の臣下に東方朔という者がいましたが、こっそりこの事を立ち聞きして、その西王母の園の桃を盗み取って、三つまで食べてしまいました。残る四つの桃もどこへ持ち去ったのでしょうか、行方知らずとなりました。このようなわけで桃を三つ食べた東方朔は九千年まで命を保ったということです。武帝は不死の薬を嘗めて、常に仙人と交わりながら、天下を治めなさったのですが、御子の宣帝に御代を譲りなさって、五柞宮という御殿で天上にお上りになったということです。

原文

 *また秦の始皇は徐福といふ仙人に仰せて、蓬莱山の不老不死の薬を求めさせ給ひしに、海漫々として雲の波煙の波立ち迷ふて*ほとりもなかりしを、風に任せ舟に任せて行きけるに、南の海の中にひとつの山を見つけたりけれども、鮫竜(蛟竜)といふものに舟を領せられて、心のままに行くことのなかりければ、*始皇このことを怒りて連弩の石弓にて鮫竜を撃ち殺し給ひけり。しかれども徐福は猶行き着くことのかなはずして、日本紀伊の国熊野の浦に逃げ来たり侍るとかや云ひ伝へし。

(注)また・・・=徐福の話は「蓬莱物語」に比べてさっぱりとしている。「不老不

    死」が「蓬莱物語」を参照して、話題がかぶらないようにしたのかもしれな

    い。重複する部分は少ない。

   ほとり=端の影という意味か。

   始皇=怒ったのは始皇帝ではなくて徐福だと思うのだが。

 その後また漢の武帝と申せし帝は、道士に*五利文成と云ふ者に会ふて、不老不死の薬を求め給ひしに、五利文世申すやう、「これより西にあたつて太山の内に仙人あり。*西王母と名づく。この仙人はよく長生不老の方術をもつて薬を服し、容貌衰へず齢傾かず。命長く保ちて終はり尽くることなし。願はくはこの仙人を召して伝へ学び給へかし。」と申す。「さらばいかにして呼び近づくべきや。」とのたまふ。五利文成申すやう、「新しく御殿を建てて内に錦の褥を敷き、七宝の机に百味の食を供へ、帝の御身を慎み物忌みし給ひて待ち給ふべし。それがし行きて帝の宣旨を申し入れて迎へ奉らん。」と申す。帝すなはち五利文世の言葉のごとく、御殿を建て供へ物を調へて相待ち給ふ。かくて御物忌み七日と申す午の刻に、虚空の間に五色の雲たなびきて鸞鳥・孔雀その外山鳥の類雲に従ひて飛び翔ける。雲の内には音楽聞こえ、異香(いきやう)薫じて西王母天下り来たり給ふ。*仙子十余人御伴して手に手に捧ぐるその中に、園の桃七つを瑠璃の鉢に積み上げて、これを帝に捧げたり。帝のたまひけるやうは、「かかる大なるめでたき桃は我が園には名をも聞かず。この桃を植え侍らん。」とのたまふ。西王母答へて申すやう、「この桃は人間の食すべき物にあらず。その故は、地に植えて後三千年に生ひ出で、三千年にして花を開き、三千年にして実を結ぶなり。されば九千年を経ざればこの桃なること侍らねば、人さらに食すること叶ひ難し。さてこの桃は我が住む所の園にあり。桃ひとつを食すれば三千年を保つなり。また長生不死の薬をば帝に教へ奉るべし。」とて、自ら秘かに伝へ奉り、三日三夜の御遊ありて西王母は雲に乗りて我が住む山に帰り給ふ。武帝の臣下に*東方朔と云ふ者秘かにこの事を立ち聞きつつ、かの西王母が園の桃を盗み取りて、その数三つまで喰らひけり。残る四つの桃もいづちにか取り去りぬらん、行く方なし。この故に桃を三つまで喰らひければ、東方朔は九千年まで命を保ち侍りけり。武帝は不死の薬をなべて(嘗めて)常に仙人に交はりつつ、天下を治め給ひけるが、御子の宣帝に御代を譲り給ひて、*五柞宮といふ御殿より天上に上らせ給ひけり。

