religionsloveの日記

室町物語です。

花みつ②ー稚児物語3ー

上巻

その3

 次第に日が暮れていくので、岡部と別当は互いに暇乞いして、岡部は花みつに向かって言った。「今日からおまえはここに預け置こうと思う。別当の御心に背くことなく、よく学問に励み、父の名誉ともなって、自身も徳を身に付けなさい。月みつもいずれ上らせようぞ。」と言い置いてお帰りになった。

 月みつはこの事を聞いて、「ああ羨ましいことだ。兄上は山に上りなさったというのに、父上はどうして私を上らせてくださらないのだろうか。」と不満を口にしたのを岡部はお聞きになって、「殊勝な物言いであることよ。まだ幼いこととて寂しい山住まいはいかがと思って、とりあえず花みつだけを上らせたが、大人びて学問をしたいと言うとはうれしいことだ。」と言って月みつをも連れて山へお上りになった。別当はますます恐縮して、心を込めて住まわせなさった。

 人々は、「ああ別当は果報者であるなあ。守護代の公達を兄弟そろって預かりなさるとは。羨ましいことだ。」と言い合った。そう思わぬ人はいなかったのである。

 そうしているうちに、この稚児たちは年頃になりなさって、容顔は美麗にして、霞の中を漂う花の香を届ける春風が青柳を乱れ揺らすようなお姿は、観音菩薩勢至菩薩の化身かと思われ、智慧・才覚も非常に優れ、一を聞いて十を悟るほどで、特にもののあわれを深く理解し、そのこころざしは優雅で、書写山三百坊の衆徒の数は千余人といわれたが、一目でも見た人は言うに及ばず、伝え聞いた人でさえ、この稚児たちに心魅かれない者はなく、「どうにかして近づき睦んで、御経の一偈をも伝えたいものだ。」と思わない者はいなかった。

その4

 さて、悲しさを一身に負ったのは花みつ殿の母上である。ほんのかりそめの風邪心地とおっしゃって、病の床におつきなさったのである。岡部は嘆き心配して、様々な薬を与え、神に訴え仏に祈り手当なさったが、命を散らす無常の風には防ぐ手立てもなく、次第次第に弱りなさっていった。

 今は祈りもかなわずと見えた時に、岡部は妻の枕元に寄り添って、「おぬしの容態を見ると恨めしくて仕方がない。どうしてそんなに弱りなさってしまったのか。あの幼い子たちの生い先を見届けたいとは思いなさらないのか。もし心の中に思っていることがあったら包み隠さずおっしゃいなさい。」と言うと、御台所は枕を傾けて、「私が死んでしまったならば花みつが嘆くであろうことが悲しゅうございます。月みつも同じ兄弟のように思いますので、明日からは月みつの母を招き入れて私と同様に正妻として二人を育てさせなさってください。他の女性と親しくなることは決したなさらないでください。これ以外に言い残すことはございません。」と言って眠るようにお亡くなりになった。花みつ月みつ兄弟も山を下りて嘆きなさった。とりわけ花みつの心中はたとえようもないほどだった。

 さて、そのままでいるわけにもいかないので、泣く泣く葬儀を執り行い、もはや初七日も過ぎたので、御台所の御遺言の通りに、月みつ殿の母を館に招き入れて、新しい御台所と定めなさった。かつてのひっそりとした住まいと打って変わって、今まさに栄華の身となりなさった。「盛者必衰、栄枯地を変える(栄枯の立場が逆転する)」とはこのような事を言うのであろうか。

 このような状況でその頃、京都に騒乱があって赤松殿が都へ上りなさる事となり、岡部もお供に加わり、国元が気がかりながらも京にとどまっていた。その後、新たな御台所はまことの母ではない恨めしさ、月みつばかりにのみ衣や小袖をあつらえて送り、朝夕も頻繁に見舞いを遣わしたが、花みつ殿には全く訪ねることはなかった。

 岡部は都にいてつくづくと思案を巡らし、「傷ましいことだ。花みつは母に先立たれて心細い上に、私までも長いこと京都にいて、きっと万事にわたって不自由であろう。」と思って、正月の晴れ着にと年に暮に小袖をあつらえて、「これを花みつの所へ送りなさい。」と播磨に届けると、女房はこの手紙を見て、「我が子月みつには何の便りもお寄こしなさらないで、花みつの事ばかり細々とお書きなさる。恨めしいことよ。」と言って、すぐさま手紙を書き直して、「月みつへの小袖です。」という事にして寺へ送りなさる。

 花みつはひどくつらく悲しくて、母親の事ばかり嘆き、学問も全く身につかず、悲嘆に沈んでいるのであった。

原文

その3

 やうやう日も暮れければ、互ひに暇乞ひして花みつにのたまふ。「今日より汝はこれに留め置くなり。別当の御心に違はず、よきに学問して父が名をも上げ、その身の徳をも心に入れよ。月みつをもやがて上すべき。」とて帰らせ給ふ。

 *月みつこの由を聞きて、「うらやましな。兄御前は山へ上り給ふに、何とて我をも上せ給はぬ。」とかこちければ、岡部聞き給ひ、「優しくも言ひけるものかな。未だ幼ければ寂しき山住みもいかがと思ひ、まづ花みつばかり上せけるに、*おとなしくも学問せんと言ふこそうれしけれ。」とて、これも連れて上られける。別当いよいよ忝しとて、心を添へて置き給ふ。

