religionsloveの日記

室町物語です。

稚児今参り⑧ー稚児物語2ー

下巻

その10

 何日か過ごしていると、姫君の夢に、父大臣や奥方の御嘆きなさる様子ばかりが何度も何度も現れるので、「きっと私のことを心配して嘆いているのだわ。」と思いなさっているのを、乳母は傍で見て、かわいそうに思い、「どうにかして父上母上にも、わたしが同じこの世にいる事を耳に入れたいものです。」とおっしゃるのももっともな事なので、まずは僧正に、「稚児が見つかりました。」申し送ると、僧正は急いで山から下りていらっしゃって、「わが法力は確かなものであるよ。」と自分の手柄だと思いなさる。

 乳母が、「尼天狗は、稚児とこの姫君を一緒に連れて来て同じ所に置いていったが、どこの御方かもわかりません。」と言うと、僧正は、「大臣殿から祈祷を頼まれたあの事だろう。」と思うとこれも自分の手柄になるとうれしくて、大臣の邸に行って殿にこの事を語った。

 「はっきりそれとわかる人はおりませんが、大体の事情は姫君の場合と似ていらっしゃるのでもしかしたら。誰かそれとわかる女房をお遣わしなさって見させなされ。」と申し上げる。

その11

 奥方様は依然として、ほとんど物も召し上がらず、息も絶え入るそうな様子であるが、この事を聞いて、宇治の乳母の元へ、姫君の乳母である宰相を遣わされた。

 稚児は元々の姿では、かつて僧正に従って祈祷に来た時の姿を見知っているかもしれないと、元服した男の姿になって、几帳のあたりに隠れるように控えていると、宰相の乳母は姫君を見て、言葉も何もさておいて、真っ先に覚えるのは涙である。その涙に咽びかえるのであった。

 姫君の方もかける言葉はなく、袖は涙を堰き止める柵であるはずなのに、その袖さえ涙を堰き止めることができない程であった。

 稚児の乳母は、「尼天狗が、稚児と姫君を同じ所で監禁していたようです。」というようなことを語って、「何日経っても、何もおっしゃってくださらず、どちらの方かもわからず月日を送っていましたが、僧正殿が、『もしや。』と申されまして。」などと

語るのである。 

その12

【絵巻】

 宰相の乳母が帰って参ったが、「もしも、まちがいでしたと言いはしないか。」と誰もがはらはらしていたが、この事を申し上げると、非常に喜んだ。

 そうして、殿や奥方が「どうなっているのか。」おっしゃると、「稚児の乳母が『比叡山で失踪した稚児と一緒に暮らしていなさっていたのですが、どちらの方とも知らないので、そのまま過ごしていたのですが、いまさら別離するのも悲しいことでございます。帝・春宮も姫君は亡くなったと思っているのですから、二人の契りをそのまま遂げされていただけるのならうれしゅうございます。』とくどくどしく申しておりました。」と伝えたところ、「もっともな事だ。内裏・春宮にも死んでしまったと申し上げたことなので、どうとも奏上する必要はない。ただ、生きていて再会できるのがうれしいことだ。」と言って急いでお迎えを遣わした。

 稚児をも迎え入れて元服させなさった。

 姫君の兄上の四位の少将は中将に昇進なさっていたので、この稚児の君を腹違いの庶子として少将と名乗らせた。

 容貌優れた中将・少将が出仕なさったので、帝を始め人々も申し分ない二人だと寵愛なさった。

 さて、尼天狗には追善供養として、五部の大乗経の書写奉納などたいそうな事をして、弔いなさった。すると、姫君も稚児も夢に、尼天狗が紫雲に乗って美しい姿で、「様々に弔いいただいて、ただ今は兜率天の内院に参ることができました。」とお礼を述べる同じ夢を見なさったということである。

 その後も二人の間には光り輝くような美しいい若君や姫君がたくさんお生まれなさって、姫君は女御として入内なさった。少将も大将となったりと、前世の宿縁も知りたいほどのお二人の契りであった。

