religionsloveの日記

室町物語です。

稚児今参り③ー稚児物語2ー

上巻

その7

 乳母が衣や袴などをお着せしてみると、普通の女房と全く変わることないばかりか、上品で美しくさえ見える。乳母は意を得たりと喜んで稚児を牛車に乗せて、かの局へと赴いた。

 吉日を見計らって御目通りをすると、女房たちが出てきて、会ってご覧になると、年は二十歳に二つ足りない程ぐらいで、しとやかで優美な様子は心憎いほどである。

 髪の乱れ落ちている様子などは、予想を超えて格別に見えるので、若い女房たちはその様を覗ってはうっとりとささやき合うので、乳母はしてやったりといった気分で、いつものように世間話をしながら、彼女らのお相手をするのであった。

 女房の一人が、「何かお得意なものはございますか。」などと尋ねると、乳母は「御両親が御存命の折は、琵琶を習わせ申し上げたのですが、その後はうちやっておいでです。」などと申し上げる。

その8

 稚児はそのまま局に留まった。姫君がお部屋で琴を弾いているようだ。その音色を聞いていると、雲居遥かに思いを募らせていた時よりも、こよなく慰められうれしいのであるが、一方では何とも恐ろしいことをしているなあとも思われるのであった。

 試しに文を書かせてみると、

  琴の音に心ひかれて来(こ)しかども憂きは離れぬ我が涙かな(琴の音に心魅かれ

  てこちらに参りましたが、なぜか涙は私を離れません。それがつろうございま

  す。)

 限りなく美しい水茎である。人々はその素晴らしさに驚くばかりであった。

 月が曇りなく見える夜の、殿上が姫君に琴の演奏を促した折に、姫君が、「今参りの女房が琵琶を能くすると聞きました。それを聞いてみたいわ。」などとおっしゃるので稚児をお召しになった。

 稚児はほっそりとしなやかな姿で、少し少年っぽい感じはするが、かわいらしく、上品で魅力的である。 

 姫君は、「女房たちが褒めあっているのももっとものことだわ。」と思いながら稚児をご覧になった。

 琵琶の演奏を催促すると、「多少は習いもしたのですが、近頃は患うことがございまして、琵琶の稽古もうちやっておりました、」と言って手に取りもしない。様々に促しなさるので、困ってしまい、とりあえず、盤渉調に調律し、秋風楽という唐楽を弾くと、撥音や手さばきは神がかっていて、上臈の女房のようでこの上なく趣深い。

 大臣殿も耳にするや驚いて、名声を得ている名人上手にも勝る程で、「未だかつてこのような調べを聞いた事はないことよ。」とこの世に比類ないものだとまでお思いになる。

 頃は長月(旧暦9月)の十日過ぎのことで、月が澄みわたって、晩秋の虫の音がかすかに聞こえて、萩の上を吹く風が身に染みる次節で、おのずから心が澄んでいく。

【次の和歌は奈良絵本のみ】

  月のみやそらに知るらん人知れぬ涙のひまのあるにつけても

  (私が人知れず流す涙が時には絶えることを月だけが空で気付いているだろう)

大臣がなおも曲を催促するので、普段は聞きなれない楽を弾いていると、夜はいっそうひっそりして、その趣には、いまだ見ぬ昔の、白居易が琵琶を聞いたという潯陽の川のほとりまで思い浮かべられて、言いようのない情感に充ちている。

 大臣はすっかりご機嫌で、「今宵の素晴らしい琵琶の演奏のご褒美には、姫君への御目通りを許すことにしよう。」と几帳を取り払うので、姫君に視線を向けると、花の夕影に木暮から覗ったのなどは比較にならないくらいで、そのかわいらしい目元や額のあたりはまばゆいほどである。

 こうしてみると、あの乳母の計らいがとてもありがたく、うれしくて涙が浮かぶ心地がするのを、こらえながらそこにいるのだった。

その9

 その夜以来姫君のおそばにお仕えして、昼などは差し向いにお会い申し上げていると、雲居の彼方で思いを募らせていた時とは、生まれ変わったような気がするのであった。

 心を込めて琵琶を姫君に教えたので、奥方様も非常に喜んだ。

 今参り(稚児)は、ちょっとした遊びでも、ほかの女房たちとは違って奥ゆかしく情趣がありげに振る舞っている。

 御前を立ち去ることなくお仕えするので、次第に姫君も打ち解けなさって、いつまでもご一緒に遊び事をなさるのだが、どのような折にか、「わが心かはらん物かかはらやの下たく煙わきかへりつつ」の古歌のように、瓦窯の下で思いの火がくすぶるのを打ち明けたいとの衝動が起きるのはつらいことである。