(注)五利文世=五利将軍は欒大とい道士。文世将軍は少翁という道士。ともに漢の武

    帝に用いられた。本文では一人の人物として扱っている。「史記」「漢書

    「資治通鑑」などに見える。

   西王母=仙女。西方の崑崙山に住むという。「太山(泰山)」は別の山だが大き

    な山という一般名詞として使っているのか。

   仙子=仙人。仙女。

   東方朔=武帝時代の政治家。仙格化されている。

   五柞宮=武帝離宮武帝はここで没した。死んだことも行きて天上に上ったと

    いえば不死ということになる。詭弁に思えるが。

 

 

不老不死④-異郷譚2ー

下 その一

 さて、誘われるままに奥に入りますと、竜神は衣冠を正して出迎えて、孫子邈を七宝の曲彔に座らせ、自ら曲彔の椅子を横に並べ、礼儀に則った様子です。海の中全体にお触れを遣わして珍しい客人をもてなしました。海の各々は参上して接待をいたそうと、この仰せに従って夥しい数が集まりました。潮を呑んで気を吐くと雲となり雨となる威勢のいい鯨。青海原の水底からは限りないほど多くのふか。鬼一口を学んで人を一口でのみ込むというその名も知られた鰐。それぞれが巡らせる盃で酒を酌んで飲むのに因む鮭(さけ)。酔っては波を飛ぶのか飛び魚。眠りの夢は醒めるのですがそれに因む鮫(さめ)。満ちて来る潮にもまれても砕けない金頭(かながしら)の魚。甲貝ではありませんが兜の緒を締めて、腰に差したのは太刀ではありませんが太刀魚で、柄に手をかけるではありませんが鎌柄(かまつか)。名乗るのを聞くと法螺貝を吹くのではありませんが鯔(ぼら)。敵に姿を現わせなくてもに因む「あらわ𩶤(せん)」ではありませんが、いつもいくさに勝つに因む鰹。この城主ではありませんが鰶(このしろ)。その城主の手柄として、やがて天下を平らげるに因む玉珧(たひらぎ)。民の竈がにぎわうに因む若布(にぎは)。それは栄えではありませんが鱏(えい)という魚でしょう。天下が治まっているしるしとして、貢ぎ捧げる手は蛸の数ほどで、同じく数ある烏賊の手は、色もいっそう白く、その魚(しろいを)が、いとより(糸縒り)かかる柳のような柳葉魚(ししゃも)。君が袂を引くではありませんが熊引き。待って契った甲斐もなくではありませんが蟶(まて)貝。恋路に忍ぶ君が門ではありませんが鯉。近寄って安らごうとするではありませんが細魚(さより)。どうしてかつれなくも逢わないではありませんが鮑貝(逢わび)。月は暗い夜ではありませんが海月(くらげ)。夜もすがらの長き(牡蠣をかけるか)を侘びて夜泣きするのではありませんが夜なき貝。独り丸寝(まろね)は味気ないではありませんが鯵。浜千鳥の鳴き声だけが聞こえ、床までもいっそう冷(つべ)たいではありませんが砑螺貝(つべたがい)。暁を翔る鳥ではありませんが鳥貝。その声が八声鳴くと東が赤らむのに因む赤貝。雲がたなびくのではありませんが横蜘蛛蛸(くもだこ)。夜が明けたと告げる烏ではありませんが烏貝。世を渡る帆立舟ではありませんが帆立貝。憂しとは言わじ(言いません)ではありませんが鰯(いわし)。この上ない宝を持つのは福ではありませんが鯸(ふく)。豊作が続く種子(たなご)ではありませんが鱮(たなご)の魚。刈り入れて積む田ではありませんが田平子(たびらこ、鱮の異名)。米(よね)を作るに因む鰢(つくら)の魚。ただ何事も爽(さわ)らかではありませんが鰆(さはら)。めでたいめでたいといって鯛までも集まってきますが、その外、海老・蝤蛑(がざめ、がざみ)・螺(にし)・栄螺(さざい)・牡蠣・鮋(はえ、はや)・蛤に至るまで、名のある類は残らず来て竜宮城の大庭に群がる事は幾千万と数えきれないほどです。