【奈良絵本】

 宇治の乳母は、「このようにして何日かを過ごしてのですが、何もおっしゃらず、どこぞの方ともわからないので、そのまま過ごしておりましたが、もしや僧正殿の申していた方でしょうかとご連絡いたしました。」と言い、さらに自分の身の上や、二人の契りが変わらないことを、いつものように機転の利く人なので、感情豊かに語るのであった。

 宰相の乳母も、「それはもっとものことだ。」と内心思って、「できるだけ思いの通りに申し上げましょう。」と応じて急いで帰ろうとした。

 宰相の乳母が帰参して邸に入るうちも、みな待ち遠しく思い、「もしやあってはいけないことでも言い出しやしまいか。」と常にはあらず気をもんでいた。

 奥方様の元に参上して、「間違いなく姫君でした。」と申し上げると、この上なくお喜びなさった。

 そうして、「どのような状況ですか。」と尋ねなさる。

 「比叡山で失踪した稚児と同じ所で過ごしていたそうですが、姫君がどのような御方かわからないので、そのままで何日も送っていたそうです。」と乳母の言うままに報告すると、「先方の申しようももっともな事です。まずは急いで姫君をお迎えしましょう。」と言って再びすぐに宰相と中納言をお遣わしいなった。

 姫君はうれしいものの、反面稚児と別れるのがつらくて、何日もの間住み慣れた宇治の風情にも心魅かれ、乳母の情愛にも名残り惜しくて、「誰にも気づかれないうちに出よう。」と思うので、思いのたけの挨拶もできずにお立ちなさる。

 大臣の邸で待っているる両親の御心の内は、離れ離れになった時に戻るようで、お互いに涙を流すばかりで、言葉を交わすこともできないのはもっともな事である。

 さて、宇治では、「稚児も若君もすぐにお迎えに来ます。」と宰相が約束をして帰ってので、千年もたつようにじれったく思っていると、十二日ほどして牛飼いなどを盛大に清らかに仕立てて、若君のお迎えには、奥方の甥御である左近の侍従という方が美しい装束で参りなさった。

 その他諸太夫三人・侍五人・雑色などと、「それほど大げさにならないように。」とおっしゃるが、われもわれもお迎えに行きたいとざわめいといた。それは制して申しつけて者だけを遣わした。しかし、残った者もこのような嬉しいことを見るのはこの上ないことで、「『源氏物語』宇治十帖の匂兵部卿が中の宮を迎えに行った時もこうだったのだろうな。」と思い合わせると残って待っている方も慰められるのであった。

 稚児は元服姿で出迎えた。その時に水車を見て、

  思ひきやうきにめぐりしみつくるまうれしき世にも会はんものかは

  (浮いて廻る水車のように、つらいことに遭遇してやがてうれしい相手に会おうと

  はかつて思っただろうか)

 姫君が大臣の邸にいらっしゃると、すぐに殿が対面なさる。

 兄君の四位の少将は今は頭中将であったが、その兄君とも対面した。 

 この稚児のひと際優れた匂うような美しさに、花の傍ら・紅葉の下にいるような心地がした。

 稚児は実は家柄は賤しくなかった。藤原北家の末裔でいらっしゃったが、父母が早く亡くなりなさって乳母だけで育てていたのを、比叡山の僧正が幼い頃より影のように離しもせず可愛がっていたが、このような不思議な宿命となったので、「このような契りは現世だけではあるまい。前世からの宿縁だろう。」と思い、帝や春宮にも、「姫君はもう亡くなったと知れせてあるから。」ということで、稚児を(もしくは若君を)妾腹の庶子と名乗らせたのである。

