その2
千代若が七歳の時、まだ稚い年齢ではあったが、父正保の遺言であったので下野国日光山の座主の御坊に入門した。成長した後はどのような美丈夫になるだろうかと思われるようなかわいらしい容貌だったので、座主もなみなみならず愛おしみ、人も皆大切に養育した。座主は千代若を手習い・修学のために、碩学の西谷の円実坊昌誉僧都の元に移して指導にあたらせた。学問は聡く賢く、筆を取っても水茎の跡はうるわしく、五年ほど、円実坊で住み習わすうちに、類なく素晴らしく成長なさったのである。
しかし、昌誉僧都は、老齢となり、また、持病にも冒されて、もはや余命も限りとなった。そして、この稚児の有様ををつくづくと見て、
「ああいとおしいことだ。私がもう少し長生きができるならば、病を押してでも学問を見ようと思ってはいたが、今はもう命も終えようとしている。私の亡き跡も心を込めて御経も読み、手習いも怠ってはいけないぞ。さもあらずば、きっと後世の往生の妨げともなろうぞ。そうはいっても誰かにぬしを託さなくては。」
と言って、東谷の教城坊昌長僧都を呼び寄せて、枕近く寄せて、
「老僧はこのようになりました。気がかりなのはこの稚児です。この稚児をあなたにお預けしますから、是非愛おしみなさって、出家学問を遂げさせて、一山の誇りとなるような法師になして、故父君の御跡、我らが後世をも弔わせられるようにお育てください。」
と懇々とお願いするので、昌長は昌誉の真摯な懇願を拒むべくもなく、千代若を引き受けたのであった。
この昌長僧都と申す方は、慈悲深重にして、三衣が破れても気にすることもなく、不退転の覚悟で行業に励み、一鉢の布施(食事)が少なくても不満に思うこともなく、常に一心三観を心にかけ、一念三千に心を澄ましている、実にありがたい方であった。
このようにしてこの稚児が、十二歳になった年に昌誉僧都は亡くなった。故僧都の亡き跡を慕い悲しむことは、傍にもいたわしいほどであった。人々もとかく慰めて、東谷に移らせた。この千代若丸は、優美で上品な稚児で、法会で論談決択をする時の声は、迦陵頻伽の声とも準(なずら)られるほど美しく、声明の歌声は夜明け方に、鶯が寝床を去らず梢でほのかに囀っているように聞こえた。一山あげての遊興にはまずはこの稚児を先頭に立てて楽しもうと、上下皆心を砕いていた。父の血筋か和歌の道にも心を入れ、深く打ち込んでいるようであった。
ある折、朝まだきに一声鶯の鳴き声がする。目を覚まして、「誰かを呼んで鳴くのだろうか。」と、
「梅が香に誘はれけりな鶯のまだしののめに一声は鳴く
(梅の香りに誘われたのだなあ、まだ東雲なのに鶯が一声だけ鳴くよ。)
花の色に鳴き声を添てたのですね。」
と詠んだので、「なるほどありそうなことだ。」と人は皆感心した。
そのような優雅な中でも、書道は並ぶ者がいない程であった。人々は、「まだ手習いを始めたばかりの頃から、見事な趣のある字を書いていたことよ。」と褒め称えていた。折節の会席でも、手習ひのすさみ書きでも、命のはかなさを詠む歌を好んで書いていた。父君がいない事などを思って詠むのだろうかと、人々は父君の非業の死などを語って慰めた。しかし、心の中で培った習性なのか、愁いが積もったからか、このような一首を詠んだのである。
まちここの花も甲斐なく散りゆけば身のはかなさぞ思ひ知らるる
(《まちここの》桜の花も何の甲斐もなく空しく散ってゆく。それを見るにつけて
も我が身さえもはかないものだと思い知れされるのだ。)
このように虚無の歌を詠むので、「これは自らの死を願うようで不吉ではありませんか。」と非難がましく言う人もいた。
原文
七つにならせ給ひけるほどに、未だいたはしながら、遺言なれば下野国日光山の座主の御坊へ上せ参らせ給ひける。生い先見えて容貌(かたち)いと美しくものし給ひければ、座主の御坊疎かならずらうたくし給ひ、人皆かしづき奉る。御手習ひ、物習わしのためとて、*西谷の円実坊、昌誉僧都の元へ移し奉らせ給ひける。学問の聡く賢く、筆取る事たどたどしからず、五年ばかりの、坊に住みに慣れ給ひて、ありがたきまで*大人びおはしましけり。
