巻一 第七章
侍従は山に登っても、白河のことばかりが気にかかって物思いに沈んでばかりいた。律師も侍従が尋常ではないことに気づきあれこれ訪ねて不審を募らせる。そんなわけで、用件が済んだからとさっさと山を下りるわけにもいかず、どうにも仕方なく四五日を過ごしていた。
勤行も寺務も、しなければならないことは多く、身動き取れない侍従ではあったが、平生を保とうにも、心のいら立ちが日々募るばかりで、とうとう抑えきれずに、全てを振り払って白河へと下った。
真っ先に例の宿所を訪ねていき、この数日の気分のふさぎようをも、若君に話したいと思ったが、着くとがらんとして人はいない。宿主と思われる者に詳しく尋ねると、「ここのところご逗留なさっていたお方は、今朝方早く奈良へおくだりになりましたよ。」と答えた。侍従は釣り舟を流してしまった海人のような心地で言いようもないぐらい落胆してしまった。「それではいつ再び上京されるのか。」と問い返すと、「私が知ったことではございません。この度だってさしたる要件があってお泊りになったわけではないようですから。」と答えるだけで取り付く島もない。
侍従が、藤袴や女郎花が露を重たげに載せながら咲いている前栽に立ち寄って、ほのかに漂う花の香に、若君を思い出しながら沈み込んでいる様子に、宿主は不憫だと思ったのだろうか、返ろうとする侍従を呼び返して、「若君にお仕えしている中童子が、『ああ、山のお方のご宿所はどこでしょう。若君が書いたお手紙をお渡ししたいのですが。』と何度も訪ねてきたのですが、私共もどこのどなたか知らぬゆえ、童も力を落として帰っていきましたよ。ひょっとして山の人とは、あなたのことでございましたか。どうして、昨日一昨日に来なかったのですか。」というので侍従は目の前が真っ暗になる思いであった。
二日ほど京に留まって、奈良の若君を知るつてもあろうかとあれこれ訪ねたが、聞き出す情報もなかったので、こうもしていられない。
有明の月は、暁には空にとどまっているものなのに、その暁を待たずに消えてしまった若君を恨めしく思いながら、山へと戻る侍従であった。