 中将と少将、二人そろって出仕すると、その容貌は薫と匂宮のように美しく、帝を始め殿上人たちも申し分ないお二人だと称賛するのであった。

 その後、今参りと姫君の間には光り輝くような若君・姫君が生まれなさった。姫君は女御として参内なさった。

 少将が間もなく大将に昇進なさったのは前世からの素晴らしい宿縁である。

 尼天狗の追善供養には、五部の大乗経を書写奉納して供養して、仏塔を建立して阿弥陀三尊を安置しなさって、盛大に法要を行いなさった。すると、尼天狗が紫の雲に乗って兜率天の内院に参った夢を見たという。

 また、宇治の乳母はその近くに所領を賜ってこの上なく豊かに暮らした。

 乳母の子で、若君の取り上げばあさんであった侍従は、三条院で女御のお付きの女房としてお仕えし、皆が皆素晴らしかったということである。

 ただ、これは近き頃の事ゆえお読みになった御方はよくよく秘密にしてください。

原文

その10

 *日数の経るままには、姫君の御夢にも殿・上の嘆かせ給ふさまのみ、同じやうにうち続き見え給へば、さこそと*思ひきこえ給ふも、いとほしく覚ゆれば、「いかにして同じ世にある由を*聞かせたてまつらん。」とのたまふも理なれば、*僧正へぞ児の出で来給へる由を申しやりにければ、山より急ぎおはして、「法の力空しからぬにこそ。」*我が功名にぞ思す。

 児、この姫君も一つ所へ具して尼天狗送り置きたてまつりぬれども、いづくの人とも知りたてまつらぬ由申すに、僧正、「かの御事にこそ。」とうれしくて、大臣殿へ参り給ひて、殿にこの由語り給ふ。

 「確かに見知りきこゆる人は侍らねども、おほかた事の折節似つかはしくおはしませば、もしやと人を遣はしてみせ給へ。」と申し給ふ。

(注)日数の・・・=この辺りは絵巻はさっぱりした記述である。奈良絵本は詳しい。

   思ひきこえ給ふも=殿や奥方が姫君のことを思う。昔は、こちらが思う人が夢に

    現れるのではなく、こちらを思っている人が夢に現れると考えられていた。

   聞かせ=原文「聞かれ」。文脈を考慮して改めた。

   僧正へぞ=乳母の機転。僧正経由で大臣邸に知らせようとした。策士である。

   我が功名にぞ=自分の法力のおかげだと思っている僧正はちょっと滑稽である。

その11

 上はありしままにて、はかばかしくも物なども見入れ給はず、あるかなきかにておはしつるが、この事を聞き給ひて、乳母の宰相をぞ遣はされける。

 児は元の姿にては人見知りぬべければ、*男になりて几帳のあたりに隠ろふて侍りけるに、宰相の乳母、姫君を見たてまつりて、先づ知る涙に、咽せかかりぬ。

 姫君も言ひやり給ふ事なく、*袖の柵(しがらみ)堰(せ)きかね給ふ。

 児の君ぞ、尼天狗の同じ所に置きたてまつりし事など語りて、「日数を変えて侍りぬれど、いづくの人とも知りたてまつらで、月日を送りつるに、僧正申されけるにこそ。」と語りきこゆる。

(注)男=成人男性。元服姿。

   袖の柵=流れる涙をせき止める衣の袖を、川の流れをせき止めるしがらみに見立

    てていう語。

その12

【絵巻】

 宰相の乳母、帰り参りたれば、「もしあらぬ事とや申してん。」と誰も肝を消し給へるに、この御事と申すに、うれしともおろかなり。

 さて、「いかにいかに。」とのたまふに、「山にて失せ給ひける児と一つ所に送りたてまつりて侍りけるを、いづくの人とも知りたてまつらで、日数を送らせ給ひ侍るに、いまさらひき別れたてまつらん事の悲しく侍り。この世になき人と思しつらん御心に*なずらへて、契り違へぬ御事ならば、いかにうれしくなど侍りし。」と*かきくどき聞こえさすれば、*「まことに、内裏・春宮にも亡き人と知られきこえし御事を、いかにと申すべきならねば、ただ、命生き給ひて、見たてまつらん事こそうれしけれ。」とて、急ぎ御迎へにたてまつり給ふ。