 人々申しけるは、「あはれ別当は果報の人かな。守護代の公達を兄弟まで預かり給ふ。うらやましや。」と思はぬ者こそ*なかりけり。

 さる間、この児たち盛りになり給へば、容顔美麗にし、*霞匂ふ花の香の風に乱る*あをやのいとたをやかなる御姿、まことに*観音・勢至の化身かと、智慧・才覚は世に優れ一を聞きて十を悟り、ことに情けの色深くこころざしの優れければ、書写三百坊に衆徒(しゆと)の数はおよそ千余人と聞こえしが、一目見る人は言ふに及ばず、聞き伝ふる人ごとに、この児たちに心を懸けぬ人もなく、「いかにもして睦び近づきて*御経の一偈をも伝へん。」と思はぬ者もなし。

 ことに別当の御心浅からず、学びの窓に向かひ給ふ。

(注)月みつ・・・=「花みつ」では月みつの申し出で書写山に上らせたとあるが、

    「花月」では岡部が月みつの母の心情を思いやって月みつをも上らせた、とあ

    り、「月花」では月みつを思いやって上らせたとある。

   おとなしくも=おとなびて。一人前のように。

   なかりけり=「なかりけれ」とあるべきところ。

   霞匂ふ・・・=美女の形容で「花顔柳腰」という四字熟語がある。二人の美しさ

    を美女の形容で描いている。

   あをや=「青柳」か。青柳なら縁語として「いと」(糸・いとの掛詞)にかか

    る。

   観音・勢至=阿弥陀仏の脇侍である菩薩。

   御経の一偈=天台宗の主要経典「法華経」の偈文に一節、という意味であろう。

    お経を捧げることが親愛の情を伝えることになるのか?「法華経譬喩品」に

    「乃至不受 余経一偈(大乗経典以外の経典は一偈も受け入れてはいけな

    い)」とある。

その4

 ここにものの*あはれを止めしは、花みつ殿の母上、ただかりそめの風邪の心地とのたまひて、仮の枕に臥し給ふ。岡部嘆き給ひ色々薬を与えへ、神をかこち仏を祈り養生し給へども、*無常の風は防ぐに頼りなく、次第次第に弱り給ふ。

 今はかなはじと見えし時、枕元に寄り添ひて、「うらめしの人の有様や、何とてさやうに弱り給ふぞや。あの幼(いとけな)き子供の先途をも見届けんとは思しめさすや。思しめすことあらす、包まずのたまへ。」とありければ、御台枕をそばだてて、「我はかなくなるならば、花みつが嘆かん事こそ悲しけれ。月みつとても同じ兄弟がごとく思ひければ、明日より月みつが母を呼び入りて、我がごとくに供へ、二人の者を育てさせてたび給へ。余の人に*なれ給ふ事、ゆめゆめあるまじ。これより言い置く事もなきぞ。」とて、眠るがごとく失せ給ふ。兄弟の人々も山より下り、嘆き給ふ。その中にも花みつの御心たとへんかたもなかり。

 さて、あるべきならねば泣く泣く御後を弔ひ、やうやう七日も過ぎにければ、御台所の御遺言に任せて、月みつ殿の母を館に呼び入りたてまつり、御台所と定め給ふ。いつしかかすかなる住まゐを引き替へて、いまさら栄華と栄へ給ふ。「盛者必衰、*栄枯地を変ゆる」とは、かやうの事をや申すべき。

 かかる所にその頃、京都の*騒がしき事ありて、赤松殿都へ上り給へば、岡部も御供に参り、*中々在京し給ひける。その後にまことならぬ親の恨めしさは、月みつにのみ衣(きぬ)・小袖を調(ととの)へて朝夕の見舞ひも繁かりしが、花みつ殿をば仮に訪ひ給ふ事もなし。

 岡部は都にありながら、つくづくと心をめぐらし、「無慙や、花みつは母に遅れて頼りなき上、我さへ久しく京都にゐて、さこそよろづ*事足らはじ。」と思ひ、*年の暮の小袖を調へて、「これを花みつが方につかはせ。」とありければ、女房この文を見て、「我が子には何とも*訪れもし給はで、花みつが事ばかり細々と書き給ふ、うらめしさよ。」とて、やがて文を書き直し、月みつ方への小袖なりとて寺へ送り給ふ。

 花みつはいとど物憂く悲しさに、母の事をのみ嘆き、学問もさらに身に添はで、嘆き暮らし給ふなり。

(注)あはれを止めし=悲しみや不幸を一心に受けた。

   無常の風=風が花を散らすことから、人の命を奪うこの世の無常を風にたとえて

    いったもの。

   栄枯地を変ゆる=栄枯の状況が以前と逆転する事。

   中々=「中途半端に、どっちつかずに」の意。「国元に未練を残して」というニ

    ュアンスか。

   騒がしきこと=争乱。

   事足らはじ=不自由であろう。

   年の暮の小袖=正月の晴れ着用の小袖。

   訪れ=手紙。