原文

その7

 衣・袴など着せたてまつりて見るに、女房に少しもたがふ気色なく、あてに美しう見え給へば、乳母うれしくて車に乗せたてまつりて、かの局へ行きぬ。

 日よきほどに通して、女房*たち出で会いて見給へば、年は二十に二つばかり足らぬほどにて、たをやかになまめかしき様心憎し。

 髪のかかりたる程など、推し量りつるよりもこよなく見ゆれば、若き人々覗き愛で*そそめきければ、乳母*しおほせたる心地して、例の口ききてぞ*あひしらひけり。

 「何が御能にて。」など問ひければ、「親たちのおはしまし侍りし程は、琵琶をこそ習はせきこえ侍りしかども、その後はうち捨て給ひて。」など申しけり。

(注)たち=「立ち出でて」かもしれない。

   そそめき=ささやき。

   おほせたる=やりとげる。うまくやる。

   例の=いつものように。用言にかかる。

   あひしらひ=相手をする。

その8

 留めれられて局にて、姫君の御琴を聞きたてまつれば、雲居遥かに思ひたてまつりしよりも、こよなく慰みうれしきものから、空恐ろしき心地ぞするや。

  *琴の音に心ひかれて来(こ)しかども憂きは離れぬ我が涙かな

 物など書かせて見けるに、限りなく美しかりければ、人々もありがたく覚ゆ。

 月隈なき夜、姫君に御琴すすめ給ふ折節なるに、「この人の琵琶を聞かばや。」などおほせられて召し出でたり。

 姿つき細くたをやかにて、すこし*わらはなりなるものから、愛敬(あいぎゃう)づきて、あてになまめかしく見ゆ。

 女房どものほめあひけるも、理に御覧ず。

 琵琶をすすめ給へば、「少し習ひて侍りしかども、日頃労(いたは)る事侍りて、うち捨てて侍る。」とて手も触れねば、やうやうすすめ給へば、わびしくて、*盤渉調(ばんしきてう)調べて秋風楽といふ楽を弾きたるに、撥音(ばちおと)・手使い*かみさびて、上衆(じゃうず)めきたること限りなくおもしろし。

 殿も耳驚き給ひて、名を得たる上手にも、ややたち勝るほどなれば、「今までかかる事を聞かざりけるよ。」と類なきまで思す。

 頃は*長月の十日余りの事なれば、月澄み渡りて、虫の音かすかにおとづれて、*萩の上風(うはかぜ)身に染むほどの折りからも、心澄み渡るに、*なほなほせめ給へば、常に耳慣れぬ楽ども弾きたるに、夜の静まるままにおもしろく、かの*潯陽の江のほとりの見ぬ世の古(いにしへ)まで思ひやられて、いふばかりなし。

 「今宵、優れ給へる御琵琶の*纏頭(てんとう)には、姫君の御前許しきこゆべし。」とて几帳押しのけ給へば、見やりたてまつれば、花の夕影はものの数ならず、愛敬づき給へるまみ額つき目もあやなり。

 乳母が計らひありがたく、うれしきにも涙浮く心地すれば、紛らはしてぞ侍りける。

(注)琴の音に・・・=この和歌は絵巻にはない。奈良絵本により補った。ちょっとつ

    ながりは悪いが、書かせた内容がこの和歌だとすれば、書かせたことの唐突さ

    はなくなる。

   萩の上風=萩の上を吹き渡る風。和歌によく用いられる。

   わらはなり=童顔?少年っぽい感じ?