 *児をも迎へ寄せ給ひて、元服させ給へリ。

 姫君の*御兄人(せうと)の四位の少将は、中将になり給ひしかば、この児の君をば、*外腹(ほかばら)の殿の御子とて少将とぞ申しける。

 容貌(かたち)美しく二人出で入り給へば、内裏より始め世の人も思ふやうなる御事に、愛できこえけり。

 さても尼天狗の孝養に、*五部の大乗経などゆゆしき事どもをして、弔ひ給ひし御夢に、紫の雲に乗りて、美しげなる姿にて、「様々弔ひ給ふによりて、今こそ*兜率の内院に生まれ侍りぬれ。」と、*二つ所ながら同じ様に、見給ひしぞかし。

 その後も、若君・姫君美しく、光るやうにて、あまた出で来給へるを、姫君をば女御に、参らせ給ふ。少将も大将になりなどして、*先世(さきよ)ゆかしき御契りなりけり。

(注)なずらへて=みなして。かこつけて。どうせ死んでしまったと思っていた姫君だ

    から、春宮へに入内などとは言わないで、一緒に暮らした二人の契りをそのま

    ま続けさせてください、との乳母の説得。手八丁口八丁の乳母の面目躍如。

   かくくどき=原文「かきり」(マゝ)。

   「まことに・・・=姫君の乳母、宰相の感想でもあろうが、帰って報告を受けた

    殿や奥方の感想でもある。

   児=今参りの事か。姫君の子とも考えられるが、それでは元服まで時間が長い。

   姫君は死んだことになっているので、夫とは言えず、腹違いの兄弟の子として元

   服させたのだろう。

   御兄人=冒頭に紹介され、一度比叡山への使者として登場した。

   五部の大乗経=天台宗でいう大乗の教法を説いたものとして選ばれた五部の経

    典。華厳経・大集経・大品般若経法華経・涅槃経。

   兜率の内院=弥勒菩薩が住む兜率天の内院。極楽浄土。

   二つ所=姫君・今参り両方に。

   先世ゆかしき=前世も素晴らしい。

【奈良絵本】

 日数をかくて経ぬれど、いづくの人とも知りたてまつらで、月日を送りつるに、僧正申されけるにこそとて、我が身の行く末語りなどして、契り変はらぬ事を、例の*心聞きたる人なれば、風情よくぞ申しける。

 宰相の乳母も、「理かな。」と心の内に思ひて、限りなきままによく申しなすべし

き由*あひしらひて、急ぎ立ち帰らんとぞしける。

 宰相の乳母帰り参り来る間、引き入るる程も、心もとなくも、「あらぬ事とや申し出でん。」と肝心もなく、なかなか日頃よりはみな*心づくしなり。

 御上へ急ぎ参りて、相違なくこの御事を申すに、うれしともおろかなり。

 さて、「いかにいかに。」と申し給ふ。

 「山にて失せ給ひける児と、一つ所に送りたてまつりて侍りけるを、いづくの人とも知りたてまつらで、日数を送り侍りぬる。」を、今ありつる様に申せば、「理なればさもこそ。まづ姫君の御迎へ急ぎたてまつらん。」とて、またやがて宰相と中納言ぞ参りける。

 姫君うれしきにも憂きながら、この日頃住み慣れぬる宇治のあたりの、さすがにあはれに、乳母が情け深かりつる名残りも悲しければ、「人にも見知られじ。」とて、思ふ程もえ物ものたまはで出で給ひぬ。

 殿には、待ち見給ふ親たちの御心の内、なかなかまた別れし時に立ち帰りたるやうに、互ひに涙に暮れて、物も言ひやり給はぬ、理なり。

 さて、宇治には、「児も若君も急ぎ御迎へにこそ。」と宰相契り置きて帰りにしかば、千代ふる心地して心もとなく侍りけるに、十二日ばかりして、御牛飼はなどいとゆゆしげに清らかに仕立てて、若君の御迎へには上の御甥に左近の侍従とておはしけるぞ、いと清げにて参り給ひけり。

