religionsloveの日記

室町物語です。

秋夜長物語①ーリリジョンズラブー

序章 

 人はなぜ人を恋うてやまないのか。愛すれば愛するほど苦悩や艱難が待ち受けているのにどうして愛することをやめないのか。なにゆえに人は人を求めるのか。

 我々は天地自然を愛する。理由などない。好きだから愛する。

 春の花が樹頭に咲きほころぶ。その紅を渇仰する心は、天上菩提に導かれる機縁だという。秋の月が水底に冴え輝く。その光を賞玩する心が一切衆生を救済する実相だという。

 天は何も語らない。しかし花や月、万物をして真理を示している。心あるものはそれを悟らんと学び努めなければならない。

 世間は苦しみに満ちている。人がこの娑婆から脱したいと思う時、その煩悩によって菩提となる。天人でも衰え滅する。この運命から逃れたいと思う時、その生死によって涅槃へと達する。

 諸仏は直截に語らずとも、菩薩に化身して順逆の道理をもって教え導き、罪あるものは邪より正に入れ、機縁のないものは悪より善に改めさせなさる。かようなことは経論に説くところであり、書伝にも夥しく載せられている。私のようなものが語りつくすことはできない。

 ただ、近頃、世にも不思議のことを耳にした。これこそ如上の真理を示現するものではなかろうか。

 ここに集い来られた面面よ。枕を欹ててお聞きなされ。老いの寝覚めに秋の夜の長物語を一つ申し上げよう。

 

 今となっては昔のことだが、西山に瞻西上人と申して世に聞こえた道学兼備の方がいた。この方は元は北嶺比叡山の東塔の衆徒で勧学院宰相の律師桂海という人である。内典では天台宗玉泉の流れを酌んで四経三観の理を極め、外典では黄石公の兵書を研学し、嚢沙背水の知略で知られていた。

 ある時は忍辱の衣に大衆を救わんとの心を包み、ある時は誰をも屈服させる剣の刃で猛々しく勇敢に振る舞う。実に聖俗ともに頼もしい、文武の達人であった。

 上人若き折、思うよう、「咲く花はやがて落ち、萌える葉はいずれは散る。この世は儚い一夜の夢のようなものだ。自分は縁あって俗塵を離れて釈家の門に入ったのに、朝な夕な名聞利養に走るばかりで、出離生死の営みを怠っている。なんと情けないことだ。すぐにでもこのお山よりさらに奥山に分け入って、柴の庵を結んで隠れ住み、仏道に専心したいものだ。」と。

 そうはいっても、旧縁断ち難きも世の常、医王山王の結縁も捨てられず、同朋同宿との別離もつらいことと空しく月日を送っていた。

 しかし思いは言の葉に表れる。詩に曰く、

 

 朝々暮々風塵底(朝な夕な俗塵をさすらい)

 失脚誤生三十年(道を踏み外し誤った三十年を生きてきた)

 何日人間栄辱眼(いつの日か人間界の栄辱を見ることなく)

 古松陰裏看雲眠(老松の陰の草庵でのどかに雲を見ながら眠られるだろうか)

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(注)瞻西=西方浄土を仰ぎ見るといったニュアンスの僧名。

   勧学院宰相=宗学の学問所の助教か?

   律師=僧官の一つ。五位に準ずる。五位は貴族でいうと殿上人。

   玉泉=天台宗の別称。

    四経三観=仏教の教理。

   忍辱の衣=袈裟。

   黄石公=漢の張良に閉所を授けてという隠士。

   嚢沙背水=「嚢沙」「背水」はいずれも軍略。

   出離生死の営み=名誉や利益、生死の迷いを離れ純粋に仏道に励むこと。

   医王山王=比叡山の本尊薬師如来とその垂迹日吉山王権現