 ここに奥の方から美しい竜女が二十余人、花を飾り裳裾を引いて出て来て、まずは管絃を演奏しました。嶰竹(かいちく)の横笛、泗浜の方磬、瑠璃の琴には師子筋の絃を張り、黄金の柱(ぢ)を立ててあろます。琥珀の琵琶には珊瑚の甲、瑪瑙の腹、水精(水晶)の撥(ばち)を添えています。鐘山鸞竹の篳篥(ひちりき)には白金の口に湘江の芦の葉を舌(リード)としています。へきかいたうの緑竹の笙はハクビシンの骨髄で管を固め、玳瑁の太鼓は海馬(とどorせいうち)の皮で張って、七宝の鋲を並べて打ち、栴檀の木を撥としています。その外、和琴・鶏婁(けいろう)・鞨鼓(かっこ)・せいく(鉦鼓か)・柷敔(しゅくぎょ)・かくいん(?)・箜篌(くご)・銅拍子(どびょうし)・振鼓(ふりつづみ)・腰鼓などもろもろの楽器を思い思いに取り持って、演奏を初めた舞楽の曲目は、春の遊びに楽しみを極める庭の春庭楽。のどけき空に蜘蛛の子が糸遊(いとゆう)するのに連れだって散り飛ぶ柳の花のような柳花苑。梅の枝は匂う軒端に谷の鶯が囀る曲は春鶯囀と名付けられています。玉の植木に咲く花の盛りは今ぞと歌う後庭花。酒の杯を廻らすのか廻杯楽。雲の上にある十天を歌う十天楽。聖の道を学ぶとはこれが本当に五常であるが五常楽。恋路を知らせる想夫恋。竜の都に名を得た海青楽はことに趣深いものです。命が尽きるまでの万歳楽。寿命の久しさを歌う採桑老。舞人は誰ですか裹頭(頭を布で包んだ姿)で舞う裹頭楽。治まる御代の太平楽。時も移るので今は早や夜半楽を演奏しています。

 舞楽もやがて果てましたので、今度は百味の膳を調(あつら)えて孫子邈に勧めます。さすがに故郷唐土では珍しい、竜馬の肝・熊の掌(てのひら)・麞(くじか)の胎児・猿の木取(手足)・猊(げい)の醢(ししびしお)・人魚の炙り物と味わいよき肉の類、また東門竜蹄の瓜、鶏心盛陽の棗、くわいこう(開封か?)の搗栗、大宛の安石榴、桑郎(桑落か)の名酒、茘枝禄(れいしりよく)の酒などと、名高き物であるともてはやされて、世には稀なものばかりです。そうでなくても名さえ知らない珍しい木の実、すばらしい酒の味はどうであろうかと、食するに従い飲むに従って、心も晴れやかに身も軽く飛び立つばかりに思われるのでした。

 やがて宴が終わり時も経ったので竜神は座を立って、ひとつの巻物を取り出し、孫子邈に与えて、「君は我が子の患えを癒してくださいました。報恩に薬の道を伝えようと思います。よくこの処方に従って人の病を癒しなさってください。」と言ってさらにもう一つの巻物も開き、そちらでは不老不死の薬の処方を授けたのでした。

 今は御いとま申し上げますということで、孫子邈は竜宮城を後にしてあっという間に海をしのぎわが家にこそ帰りました。そして早速竜宮の神の処方に従い、「千金翼方」という書を著して名医の名のもとに人々を施療して、自らは不死の薬を服して天上に上ったということです。

原文

 かくて奥に誘ひ入りしかば、竜神は衣冠正しくして出で会ひつつ、孫子邈を七宝の曲彔に据ゑ、自ら曲彔の座を並べ、礼儀乱れぬあり様なり。海中に触れ遣はし珍しき客人をまうけたり。各々参りて御もてなしを致すべしと、この仰せに従ひて集まるものぞ夥しき。潮を呑みて気を吐けば雲となり雨となる勢ひ高き鯨の魚、青海原の水底は限り知られぬふかの魚、*鬼一口や学ぶらんその名も著るき鰐の魚、とりどり巡る盃をしたたみ酌むや鮭の魚、酔うては波を飛び魚や、眠りの夢は鮫の魚、満ち来る潮にもまれても砕けもやらぬ*金頭(かながしら)、甲貝の緒を締めて、腰に差したる太刀魚の、*かまつかに手をかけて、名乗るを聞けば鯔(ぼら)の魚、敵だにあらは*𩶤(せん)で、いつもいくさに鰹や、鰶(このしろ)主の手柄として、やがて天下を*玉珧(たひらぎ)や、民の竈も*若布(にぎは)ふは鱏(えい)と云ふ魚ならん。治まれる世のしるしとて、貢ぎ捧ぐる蛸の手に、同じ数ある烏賊の手は、色も一入白魚(しろいを)の、*いとより(糸縒り)かかる*柳魚、君が袂を*熊引きに、蟶(まて)契りし貝(甲斐)もなく、恋(鯉)路に忍ぶ君が門、近く細魚(さより)て安らへど、などつれなくも鮑貝、月は海月(くらげ)の夜もすがら、長き(牡蠣をかけるか)を侘ぶる夜なき貝、独り丸寝(まろね)のあぢ(鰺)きなく、*音をのみぞする浜千鳥、床さへいとど砑螺貝(つべたがい)暁かけて鳥貝の、八声に東の赤貝や、横蜘蛛蛸(くもだこ)もたなびけば、明けぬと告ぐる烏貝、世渡る舟の帆立貝、憂しとは鰯限りなき、宝を持つか鯸(ふく)の魚、*ほに穂栄ゆる鱮(たなご)の魚、刈り入れて積む*田平子(たびらこ、鱮の異名)の、米(よね)を鰢(つくら)の魚とかや、ただ何事も鰆(さはら)かに、めで鯛めで鯛と云ひて集まりけるほどに、その外海老・蝤蛑(がざめ、がざみ)・螺(にし)・栄螺(さざい)・牡蠣・鮋(はえ、はや)・蛤に至るまで、名ある類は残らず来たりて竜宮城の大庭に群がる事幾千万と云ふ数を知らず。

