第十四章
672年頃創建された園城寺は、天智・天武・持統の帝が産湯と浸かった霊泉があって、御(三)井の寺とも呼ばれたという。
この古刹を中興したのが円珍である。
帰朝の船中の夢に現れた新羅明神は、自分は円珍の仏法を守る守護神だとし、荒廃した園城寺に導く。円珍は三井寺を再建し、寺内に新羅明神を祀る。
比叡山に地歩を築いた円珍は、866年に園城寺を延暦寺の別院とした。その二年後、円珍は第五代天台座主となった。
円珍入寂後、円珍門徒は、第三代座主の円仁門徒と不和になり、こぞって三井寺に下山した。
当時、正式な僧侶になるには、受戒しなければならなかった。受戒に必要なのが、しかるべき戒師と正式な戒壇であった。(正しい戒律を初めて日本に伝えたのが鑑真和尚という。)
戒壇は、日本国には四基、奈良の東大寺・下野の薬師寺・筑前の観世音寺そして近江の延暦寺である。
三井寺は1041年に、戒壇建立を朝廷に願い出るが、諸宗に可否を問うと、延暦寺だけが反対して認められなかったのである。
これ以降、山門と寺門の対立は激化する。
山門衆徒による三井寺の焼き討ちは幾度にもおよび、堂宇をことごとく焼き尽くされることも度々あったのである。
無論、寺門から山門へ焼き討ちをかけることもあったが、寺勢の違いはいかんともしがたい。
度々焼失したという事は、度々復興したという事で、源氏一族など厚く帰依する信徒も三井寺には多くいたのである。
閑話休題。
衆徒の怒りは花園の焼き討ちだけでは収まらない。
相手は積年の讐敵、比叡山である。
全山一堂に会して僉議する。
「我が寺の稚児を山門の奴等に奪われるなど、寺門の恥辱、これに過ぎたるはない。
こうなったら、当山にも、かねてからの願いであった三摩耶戒壇を立ててしまおう。山門はきっと怒りに任せて闇雲に押し寄せてくるだろう。見事返り討ちにせば、これぞ地の利を生かして敵を滅ぼすはかりごと、ひいては、誤った邪な教えを退けて、この三井寺が正しい戒法を広める道となるであろう。
天が我々に時を与えてくれたのだ。わずかな間もぐずぐずしてはいられないぞ。」
大義は我にあり、策略も十分、という事で、一味同心の衆徒二千余人、敵が攻め寄せるとすれば如意越えの道、ところどころに空堀を切り、寺中を城構えする。
準備万端整えて、三摩耶戒壇を建立する。
(注)別院=本山に準ずる寺院。