   盤渉調=雅楽の調子の一つ。

   かみさびて=神々しく。古風で落ち着きがあって。

   長月十日余り=長月十三日は「後の月」。いわゆる十三夜で名月を愛でた。

   なほなほ=この前に奈良絵本では、「月のみやそらに知るらん人知れぬ涙のひま

    のあるにつけても」とある。

   潯陽の江のほとり=九江付近を流れる揚子江の異称。白居易が「琵琶行」を作っ

    た所。「琵琶行」流謫の身の白居易が潯陽のほとりで、ある秋の月夜に落ちぶ

    れた妓女の弾く琵琶の音を聞くという内容で、「千秋の絶調」と評された(ニ

    ッポニカによる)。

   纏頭=歌舞・演芸をしたものにあたえるごほうび。「琵琶行」に「五陵年少争纏

    頭」とある。妓女の歌舞に客が褒美として与えた錦を頭に纏ったことから。

その9

 その夜より侍ひて、昼なども差し向かひて見たてまつるに、雲居のよそに思ひやりたてまつりしに、*生(しゃう)を変へたる身とぞ覚えける。

 御琵琶を心を入れて教へたてまつれば、上も喜び給ふ事限りなし。

 はかなき遊びまでも人には異なる様なれば、心憎く由ありてぞ侍りける。

 御前を立ち去ることなく候へば、やうやう打ち解け給ひて、限りなく遊びつき給へるにも、いかならむ折にか、*瓦屋の下の思ひをしきこへんと思ふ折々の出で来るぞうたてきや。

(注)生を変えたる=生まれ変わった。

   瓦屋の下の思ひ:=「わが心かはらん物かかはらやの下たく煙わきかへりつつ」

    (後拾遺恋4・藤原長能)を踏まえるか。「瓦屋」は瓦を焼くかまど。「瓦」

    と「変わら(ない)」を掛ける。あなたを思う心は瓦の窯の下の煙のように変

    わらずにくすぶり続けています、との意か。

稚児今参り②ー稚児物語2ー

上巻

その4

 姫君の病状はすっかり回復なさったので、僧正は比叡山にお帰りになったが、稚児は乳母のもとにとどまった。

 食事も全くとらず、ぼうっと物思いにとりつかれて病がちになっていると、比叡山からもひっきりなしに使者が遣わされて、医師も大騒ぎして薬を施すが、さしたる効果もなく、僧正は嘆かわしく思って、「もしや物の怪にでも取り付かれたのか。」と思って加持祈祷をしたが、その声さえもやかましく聞こえ、せめて静かに物思いをしたいと、無理やり起き上がって居ずまいを正し、病は苦しくはないのです、との旨を申して、僧たちを山へ帰して、あれこれと思い悩んでいるようであった。

 夜はくつろいで眠る様子でもなく、昼は終日床に臥して暮らしているので、乳母が思うには、「どのような御病気とも思われない、きっと悩み事があるのでしょう。」と。稚児はいくらか心地のおさまる時には手習いをしている。それを手に取って見ると、「霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ」とだけ何度も同じことを書いてあるのを見て、「やっぱり悩み事がございましたのですね。」と思って枕元に近寄って、「このご病状は尋常ではありません。何かお悩み事でもございますのでしょう。どのようなことでも私めにおっしゃってください。仏や神がいらっしゃるのですから、どのようなことでもどうしてかなえられないことがございますでしょうか。悩み事を打ち明けないで死んでしまったならば、それこそゆゆしく罪深いことだと申せましょう。」などと言葉巧みに申すも、「何事をそんなに悩みましょうか。」と言葉少なに語るのが、

ますます不審に思われて、嘆いたりなだめたり様々に口説いたところ、「まことに、『忍ぶれど・・・』の古歌ではないが、人に問われるまでになったのだなあ。袖の色が涙で変わるのも我ながらつらい、いっそ語ったなら心慰めることもあろうか。」とは思ったが、乳母に知られることも恥ずかしくて、どう言ったらいいかもわかないが、「下燃えに・・・」の歌ではないが、思いを秘めたままで煙と消えてしまうのも罪深いことだと思って、顔を赤らめながら、とある花の夕べから思いの募った心の内、思いがけなくも比類ない姫君の美しさが忘れられなく、心が騒ぎ胸の高鳴りが静まることもない、その心境をぽつりぽつりと語り出すと、乳母は、「そうでございましたか。」と驚きながらも聞き入るのであった。

その5

 乳母は稚児のために昼夜あれこれと思案し続けた。そして一案を思いついたのである。かの僧正がなんとかの宮という方が御出家なされた時に、受戒の布施として贈られた、なんとも美しいい手箱を、この稚児は賜っていた。その手箱を乳母は童に持たせて、その大臣の女房たちがいる長局に参って、童に、「手箱をお召しの方はいますか。」と言わせると、とある局が二人を呼び入れた。