(注)鬼一口=非常に危険な事。また、勢いがあってたやすいこと。「伊勢物語・芥

    川」が語源か。

   金頭=魚名。以下、魚・海産物に掛詞を用いている。

   かまつか=コイ科の淡水魚。

   𩶤=大漢和に載っているがどのような魚かわからない。

   玉珧=二枚貝の一種。

   若布=「角川俳句大歳時記」ではワカメに「にぎわ」の別称を挙げるが、出典は

    わからない。「万葉集」に「にぎめ」の用例がある。無関係かも。うがちすぎ

    かもしれない。

   いとより=鯛の一種。

   柳魚=柳葉魚(シシャモ)のことか。

   熊引き=鱪(しいら)の別称。

   音をのみぞする浜千鳥=何を掛けているのか不明。

   ほに穂=「ほに穂が咲く」は穀物がよく実る、豊作である、の意。「鱮」を「種

    子(たなご)」に掛けるか。

   田平子=鱮の別称。「田」に掛けるのか。

 かかる所に奥の方より美しき竜女二十余人、花を飾り裳裾を引きて出で来たり、まづ管絃をぞ奏しける。*嶰竹(かいちく)の横笛、*泗浜の方磬、瑠璃の琴には*師子筋の絃を張り、黄金の柱(ぢ)を立てたり。琥珀の琵琶には珊瑚の甲、瑪瑙の腹、水精(水晶)の撥を添へたり。*鐘山鸞竹の篳篥(ひちりき)には白金の口に湘江の芦の葉を舌とせり。*へきかいたうの緑竹の笙には*鳳髄をもつて管を固め、玳瑁の太鼓を海馬(とどorせいうち)の皮にて張りたりけり。七宝の鋲を並べ栴檀木を撥(ばち)とせり。その外和琴・鶏婁(けいろう)・鞨鼓(かつこ)・せいく(鉦鼓か)・柷敔(しゆくきよ)・かくいん(?)・箜篌(くご)・銅拍子(どびやうし)・振鼓(ふりつづみ)・腰鼓もろもろの楽器を思ひ思ひに取り持ちて、奏し初める楽の名は、春の遊びに楽しみを極むる庭の*春庭楽、のどけき空の*糸遊(いとゆふ)に連れて散り飛ぶ柳花苑、梅が枝にほふ軒端には谷の鶯囀るを春鶯囀と名付けたり。玉の植木に咲く花の盛りは今ぞ後庭花、廻るや酒の廻杯楽、雲の上なる十天楽、聖の道を学ぶとはこれやまことに五常楽、恋路を知らする想夫恋、竜の都に名を得たる海青楽ぞおもしろき。命は尽きぬ万歳楽、齢久しき採桑老、舞人は誰ぞ裹頭楽、治まる御代の太平楽、時も移れば今は早や夜半楽をぞ奏しける。

