religionsloveの日記

室町物語です。

あしびき㉛ーリリジョンズラブ2ー

巻五 第七章

 今は奈良上人と呼ばれるようになった少将の君は、寂而上人の墓を離れることができず、依然としてたった一人高野の庵室にとどまって修行していたが、後々は霊験あるところどころを修行して歩き、やがて東山の麓の長楽寺の奥に庵を結んだ。済度衆生の心は日々深まり、法華読誦の行は年々積もり、終焉の夕べには天上の楽が空に鳴り響き、沈香栴檀の香りが部屋に満ちて、目の前に三尊が来迎したという。素晴らしい最期であった。

 

 およそ人は常として、はかない夢のような生の内に楽しみに耽溺し、幻のような人生の中に情愛を求めることをひたすら大事なことと思う。儚いこの世を厭い、煩悩のない世界を求める者を、つまらない張り合いのない者だと軽んじる。これほど愚かしいことがあろうか。豪傑や賢者にも余さず取り付く無常(死)という名の殺鬼は朝に寄り添い夕べに近づく。富豪も貴人も嫌わず取り付く有為(はかなさ)という名の怨賊は昼に窺い夜に競って狙う。たとえ僧正・法務の高位を得て、銅陵・金谷の富を得たとしても、輪廻悪趣の妄執ばかりが募って、まったく厭離穢土のすばらしいきっかけとはならないのである。だから、天台大師は、「智解が胸に満ち精進が火を消したとしても、無常を悟らなければ、容貌がいくら美しくても、媚(色気)のないようなものである。」とおっしゃった。浄明居士の言葉に、「この身は幻のごとし。悪道の内に現れる。この身は夢のごとし。虚偽の中にあるのだ。」と述べている。白楽天の逍遥の詩には、「この身はどうして惜しむに足ろう、この身は虚空の塵が集まったものにすぎないのだ。」という。

 このように先人はこの世の無常を説いている。それなのに、我も人も名利の道を求めて苦しみ、求めればかなえられるであろう出離遁世をしようとはしない。そのような中で、寂而上人・奈良上人は、南都・北嶺の住みかを出て、大原・高野に庵を結んで遁世したことは、賢明なことだ。と思われる。

 また、人を思慕し、愛を傾けることは、この世一世の契りではない。卑近なことわざにも、「同じ一樹の木陰に宿をとるのも、同じ一河の流れを酌んで飲むのも、皆前世の契り。」とか申すのですよ。それなのに近頃の世の中は、心映えなど二の次にして、位や身分で人を選び、人情を差し置いて名利を優先させることがあまりに多い。物の数にも入らないとるに足りない私ではあるが、この風潮には、切なさに網の目に余るほど涙が溢れ、つらさに耐えきれない思いの火が灰の下で埋火がこがれるようにじりじりしている。

 こんなわけで、純粋な愛を貫き、権威や名利を捨てて、遁世に生きた二人の昔物語を書き顕して、後の世の参考にしてもらおうと思ったのです。

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参照 芦引絵


 

(注)銅陵・金谷=どちらも中国の県名だが、銅・金を語呂よく言ったもの。

   厭離穢土=穢れたこの世を嫌い離れて、浄土へ向かう事。

   天台大師=天台宗の開祖。

   智解=智慧によって悟ること。

   精進が火を消す=不明。対句から判断して精進がプラスをもたらす意か?

   浄明居士=維摩詰。釈迦の弟子。