 この上なく美しい手箱であったので、その女房は奥方様に持っていき、お見せすると、姫君が入内する時の持参品として、様々に風情を凝らして作った手箱の中でも、これに少しでも及ぶ物はなかったので、「これはお召しになりましょう。」ということで、この乳母と会って女房たちがその由を申すと、この手箱の主の乳母は、そこに並びいる女房の中でも若くて美しい一人を見て、袖を顔に押し当ててさめざめと泣くのであった。

 人々は、「どうしたのですか。」と驚いて尋ねると、「申し上げることも辛いことですが、私には一人の娘がございました。その娘が亡くなってしまったのを嘆き悲しんで、『せめて我が娘に似ている人をお見せください。』とあらゆる神仏に祈り申したのですが、こちらの御方に寸分たがわずいらっしゃるのが、あまりに昔のことが偲ばれてこらえきれずに。」と言ってとめどもなく泣き崩れるので、女房たちも、「何と悲しいこと。」と言って、皆涙ぐんだのであった。

 さて、「手箱の代金を。」と言うと、「いえいえ、この手箱のおかげでこれほど恋しい人の事を、お目にかかって心を慰められたのですから、ただもう、この手箱を差し上げてここに置いていることで、何度でもここに参ってこの方にお目にかかる事を許されれば、それに過ぎたる代金はございません。」と言って帰ってしまおうとすると、女房たちはその人の局はどこかなどと教えた。そして、手箱はそのまま置いて乳母は帰っていったのであった。

その6

 その後、乳母は麝香や薫物などの高価なものまで持ってきて与えたので、若い女房たちは歓待して、知人とでぃて深く交わることとなった。

 女房たちは手箱の代金を乳母が受け取らないのも申し訳ないと、さりげなくお金のようなものを渡そうとするのを、頑なに受け取らないのも不審の種となると思って、多少は受け取ったりして、常に通っていた。

 この御殿は多くの女房が出入りしていた。それを見て、「ああ、私がお育てした君がいらっしゃるのですが、この御屋敷にお仕え申し上げることができましたならば、どれほどかうれしいことでしょう。」と乳母が申し出ると、人々は、「姫君の御入内にあまたの女房をお求めでございます。そんな折節ですから申し上げて見ましょう。」などと言って、その事を申し上げる。

 すると奥方様はは、「まことにこの手箱の持ち主ならば、どれほどか雅やかな人であろうか。」と思って、「局に呼び寄せてみよ。」とおっしゃるので、その旨を語ると、乳母は喜んで帰った。

 「稚児殿、無理にでも何か召し上がって、ご身体を恢復させて、その後女房の装束をなさって、大臣のご邸にお伺いなされ。」と乳母が申し上げると、稚児はその発想が空恐ろしく、尋常ではなく思いなさるが、「それもそうだ、せめてお屋敷の中でもう一度お見かけするだけでも。」と思う心がそうさせたのか、容態は好転し、次第に頭を持ち上げて、少しづつ食事もとれるようになってきた。死をも覚悟していた稚児には、この変わりようが自分でも信じられないと思われるほどであった。

原文

その4

 姫君、御心地怠り果て給ひぬれば、僧正は山へ帰り給ひけれども、児は*乳母(めのと)のもとにとどまりぬ。

 つやつや*物も見入れず、ほれほれとしてもののみ思はしき身になり果てて悩みけるに、山よりもひまなく人を遣はして、薬師何かと*もてさはぐり給ふ験もなかりければ、僧正思し嘆きて、物の怪にやとて加持をしけれども、*御しんの声もかしがましく、せめて静かにものだにも思はばやと思へば、強ひて起き居などして苦しからぬ由申して、僧たちをも山へ返して、そのことともなく悩みけり。