(注)嶰竹=崑崙山の嶰谷に産する竹で作った笛。または曲名。

   泗浜=泗水の浜から採れる石。楽器の磬に用いる。

   師子筋=「華厳経」に「たとえば人ありて、師子の筋をもって、もって琴の絃と

    せんに、音声ひとたび奏するに一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごと

    し。」とあるそうだ(未確認)。

   鐘山鸞竹=不明。篳篥の産地、竹の種類か。

   へきかいたう=不明。笙の産地か。以下の楽器・曲名には確認できないものがあ

    った。

   鳳髄=ハクビシンまたは雉の骨髄。

   春庭楽=以下「楽」などがつく三文字は雅楽の曲目。

   糸遊=春の晴れた日に蜘蛛の子が糸に乗じて浮遊する現象。

 舞楽もやうやう過ぎにければ、百味の膳を調へて孫子邈に勧めたり。*さしも故郷にては、竜馬の肝・熊の掌(たなごころ)・麞(くじか)の胎(はらごもり)・*猿の木取・猊(げい)の醢(ししびしほ)・人魚の炙り物とて味はひよき肉の類、また*東門竜蹄(りうてい)の瓜、*鶏心(けいしん)さいよう(盛陽?)の棗、*くわいこうの搗栗、*大宛の安石榴(あんせきりう)、*桑郎(桑落か)の名酒、*茘枝禄(れいしりよく)の酒などこそ、名高き物なりともてはやして、世には稀なるものぞかし。それにはあらで名をだにも知らぬ珍しき木の実、めでたき酒の味はひかなと、食するに従ひ飲むに従うて、心も晴れやかに身も軽く飛び立つばかりに覚えけり。

 すでに事終はり時移れば竜神座を立つて、ひとつの巻物を取り出だし、孫子邈に与へて、「君我が子の患へを癒し給ふ。報恩に薬の道を伝ゆるなり。よくこの方に従ふて人の病を癒し給へ。」とてまたひとつの巻物を開き、不老不死の薬の方をぞ授けける。

 今は御いとま申すとて、孫子邈立ち出でつつ時の間に海をしのぎわが家にこそ帰りけれ。すなはち竜宮の神方に従ひ、「千金翼方」と云ふ書を作りて名医の名を施しつつ、自ら不死の薬を服して天上に上りけり。

(注)さしも故郷にては=さすがに生まれ育った地(この世、故郷)では。「珍しい」

    と後に続くのが省略されたのか。

   猿の木取=猿の手足。

   東門竜蹄=東門は瓜の別称。竜の蹄は白瓜の別称。

   鶏心(けいしん)さいよう(盛陽?)=「故事類苑」に紹介する「本草和名」に

    は「・・・一名鶏心、・・・一名盛陽之霊芝・・・」とある。棗の種類。

   くわいこう=不明。搗栗に産地があるのか。

   大宛=中国西域の国。ここから石榴(ざくろ)は伝えられたという。ここまで書

    くと竜宮城が俗世を脱した理想郷というより、俗世の欲望の集積地といった感

    があり、描写として逆効果だと思うのであるが・・・

   桑郎 茘枝禄=桑郎、茘枝禄(ライチ酒か)は川口謙二氏の著述に酒の名前とし

    て載っているようだが未確認。「桑郎」は「桑落」なら「童蒙酒造記」に見え

    る酒の産地、酒の名。

 

不老不死③-異郷譚2ー

上 その三

 唐の時代に孫子邈(孫思邈、そんしばく)という者がいました。生来薬の道に詳しく、人の病を癒す方法にはこの上なく明晰でありました。その孫子邈がある時道を行くと俄かに空がかき曇り黒雲が四方に垂れこめて、夜の帳をおろすように暗くなり、墨を擦ったように視界は真っ暗で、漆黒となった雲の内から輝き出た稲光は、まるで火が降りかかったようでした。鳴り響く雷の音は、山も崩れ岩も砕けるようです。雨がしきりに降って土砂崩れするかと思われて、車軸を流すような大雨で孫子邈は心も動転しました。恐る恐る、生い茂るする木陰に隠れて難を避けようとすると、再び雷がパーンと鳴り響いて、何だかわからないのですが立ち寄った木の本にどうと落ちるものがありました。孫子邈は耳もつぶれる心地で、気が遠くなったのですが、心静めてじっと見ていると、雲は晴れ雨も止みました。

 そこに十四五歳と思われる左足を挫いたと思われる美しい童子がいて、孫子邈に向かって申します。「私は海中の竜宮世界に住んで、阿香竜王という者です。雲を起こして雨を降らして人間界の草木五穀を養う者です。今日もまた雲を起こしこれに乗って虚空を巡り下界に雨を施したのですが、思いがけず踏み違えて巌の上に落ちかかり左の足を挫きました。君よ願わくはこの怪我を治していただけないでしょうか。」と。孫子邈はそんなことは容易いことだと薬を与えたところ、忽ちその痛み癒えたのでした。

