religionsloveの日記

室町物語です。

松帆物語⑦ーリリジョンズラブ8ー

その7

  そうそう、一方の都では、侍従が身投げをしたとの噂が立って、左大将は慌てふためいた。

 「無益に身勝手な慰みごとをして人の非難を受けることだ。それにしても惜しい人を失ったことだ。」

 と悲しんではいたが、世間の人々でこの殿を擁護する者は一人もいなかった。母上はこの書き置いてあった遺書を顔に押し当ててそのまま起き上がりもせず、中将も自分の子のように育ててきた侍従が死んでしまったのかと思うと、悔恨で悲嘆にくれるばかりであった。

 一方侍従は岩屋に泊まって、かの人のいる所を早く訪ねたいのだが、「人目を忍ぶ身で、道案内をしてくれる人も知らずどうしたものだろうか。」などと躊躇している。京で「松帆の浦とやらいう所に渡った。」という噂を聞いていたので先ずその浦を尋ねた。「松帆の浦は絵島が磯の向いにある。」と人々が申すのを侍従は聞いて、「京極中納言藤原定家公が、『来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩身も焦がれつつ(来ない人を待って松帆の浦の夕凪で藻塩を焼くと我が身までも恋焦がれる思いである。)』と詠んだのもこの浦の事だろうか、身が焦がれてしまうというのももっともなことだ。」と思う。

  さてその日はこの浦を尋ねて、ここかしこと立ち止まりつつ捜しながら灯が暮れていくと、時雨が荒々しく降り出して、波音高く打ち寄せる。浦は海士の家居ばかりで、宰相の住まいはどこともわからない。と、灯の光がほのかに見えて、それを目標にに行くと板葺きの堂があった。「海人の苫屋に宿るよりはここに泊めてもらったほうがいいだろう。」などと言って尋ねて行くと、近くに小さな庵がある。立ち寄って見ると、松の葉を囲炉裏にくすべて老僧が一人こちらに向かって座っているようだ。「ごめんください。」と言うと、干からびた声で、「誰ですか。」と言う。「私どもは摂津の国の者です。四国へ渡ろうとして、便りの舟に乗り遅れて困っているのです。この御堂の軒先にでも雨宿りさせたいただきたく思います。」などと言うと不審に思ったのだろう、出てきて灯明の光をかざして見ると、粗末な身なりに身をやつしてはいるけれども、侍従をただの者ではないと思ったのだろう、「それは御気の毒に。」と言って、庵の内へ呼び入れた。

 もの寂しげに住んでいるようだ。達磨大師の画像が一幅掛けてあり、助老(老僧の使う座禅の時のひじ掛け)・蒲団(座禅用の円座)・麻の粗末な夜具などが置かれている。暫く世間話などをしながら、宰相の行方などを尋ねる機会をうかがったが、唐突に切り出すのも不躾だろうとなかなか言い出せない。

 この僧は、若君をつくづくと見て、

 「ちょっと変ですね、津の国とおっしゃいましたが都の御方ではございますまいか。実は私も昔は都の者でした。二十歳ばかりの年、人を殺める事があって、京に住みかねまして、やがて髻を切って江湖山林を浮かれ歩きながら、何年も過ごしてきましたが、どのような縁であったか、このように漁師の苫谷の隣に庵を結び、鴛鴦や鷗を友としながら三十余年を送ってまいりました。」

 などと語るのもおもしろく、それをきっかけに、ここに流された人の事を尋ねると、

 「松帆の浦にそのような人がいましたよ。この夏頃からこの島へ流されてきましたよ。」

 と言う。

 「詳しくお話しいただけますか。訳あって聞きたいのです。」

 と言うと、

 「その人は松帆の浦からこの庵まで頻繁にいらして、都の恋しさなどを語りあっていました。とある殿上人の事を、明けても暮れても恋しく思って泣き続け、その思いを私にも隠し隔てなく語ってくれましたが、その思いのせいでしょうか、気分が優れず病気となって、日々に重くなっていって、この庵へやって来ることもできなくなりました。付き添い看護する人もいず、不憫に思って、日を隔てずに出かけて行って看病しましたが、終に亡くなってしまいました。今日初七日になりました。煙になす(火葬する)ことも、この老僧がいたしました。」

 と語った。侍従はこれを聞くや茫然自失となって、胸が熱くなりその場に倒れ臥して泣くばかりである。

 この僧も、「なんともかんとも、それではあなたがたは宰相殿と縁ある方だったのですね。」などと言って、一緒に泣いたのである。

  

