religionsloveの日記

室町物語です。

松帆物語⑥ーリリジョンズラブ8ー

その6

 左大将からは絶えず病を気遣う使いが来るが、相変わらずの病状を伝えるだけでうかがうこともなく日は過ぎて、長月にもなった。空しく月日を送ることは心細く、ともすれば露と競うかのように涙で袖を濡らすのである。

 ある時、兄の中将殿が物詣でに出かけ人が少なくなっている機会に、秘かに岩倉の伊予法師を呼びに使いを遣わすと、法師も心得ていて、夜陰に乗じて参上した。かねて決めておいた手筈通りに、遺書を書き置いて、それと見せるように身辺整理などをして、皆が寝静まる頃自分も寝入ったふりをしてこっそり四条の邸を後にした。

 この伊予法師は頼りになる男で、てきぱきと準備を整え、乗り物などもぬかりなく用意して、未明には山崎までたどり着いた。ここで暫く休憩を取って、そこから先は常の旅人が行き交う道は誰か見咎める人がいるかもしれないと、貴人が通るとは思いもかけない山道に足を踏み入れ、「白雲跡を埋み青嵐道を進めつつ(白い雲が旅人の足跡を埋め、青い風が吹く道を進みながら)」行くほどに、若君は慣れない旅も生きた心地もしなかったが、ようよう須磨の浦に辿り着いた。歌枕として名高い所なので海に浮かぶ月でも眺めていたいところではあるが、「誰かに見咎められたらいけません。」と伊予法師が制したので、惜しくはあるが衣の片袖を敷いて一人お休みになった。聞きなれぬ波の音がおどろおどろしく、枕近く聞こえてくる。

 「源氏物語」の須磨の巻で光源氏が、「心づくしの秋風」といったのも思い起こされて、

  秋風の心づくしの我が袖や昔に越ゆる須磨の浦波

  (物思いに沈む私の袖に、須磨の浦波の秋風が昔から変わらず吹いていること

  よ。)

 と一人吟じてうとうとしていると、宰相が夢に現れた。ひどく衰弱して様子で、「このようにお訪ねいただいたる嬉しさは、この世を離れてもどうして忘れる事がありましょうか。」などとさめざめと泣いて、

  磯枕心づくしの悲しさに波路分けつつ我も来にけり

  (磯を枕として物思いする悲しさに、対岸の淡路島から波路を分けて私もやって来

  ました。)

 と言うか言わないかのうちに、「たった今淡路へ渡る舟が出るぞ。」と言う声にはっと目が覚めた。

 「ああこれはどういうことか。」と思うが、辺りは出発の準備で騒がしくなってきたので、侍従も外に出て、舟に乗ろうとして暫く汀で佇んでいると、暁近い月が波の上に澄切った姿を見せて、それをも心細く感じられる。

 あちらこちらに船が繋ぎ置かれているのも、「唯見江心秋月白」という白楽天が「琵琶行」で詠んだ情景もこのようなものかと思われた。やがて出港し、漕いでいくほどに岩屋という浦に着いた。

  

原文  

 大将殿よりは、絶えずおぼつかながらせ給へど、同じ様なる心地の由聞こえて過ぎゆくほどに、長月にもなりぬ。いとど心細く、ともすれば*露に争ふ涙降り落つ。 

 ある時、中将殿も*物詣でし給ひ人少ななる折、忍びて岩倉の伊予法師を召しに遣はしたれば、心を得て夜に紛れて来たり。かねて契り定め給ひてしやうに、文書き置き物*取りしたためなどしつつ、寝たるやうにてぞ忍び出で給ひける。

 この法師甲斐甲斐しき者にて、事整へ乗り物など構へて、明けぬほどに*山崎までぞ来たりける。ここに暫し休めて、常の旅人の行き交ふ道は人見咎めぬべしとて、あらぬ方の山路にかかれば、*白雲跡を埋み青嵐道を進めつつ行くほどに、この若君慣らはぬ旅に生ける心地もせで、須磨の浦に着きぬ。名ある所なれば海上の月も眺めまほしけれど、「*人もこそ見咎むれ。」など伊予法師制しければ、心ならず*衣かたしきて寝給ひたれど、聞くも習はぬ波の音おどろおどろしく、枕に近し。

 源氏の大将の、*心づくしの秋風とのたまひしも思ひ知られて、

  秋風の心づくしの我が袖や*昔に越ゆる須磨の浦波

 と独り言ちて少しうちまどろみたる夢に、この宰相あさまし気に衰へて、「かく尋ねおはしましたる嬉しさは、この世ならでもなどか。」などさめざめ泣きて、

  磯枕心づくしの悲しさに波路分けつつ我も来にけり

 と言ふともなきに、「ただ今淡路へ渡る舟なんある。」と言ふ声に驚きぬ。

 あはれと思へど、物騒がしければ立ち出でつつ、舟に乗らむとて暫し汀にやすらふほどに、暁近き月波の上に澄み渡りて心細し。

 *東船西船繋ぎ置きたるにも、「唯見江心秋月白」と楽天の詠ぜしもかかるにやと覚えたり。漕ぎゆくほどに*岩屋といふ浦に着きぬ。

 

(注)露に争ふ=露と競うかのように多くの涙が。

   物詣で=神社仏閣への参拝。

   取りしたため=あと片づけをする。整理する。

   山崎=京都と大阪の間にある交通の要衝。

   白雲跡を埋み青嵐道を進め=「白雲跡を埋んで往来の道も定かならず。青嵐夢を

    破ってはその面影も見えざりけり。山にてはつひに尋ね逢はず、海の辺に着い

    て尋ぬるに(平家物語・巻三・有王島下)」とある。有王が俊寛を鬼界が島に

    尋ねる場面である。山路の間道を通って須磨の浦に着いた下りは発想が共通す

    る。他に漢籍の典拠があるか。「山遠雲埋行客跡 松寒風破旅人夢(和漢朗詠

    集・雑・雲)」も似た表現。

   人もこそ見咎むれ=人が見咎めたら大変だ。

   衣かたしき=衣の方袖を下に敷き、一人寝をする。

   心づくしの秋=物思いをする秋。「源氏物語・須磨・心づくしの秋」は流適の光

    源氏の憂愁を表現した名文として名高い。

   昔に越ゆる=袖が昔に越えるのか、須磨の浦波が昔に越えるのか?いずれにして

    もよくわからない。秋風が「源氏物語」の昔から変わらずに吹いていると解し

    ておく。

   東船西船=室町物語大成では、「アナタノ船コナタノ船」とルビがある。「東船

    西舫悄無言 唯見江心秋月白(白居易・琵琶行)」を踏まえている。楽天は白

    居易の事。静かな船着き場の月夜。

   岩屋=淡路島北端の港。