 童子は大いに喜んで、「とてもお世話になりました。このご恩に私の住む所にご招待いたしましょう。」と言って、孫子邈と連れ立って海のほとりに行ったところ、大海の水が二つに分かれて中に一つの道が現れました。その道をニ三里通り過ぎるかと思うと、一つの楼門にたどり着きました。銅でできた築地が高く峙って、数多くの七宝の幢幡が立ち並んでいました。門の内に入って見ると、黄金の砂が敷かれて瑠璃の石畳が長く続いています。さらにその奥に入ってみると、棟数三十六ほどの建物が並び立ち、廊から廊へと繋がれていて、そのものものしさはいいようもありません。鳳を象った甍は高く峙って、虹霓を模した梁が長く横たわっています。鴛鴦の瑠璃の瓦は、整然と並び、天空には銀の網が張られ四天の楼台には七宝の花が供えられ、幢が立てられています。宮殿楼閣には幾重にも珊瑚の垂木・瑪瑙の長押・水晶の欄干が並んでいます。それぞれに黄金の鐺(こじり)があります。銀の階・瑠璃の大床の綺麗美妙であることはいいようもありません。硨磲(しやこ)の簾に琥珀の縁(へり)を縫いつけて、真珠の瓔珞を垂れさせています。沈檀の名香の空薫(そらだき)の香りが奥ゆかしくいいようもございません。半分ほど巻き上げてある簾の内を見るとば螺鈿の曲彔(きよくろく)には豹・虎の毛皮を懸け、蜀江の錦や呉郡の綾といった美しい掛け物が施された褥や床もあります。その傍らには諸々の音楽の楽器、数限りなく並び立ててあるのです。

 三番目の楼閣は遊覧の時の御殿と見えて、庭には金銀の砂を敷き四季のありさまを目の前に展開します。

 東は春の景色で、軒端に近い梅が枝の花は、去年降った白雪が消えずに色を残しているのか疑われ、その匂いを愛でて鶯が、谷の扉を出て来て、声も耳新しく鳴いています。寒さの名残りの薄雪に、衣を重ねてしのぐように、着て更に着る如月(きさらぎ)ではありませんが、如月になると、山は霞がたなびいて、岸の青柳が芽を張る時に、その「目も遥る」ではありませんが、目も遥かに見渡しますと、ほころび初める桜の花は、もう盛りは遅いと残念がっているようです、松に懸った藤の花は、春の名残りを惜しがっているようです。

 南には夏の時を得て、立石の庭園の遣り水は水底清く、汀に生えるかきつばたは、色もひとしお濃紫で、花の匂いはとても奥ゆかしいのです。御殿に上がる階段のもとにある薔薇まで自分の出番を知っているように得意そうに咲いているのは麗しいことです。垣根に咲いている卯の花は、月か雪かは知りませんが、白妙と見える曙のくっきりした横雲の内から名乗るように鳴くほととぎすは、千載集や源頼政の歌ではありませんが、沼の岩垣が水をせきとめて、五月雨が文目(あやめ)のように乱れ流れるですが、そのあやめのように咲き乱れ、古今集の「五月待つ」の歌ではありませんが昔の跡を偲べとでしょうか、花橘の香りがにおっています。沢辺に乱れ飛ぶ蛍よ、「おまえも思いの火がから、身を焦がすのだろう」と詠まれた夕間暮れ、梢の涼しい蝉の声、その蝉が脱皮していくのも風情があります。

 西には秋の風が冴えて、萩の花が散る籬には、えもいわれず揺れてくねる女郎花。誰を招くのだろうか花薄。尾花は荻原にそよいで、声重げな蜩が、音を吹き送る夕嵐。風が吹いても散らない白菊の花に引き続き紅葉葉が、時雨に染まって薄く濃く見える風情です。むらがり乱れる雲の間から、漏れ出る月の影は冴えて、夜寒になると小牡鹿(さおじか)がが、妻を恋う声もぞっとするほどで、虫の音もまた弱っていきます。そのしみじみとした情感は秋が他の季節より優っているといえましょう。