 その他諸大夫三人侍五人雑色など、「いたくことごとしからぬやうに。」とおほせられけるを、われもわれもと*そそめきけれ、みな留められて、ただこの際ばかりぞ遣はされども、かかる御代を見たてまつるうれしさ限りなくて、かの*兵部卿の宮、中の君への御迎へも限りあれば、かくこそ思ひ合わせられて、残り留まり侍るも慰む心地して侍り。

 児、男姿にてぞ出で給ひけり。水車を見て、

  *思ひきやうきにめぐりしみつくるまうれしき世にも会はんものかは

 大殿(おほひどの)へおはしたれば、やがて殿御対面あり。

 四位の少将今は頭中将にてぞおはしますも対面し、こよなく児は立ち勝り給へる*御匂ひ、人には優れて給ひつれば、*花の傍らの心地して、紅葉の下さへ思ひ出でられけり。

 この児と申すは、元の*根ざしあだならず、*北の藤波の御末にておはしませど、父母亡くなり給ひて、乳母ばかりが育てたりしを、山の僧正幼(いとけな)くより*御身をさらぬ影にてありしに、かかる不思議の宿世出で来ぬれば、「さるべき御契り、*この世一つならず。」と思せば、内裏・春宮にも、「姫君は亡き人と知られにし事なれば。」とて、*この君をば外腹の御子とぞ申しける。

 容貌美しくて、*二人出で給へば、内裏より始めたてまつりて世の人も、思ふやうなる事とてめでたく聞こえけり。

 その後、若君・姫君光るやうに出で来給へれば、女御に参らせ給ふ。

 *少将も程なく大将となり給ひて、めでたき先の世の御契りぞかし。

 さても尼天狗が孝養に、五部の大乗経*書き供養し、御塔建てて阿弥陀三尊を据え給ひて、ゆゆしき事どもし給ひて、紫の雲に乗りて兜率の内院に生(む)まれぬると御夢に、見えけるとぞ。

 また、宇治の御乳母には辺り近き所給はりて、ゆゆしきこと限りなし。

 御乳母子の侍従は、三条殿にて女御に付きたてまつりて、いとゆゆしく各々めでたしとも申すもおろかなり。

 この物語を御覧ずるともがらはよくよく*秘すべし。

(注)心聞き=機転が利く。

   あひしらひ=対応し。

   心づくし=気をもむこと。

   そそめき=ざわざわして。

   兵部卿の宮=「源氏物語」の登場人物「匂宮(にほふのみや)宇治に住む中の宮

    と結婚した。

   思ひきや・・・=「うき」は「憂き」と「浮き」を掛ける。「みつくるま」は

    「水車」と「見つ」をかけるか。「徒然草」第五十一段に、宇治の里人が作っ

    た水車はよく回ったとの記述がある。

   大殿=大臣の邸宅。

   御匂ひ=匂宮を意識した表現か。

   花の傍・紅葉の下=何かの和歌を踏まえるか?

   根ざし=家柄。

   北の藤波=藤原北家藤原氏の本流。

   御身をさらぬ影=影のように自分に付きまとわせる存在。「身をさらぬ影と見え

    てはます鏡はかなくうつることぞ悲しき(落窪物語・巻一)」。

   この世一つならず=夫婦は二世の契りという。あの世までも一緒、もしくは前世

    も一緒。ちなみに師弟又は君臣は三世の契り。親子はこの世限り。

   この君=今参りか。若君とも思われる。

   二人=姫君の兄の中将と今参りが参内したのか?もしくは新たな御絵を見ればわ

    かるかもしれないが未見。見ればわかるかもしれないが未見。

   少将=今参りか。絵巻では今参りが少将になったとの記述があるが。

   書き供養=経文を書写し奉納する事。

   秘すべし=「近き頃」の事だから、近親者がいるから口外してはならないのだろ

    う。