しかるに、僧都、老いの波の寄せきたる積もり、また、病の冒せる報ひにや、限りのさまにならせ給ひける。この児の御様をつくづくと見参らせて、
「いとほし、我永らへ侍らばさりともと思ひ侍りしが、今は早やむなしくなり侍りなん。亡き跡も心に入れて御経読ませ給ひて、御手習ひ怠るべからず。まことに*後世のほだしにてこそ侍れ。さりながらも。」
とて、東谷(東山谷)の教城坊昌長僧都を語らひ寄せ参らせて、枕近く寄せ奉り、
「老僧はかくなり侍りぬ。この児*らうたくし給ひて、出家学問遂げさせ給ひて、*一山の飾り、父の御跡、我らが後世をも訪はせ給はり候へ。」
とかき口説きのたまひければ、まことにあはれにこそ否み難くて、受け取り参らせ給ひけり。
この昌長僧都と申すは、慈悲深重にして、*三衣の破るるを悲しまず、*行業不退にしては、*一鉢のむなしき事を憂へず、*一心三観に思ひをかけ、*一念三千の心を澄まし、よにありがたき人なりけり。
かくてこの児、十二にならせ給ひ、故昌誉僧都の御跡慕ひ参らせ給ふ事、いとあはれなる程なりけり。とかく慰め参らせて、東谷に移ろはし奉りて、御名を千代若丸とぞ申しける。優にやさしくぞおはしける。*論談決択し給ふ声は、*頻伽声とも準(なずら)へ、*ひかにそう歌の御声はまたしののめに、鶯の寝床を去らぬ梢にて、ほのかに音信(おとづ)れたるとや聞くべからむ。一山の玩びにも先づこの児を先立て参らせばやと、上下心を惑はしけり。和歌の道にも心を入れ、思ひ深くぞおはしける。
ある折しも、明け方深く一声音信(おとず)れければ、「*人こそ鳴くや誰とか」と目を覚まし給ひて、
「梅が香に誘はれけりな鶯のまたしののめに一声は鳴く
花の色に聞き添へてこそ。」
と仰せられければ、「さてもありぬべき事。」と皆人感じ奉りける。
中にも勝れて筆取る事並びなし。人々申しけるは、「まだ*難波津のはかばかしからぬ時よりも、*あくまでゆゑはあるかし。」と疎かならずほめ奉りける。折節の会席にも、御手習ひのすさみ書きにも、はかなき歌(の)を好ませ給ひければ、御父の忌まわしかりし事ども、人々申し出だし慰め申しけれども、御心の習はし、また、いかなる愁ひの積み(罪)にや、一首はかくこそ詠ませ給ひけり。
*まちここの花も甲斐なく散りゆけば身のはかなさぞ思ひ知らるる
とあそばしければ、「これはあまりなる御心の忌まはし。」と謗らはしげに申す人もありけり。
(注)西谷=日光山輪王寺は中世500に及ぶ僧房が立ち並び隆盛を誇ったという。仏
岩・東山・南・西・善如寺の五つの谷があったらしい。円実坊以下、具体的な
実名が多い。日光山の僧侶が実録的に書いたのではないかという印象がある。
「日光その歴史と宗教⦅春秋社)」によるよると、「弁の草紙」は天正十年
(1582)~同十八年の間に事実譚をもとに、真鏡坊昌證が筆録したと平泉澄氏
は比定しているという。論文は未確認。
大人び=成長する。
三衣=僧の着る三種の袈裟。
行業不退=仏道修行が前進して退転しない事。
後世のほだし=(もし怠ったならば)後世の手かせ足かせ(障害)となるという
こと。
らうたく=労たく。世話をしたい気持ち。愛おしむ。
一山のかさり=一山の飾り?日光山の象徴として、か。あるいは、一山の限り
(この山こぞって)か。
一鉢=托鉢で受ける布施か。討證
一心三観=一心に三つの観念(真理)を観じ取る事。天台宗で説く観法。
一念三千=全宇宙の事象が心の内にあるという天台宗の教義。それを心を澄まし
て観じ取る事。
論談決択=問者が問いを立て、講師が回答し、証義が判定するという、ディベー
トのようなものか。宮中の最勝講などがある。「沙石集(5-10)」には
「論談決択ノ道ユ(許)リタリケル」の用例がある。証義の判定には読み上げ
方の流儀なあったのか、その道で認められることもあったのであろう。
頻伽声=迦陵頻伽の美しい鳴き声。
ひかにそう=語義未詳。「頻伽に添ふ」か。それだとくどい。声明の類か。
人こそ鳴くや=古歌を踏まえるか。「国歌大観」未見。
難波津=手習い。「なにはつにさくや・・・」の歌を習字の第一歩として書いた
ことによる。
あくまで=十分に。
まちここの=語義未詳。文脈上、父の非業の死を示す言葉であろうか。