 北には冬の空寒く、いとおしげに鷗が羽を交わして温め合います。霜の夜にはさぞや侘びしくしているのでしょう。薄が枯れていく焼野に降り積もる雪は深く、友を訪ねる道も埋もれて、軒の筧の水も氷っています。

 これを見、あれを見るにつけても、まったく見飽きない景色です。これはいったい天地の外なのだろうか、どのような国なのだろう、と思う心にも自然とこの上ない楽しみを感じるのでした。

 東には黄金の日輪を白銀の山の上に三十余丈の幢幡(はたほこ)の上に懸け、西には白銀の月輪を黄金の山の上に三十余丈の幢幡の上に懸けています。門には不老門、殿には長生殿と書かれた扁額が懸けられておます。その美妙綺麗で荘厳な飾りつけは心も言葉も及ばないものです。

原文

 ここにまた*孫子邈と云ふ者あり。自づから薬の道に心賢く、人の病を癒すにその*発明なることいふばかりなし。ある時道を行くに俄かに空かき曇り黒雲四方に垂れ覆ひつつ、衾を垂れて墨を擦りなしたるごとく方角も見えず、ただ暗闇になりて雲の内より輝き出でる稲光は、さながら火の降りたるに似たり。鳴りはためく雷の音は、山も崩れ岩も砕くるがごとし。雨しきりに降りて*うつすかと覚え、車軸を流しつつけしからず、*心動転し侍り。孫子邈、肝魂も失する心地して、繁りたる木陰に立ち寄りけるに、また雷はたはたと鳴り響きて、何とは知らず立ち寄りたりける木の本にどうと落つるものあり。孫子邈は耳もつぶるる心地して、心も遠くなりにけるが、思ひ静めて見ゐたれば、雲晴れ雨も止みにけり。

 ここに十四五ばかりと見えつる美しき童子左の足を傷みけるよと思しきが、孫子邈に向かふて申しけるは、「我はこれ海中の竜宮世界に住みて、*阿香竜王と云ふ者なり。雲を起こし雨を降らして人間界の草木五穀を養ふ者なり。今日もまた雲を起こしこれに乗りて虚空を巡り雨を下界に施すところに、思ひがけず踏み違へて巌の上に落ちかかり、左の足を損じ侍り。君願はくはこの患へを癒して給はれ。」と云ふ。孫子邈それこそ易き事なれとて薬を与へしかば、忽ちその痛み癒えにけり。

(注)孫子邈=孫思邈。中国唐代の医者、道士。薬王とも称される。孫思邈は蛇を助け

  て龍宮に行き、龍王から30種類の製薬の方法を教わったという説話が「続仙伝」に

  あるという。未確認。

   発明=賢いこと。聡明。利発。

   うつす=「雨をうつす」の表現は未確認。震動する、土砂崩れする、の意か。

   心動転し=本文「したらてんし」。「室町物語大成」の傍注により改めたがよく

    わからない。

   阿香竜王=「阿香」は晋代に雷を推したと伝えられる少女。また、雷の別称。ど

    こかで伝承が交錯したのか。

 童子大きに喜び、「いざやこの大恩に我が住む所を見せ奉らん。」とて孫子邈とうち連れて海のほとりに赴きければ、大海の水両方に分かれて中に一つの道ぞ出来たる。その道を行き過ぐることニ三里にやなりぬらんと覚えしかば一つの楼門に着く。銅(あかがね)の築地高く峙ち七宝の幢(はたほこ)多く立て並べたり。門の内に入りて見れば、黄金の砂を敷き瑠璃の石畳を引き延(は)へたり。猶その奥に入りて見るに、棟数三十六相並び廊より廊に伝ひて夥しき事いふばかりなし。*鳳の甍高く峙ちて虹の梁(うつはり)長く*のえふしたり。鴛鴦の瑠璃の瓦面を乱れず、空には銀(しろかね)の網を張り四天の台(うてな)には七宝の花・幢を立てたり。宮殿楼閣重々なる珊瑚の垂木・瑪瑙の長押・水晶の欄干には黄金の*鐺(こじり)あり。銀の階・瑠璃の大床綺麗美妙なることいふばかりなし。硨磲(しやこ)の簾に琥珀の縁(へり)を縫ひ、真珠の瓔珞を垂れたり。沈檀名香の空薫(そらだき)の香り奥ゆかしくいふばかりなし。半ばばかり巻き上げたる簾の内を見入りたれば螺鈿の*曲彔(きよくろく)には豹・虎の皮を懸け*蜀江の錦の茵・呉郡の綾の床あり。その傍らには諸々の音楽の器物(うつはもの)、数を尽くして立て並べたり。