原文  

 まことや都には、侍従の身を投げたる聞こえありければ、大将殿慌て騒ぎ給ひつつ、

 「益(やう)なきすさびわざして人の*嘆きをも 負ひ、また惜(あ)たら様したる人をも失ひけるよ。」

 と悲しみ給ひける。世の人もこの殿をよろしとも申さず。母上はこの書き置きたる文を顔に引き当ててそのまま起き上がり給はず、中将もただ御子のやうにかしづき給ひし甲斐もなく見なし給へば、惜しう悲しうぞ思しける。

 さて岩屋に泊まり給ひて、かの人のある所早く訪はまほしけれども、「慎ましく、案内も知らではいかが。」などためらふ。*松帆の浦とやらんに渡らせ給ふよし、京にて聞きしかば、先づその浦を尋ぬるに、絵島が磯の向ひなる由申すを、若君聞き給ひて、「*京極中納言の、『*焼くや藻塩の』と詠め給ひしもこの浦の事にや、身の焦がれぬるも理ぞかし。」と思ふ。

  さてその日はこの浦を尋ねて、ここかしこに休みつつ暮るるほどに、時雨荒々しく降りて、浪の音高し。海士の家居のみにて、いづくをばかりとも覚えぬに、灯の光ほのかに見ゆ。それを標(しるべ)にて行けば板葺きの堂あり。「海人の苫屋に宿らんよりはここにこそ。」など言ひて尋ね寄るに、傍らに小庵あり。立ち寄りて見れば、松の葉*ふすべて老僧一人向かひ居たるなるべし。「*案内申さん。」と言へば、からびたる声にて、「誰ぞ。」と言ふ。「これは津の国の方の者なり。四国へ渡らむとするに、便りの舟に遅れて惑ひ侍るなり。この御堂の傍らに雨宿りせまほしく侍るなり。」など言へば怪しくや覚えけん、立ち出でて灯明の光を見るに、やつしたれどもこの若君をただならずや見けん、「あな愛ほし。」など言ひて、庵の内へ呼び入れぬ。

 あはれに住みなしたり。*達磨大師の画像一幅掛けて、助老・蒲団・麻の衾ばかりうち置きたり。暫し物語などしつつ、かの人の向後(ゆくへ)問はまほしけれど、うちつけなればうち出でず。

 この僧、若君をつくづくと見て、

 「怪し、都方の人にてぞおはすらん。我も昔都の者なり。二十歳ばかりの年、人を過つことありて、京にも住みかね侍りしかば、やがて髻切りて*江湖山林に浮かれありきつつ、年経侍りけるに、いかなる縁かかかる漁屋の隣を占め、紫鴛白鷗を友としつつ、三十余年送り侍りぬる。」

 など語るもあはれなれば、それを便りにて、この流され人の事を問ひければ、

 「あの松帆の浦にさる人侍りし。この夏頃よりこの島へ移り侍りし。」

 など言ふ。

 「詳しく語り給へ。聞かまほしき故あり。」

 と言へば、

 「松帆の浦よりこの庵までは常に渡り給ひつつ、都の方の恋しさなど語り給ひけるが、殿上人の御事とて、明け暮れ恋ひ泣き給うて、心に思ふ事をば隔て残さず、語り給ひしや、その思ひにや侍りけん、心地患ひ侍りしが、日々に重り給ひて、この庵へも渡り給はず。付き添ひ侍る人も見えねば、あはれに見侍りて、日を隔てず罷り扱ひしほどに、終に亡くなり給ひぬ。今日七日になんなり給ふ。煙になし侍ることも、この僧し侍りし。」

 と語るに、聞く心地ものも覚えず、うつぶし臥して泣き焦がれぬ。

 この僧、「いかにいかに、さては縁にてこそおはすらめ。」など言ひて、我もうち泣きけり。

 

(注)まことや=思い出した時に使う言葉。そうそう。そういえば。草子地なのか、訳

    しづらい。

   嘆き=日本文学大系では、「難き」と読んでいる。非難に近い意味か。

   甲斐もなく=死ぬこと。

   松帆=室町物語大成「松本」。ほ(本の変体仮名)を、本と翻刻したのだろう。

    岩屋の浦の古称ともいう。微妙に違うのか。歌枕。絵島が磯も歌枕。今に残る

    景勝地。淡路島の北東端、やや都へ近い。

   京極中納言藤原定家百人一首に、「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩

    身も焦がれつつ」とある。

   ふすべ=くすべる。いぶす。

   案内申さん=挨拶。ごめんください。

   達磨大師、助老、蒲団=達磨大師禅宗の祖。助老は老僧が座禅をする時ひじを

    掛けて休む道具。蒲団は蒲の葉で編んだ座禅用の円座。禅僧であることがわか

    る。

   江湖山林=川や湖(の禅寺)、山や林。「山林に交わる」は出家する事。都を離

    れた所。