その3
岩倉の宰相は、花の下で見た侍従の面影が頭から離れず、命も保てそうもないほど悶え苦しんで、どうにか伝手を探し出して手紙を送った。
「過ぎし時、花の下で見るともなしに眺めて以来、あくがれ出た私の魂はいつまであなたの袖の中にとどまっているのでしょうか。あの時のような機会はまたいつかはあるのでしょうか。」
などと細やかに書いて、
花の紐解くる気色は見えずとも一夜は許せ*木の本の山
(花の蕾が開くようにあなたが心を開く気配は見えませんが、せめて一夜の逢瀬は
許してください。木の本があったお山で。)
返歌、
木の本を尋ね訪ふとも数ならぬ垣根の花に心とめじな
(あなたが木の本を訪ねてて来ても、数にも入らない垣根の花のような私には心を
止めないでしょう。)
このような事をきっかけとして、宰相は夜な夜な四条のの邸の門口に佇み、愁苦辛吟していたが、侍従もそれに気づき、次第に愛しく思うようになっていったのであろう、心を許すようになった。しばしば邸へ行き通う仲となった。終には岩倉にある宰相の僧房へも連れ立っていくようになり、馴れ親しむにつれて心から打ち解けていった。宰相が障る事あって、一日ニ日と会えない時は見ていられない程寂しそうで、二人は深く睦み合っていたのである。
この若君に思いを懸ける人はあまたいて、こなた彼方から花に付けたり紅葉に結んだりした恋文はあきれ返る程多く寄せられた。しかし、そのような文には適当な返歌をするだけで、この宰相とは別れる気は全くなく、交情は三年程に及んだ。
原文
さてかの宰相は、花の下にて見し面影身に添ひて、命も耐ふまじきほどになんなりにける。
ある時便りを求めて消息しける。
「過ぎにし折の花の下にて、見ずもあらぬ眺めより、また見に返り来ぬ魂はいつまで袖の中にとどめさせ給はん。ありしばかりのついでもまたいつかは。」
など細やかに書きて、
*花の紐解くる気色は見えずとも一夜は許せ木の本の山
返し、
木の本を尋ね訪ふとも数ならぬ垣根の花に心とめじな
かかることを便りにて、夜な夜な門に佇み、愁苦辛吟しけるを、やうやうあはれとや思ひけん、心解けゆく気色なれば、しばしば罷り通ひつつ、後には岩倉なる坊へも伴ひなどして慣れゆくままに心隔てず。この宰相障る事ありて、一ニ日見えぬ折はあやしう心細きまでなん*睦れける。
さて、この若君を思ひ懸けたる人、こなた彼方より花に付け紅葉に結びたる*玉梓(たまづさ)難しきまでぞ集ひ来にける。されど、返しよきほどにうちしつつ、この宰相に別くる心もなくて、*三年ばかり慣れにけり。
(注)花の紐=花の下紐。花の蕾。解けるに続き、つぼみが開くことを表現する。
睦れ=親しんでまつわりつく。親しみなつく。
玉梓=手紙。
三年ばかり=三年は長いか。