 夜はうちとけてまどろむ気色なく、昼は日暮らし臥し暮らしければ、乳母思ひけるは、「いかなる*御いたはりともさして覚えねば、思ふことはしおはするやらん。」と思ひけるに、心地のひまには手習ひをし給ふを取りて見るに、「*霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ」とのみ、*同じことを書置きたるを見て、「さればこそ、思ふ事おはするなめり。」と思ひてさし寄りて、「この御心地のやう、ただ事にあらず。いかさま思ふ事おはすにこそ。いかなる事なりともおのれにはのたまへ。仏神おはしませば、いかなる事なりとも、などかかなへ奉るべき。思ふ事を言はで果てぬるなん、ゆゆしく罪深き事とこそ申し侍れ。」など口ききて申しければ、「何事をかは、さまで思ふべき。」と言少ななるもあやしくて、いよいよ様々にうち嘆きつつ口説きければ、「げに*人の問ふまでなりにける。袖の色も我からあはれにて、語りて慰まん事もや。」と思せども、乳母が心の内もはづかしく、言ひてん言の葉も覚えねども、*思ひ消えなん煙の末も罪深ければ、顔うち赤らめつつ、花の夕べより思ひつる心の内、思ひかけず、ためしなかりし御様の忘れ難き御面影に、騒ぎ初めにし胸の静まる世なきさまを言ひ出で給へるに、「さればよ。」といとあさまし。

(注)乳母=乳母の場合も、男の養育係の場合もある。文脈で判断する。

   物も見入れず=物を食べない、の意。辞書には「見入る」に「食べる」の語釈が

    ないが、「ご覧じ入る」に「召しあがる」の語釈はある。本書には散見される

    表現であるが、他に用例がないのか。

   もてさはぐり=「もて騒ぐ」か。

   御しんの声=語義未詳。加持祈祷の声か。

   御いたはり=病気、または心の痛み。

   霞の間より・・・=「山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ(恋

    1・紀貫之)」を踏まえる。

   同じことを書き置きたるを見て=奈良絵本「書き重ねて、心ゆかしき手習ひは、

    恋しとのみなど、言はぬに繁き乱れ葦のいかなる節に、など書きなしたるを見

    て、」とやや詳しい。

   人の問ふまで=「しのぶれど色に出でにけり我が恋はものや思ふと人の問ふま

    で」(平兼盛拾遺集11)を踏まえる。

   思ひ消えなん煙の末=下燃えに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞ悲しき(新

    古今12・藤原俊成女)、思ひ消えむ煙の末をそれとだに長らへばこそ跡をだ

    に見め(とはずがたり3)等を踏まえるか。恋心を秘めたまま死んでしまって

    は悲しい、との意か。「思ひ」の「ひ」は「火」との掛詞。「火」と「煙」は

    縁語。

その5

 乳母、夜昼案じて*あしうちつつみて、僧正のいづれの宮とかやの御出家の時に、御戒の布施に出だされたりける手箱の、なべてならず美しかりけるを、この児にたびてけるを、乳母、童に持たせて、かの大臣殿の*御局町へ参りて、「手箱の召しや。」と言わせければ、ある局呼び入れぬ。

 なべてならず美しかりければ、*御上に持ちて参りて見せたてまつるに、姫君の*内参りの御料に、様々風情を尽くしてせらるる御手箱の中に、これが片端に並ぶもなかるければ、召さるべきにて、*あひしらはせられけるに、女房どもあまた見えける中に、若き人のみにくからぬがあるを見て、この手箱の主、袖を顔に押し当てて泣くこと限りなし。

 人々、「いかに。」とあきれて尋ねけるに、「申すにつけても、*かたはらいたく侍れども、わらはが一人娘の侍りしが、失せて侍るを嘆き悲しみ侍りて、『似たらん人を見させ給へ。』と四方の仏神に申し侍るが、この御方に少しも違はせおはしまさぬが、あまりに昔恋しさ忍び難く。」とて、*せきあへず泣きければ、女房どもも、「あはれなることにこそ。」とて、皆うち涙ぐみぬ。

 さて、手箱の代はりの事のたまへば、「いや、これほど恋しき人の事を、慰みに見合いまいらすることも、手箱ゆゑに侍れば、ただ参らせおきて、常に参りて、見まいらせ侍らんに過ぎたる代はりや侍るべき。」とて、帰りなんとすれば、*この人の局など教へられぬれば、手箱は置きて帰りぬ。