(注)鳳の甍・・・=宮殿内外の描写が続く。このあたりは複数の類書を参照している

    のか、執拗とも思われるほどに形容を尽くしている。

   のえふし=「偃(のえふ、のひふ)す」か。平伏する。

   鐺=垂木などの端につけた金属製の飾り。

   曲彔=主として僧侶が使う椅子の一種。

   蜀江の錦・呉郡の綾=高級な織物とされるもの。

 第三の楼閣は遊覧の時の御殿とうち見えて、庭には金銀の砂を敷き四季のあり様目(ま)の前なり。

 *東は春の景色にて、軒端に近き梅が枝の、花は去年降る白雪の消えぬ色かと怪しまれ、匂ひに愛でて鶯や、*谷の扉(とぼそ)を離れ来て、声珍らかに鳴きぬらん、寒き名残りの薄雪に、衣を重ねて如月や、山は霞のたなびきて、岸の青柳*目も遥(はる)に、ほころび初むる桜花、盛り遅しと侘びぬらん、松に懸れる藤の花、春の名残りも惜しげなり。

 南に夏の時を得て、立石・遣り水底清く、水際に生ふるかきつばた、色も一入濃紫の、花の匂ひぞいとゆかしき、御階(みはし)のもとの薔薇(さうび)まで折り知り顔に麗しや、垣根に咲ける卯の花は、月か雪かと白妙に、曙著(し)るき横雲の、*うちより名乗るほととぎす、*沼の岩垣水こめて、あやめ乱るる五月雨に、昔の跡を偲べとや、花橘の香ぞ*聞こゆる、沢辺に乱れ飛ぶ蛍、*なれも思ひのあるにこそ、身を焦がすらん夕間暮れ、梢涼しき蝉の声、もぬけて行くも心あり。

 西には秋の風冴えて、萩が花散る籬には、さすがにくねる女郎花、誰招くらん花薄、尾花荻原うちそよぎ、声重げなる蜩の、音を吹き送る夕嵐、吹けども散らぬ白菊の、花より続く紅葉葉の、時雨に染めて薄く濃く、むらむら迷ふ雲間より、漏れ出づる月の影冴えて、夜寒になれば小牡鹿の、妻恋ふ声もものすごく、虫の音もはた弱りゆく、あはれは秋ぞ優りける。

 北には冬の空寒く、惜しや鷗の羽を交はして、霜夜やいとど侘びぬらん、焼野の薄枯れ枯れに降り積む雪の深ければ、こと問ふ道も埋もれて、軒の筧も氷(つらら)せり。

 これを見かれを見るにつけても、いとど見飽かぬ景色なり。こはそも天地の外にしてまたいかなる国ぞやと、思ふ心も自づから例しなき楽しみをぞ覚えたる。

 *東には黄金の日輪を白銀の山の上に三十余丈の幢幡(はたほこ)の上に懸け、西には白銀の月輪を黄金の山の上に三十余丈の幢幡の上に懸けたり。門には不老門、殿には長生殿と書きたる額をぞ懸けにける。美妙綺麗の荘厳は心も言葉も及ばれず。

(注)東は春の・・・=以下七五調を連ねている。掛詞も多用している。「蓬莱物語」

    にはない過剰さである。

   こそ=係助詞だとすると結びが見当たらない。あるいは「こそ降る」という単語

    があるのか。

   谷の扉=谷の戸。谷の入り口。「夜をこめて谷のとぼそに風さむみかねてぞしる

    きみねのはつ雪(千載・冬446)」

   眼も遥に=目の届く限り遥かに。「柳の芽も張る」に掛ける。

   うちより名乗る=「横雲の内」から名乗るのか、「横雲のうち」ではないが、

    「うち寄って」名乗る、と掛けたのか?

   沼の岩垣水こめて=「五月雨にぬれぬれ引かむあやめ草沼の岩垣浪もこそ越せ

    (千載和歌集169)や「五月雨に沼の岩垣水越えて何れかあやめ引きぞわづら

    ふ(源平盛衰記)」という源頼政のエピソードがある。

   聞こゆる=嗅覚に感じる。匂う。

   なれも思ひのあるにこそ=典拠があるか。

   東には・・・=実際の太陽や月があるのか、太陽や月を象ったものがあるのか。