(注)あしうちつつみて=語義未詳。足を包むことに何か意味があるのか。

   御局町=局が多く並んでいる所。ながつぼね。

   御上=姫君の母である奥方様に。

   内参りの御料=春宮に入内する際の持参品。

   あひしらはせ=語義未詳。会って知らせる、の意か。「あひしる」は交際する、

    の意だが、「交際」は唐突な感じがする。

   かたはらいたく=つらく。

   せきあへず=止めることができないで。こらえきれず。

その6

 その後、麝香(じゃかう)・薫物(たきもの)をさへ持ちて来て取らせければ、若き人々もてはやして喜び、浅からぬ知り人になりにけり。

 手箱の代はり取らぬもかたはらいたしとて、なにとなきさまにて、金(かね)ていの物たびければ、さのみ取らざらむも怪しかるべければ、少々は取りなどして、常に来通ひけるに、女房たちなどあまた出で入るを見て、「あはれ、わらはが養い君のおはしますを、この殿に候はせたてまつりて侍らば、いかがうれしく侍らん。」と申し出でたるに、人々、「御内参りにあまた人を尋ねらるる折節なれば、申してみん。」など言ひて、この由を上に申せば、「げにこの手箱の主ならばゆかしくこそ。」とて、「局まで呼びてみよ。」とのたまへば、この由語るに、喜びて帰りて乳母申しけるは、「いかにとしても少しづつ物をも見入れ給ひて、御心地をも治して、女房の装束し給ひて参らせ給へ。」と申しければ、空恐ろしく、ものぐるほしと思せども、「げに、せめて*御垣の内ばかりなりとも今一度。」と思ふ心にひかれつつ、やうやう頭(かしら)もたげて少しづつ物なども見入れらるるぞ、我ながら現とも覚えぬ心地するや。

(注)御垣の内=宮中を言うが、ここでは大臣邸。

稚児今参り①ー稚児物語2ー

「稚児今参り」は僧侶と稚児の恋愛を描いたものではありません。稚児と姫君との恋愛ですから厳密には、稚児物語ではないかもしれませんが、主人公が比叡山の稚児ですので取り上げてみました。

 室町物語大成9巻に岩瀬文庫蔵の*奈良絵本が翻刻されています。補遺2巻に「稚児今参り絵巻」が所収されていて、こちらの方が時代も古く、内容もやや詳しいようなのでこちらをテキストとして、奈良絵本で補うようにして原文を作りました。

 ただ、仮名遣いは標準的な歴史的仮名遣いに改め、読みやすいように適宜漢字に改めtた部分もありますので、私自身の見解も混入していることはご了承ください。

上巻

その1

 そう古くはない頃のことである、内大臣で左大将を兼任している方がいた。この方は多くの公達を御もうけになられた。その中に非常に容貌の優れた少将と申す若君と、この世のものとも思われないような美しい姫君がいた。その評判に帝や春宮もお召しになりたいのご意向があったが、大臣は、帝が召されるにはいささか年齢が幼な過ぎるということで、春宮にこそ入内させたいと心に決めて、例のないほど大切に育てたのであった。

 この姫君は、姿かたちが優れているばかりでなく、何事をなすにも素晴らしく、この世に並ぶ者がないほどで、父大臣や母の奥方様ははかえってその素晴らしさを危惧するほどであった。

その2

 とある年の二月十日頃から、この姫君が病の床に就いた。ただのちょっとした病気だろうと気にも留めていなかったが、日に日に容態が悪くなっていったので、何ぞ物の怪の仕業かもしれないと、あまたの祈祷を試み、有験の僧たちが加持を行ったが、効果もなくますます弱っていく様子である。ご両親はひどく取り乱して嘆くばかりであった。

 その頃、比叡山の座主で、霊験あらたかと世間で評判の験者がいた。この方ならもしかしたらと、兄の少将を使者としてお迎えに行くと、座主は山を下りていらっしゃった。早速壇所を仕立て、七日間加持を行った。

 その3

 僧正の御加持のおかげか、姫君の病状はやや治まって薬などもお召し上がりになられたようで、ご両親はこの上なく喜びなさった。

 七日を過ぎたので僧正一行は山へ帰ろうとしたが、まだ病の余波もあるかもしれないと懸念されたので、もう七日ととどまり申し上げなさった。

 さて、この僧正には片時もおそばを離れさせない寵愛の稚児がいた。この時も具して来たのである。時は弥生の十日余り、中庭は桜の花が咲き乱れて池の辺りが何とも趣深い。稚児が立ち出でて花を眺めながら逍遥していると、女房たちが二三人ほど立ち現れて高欄に寄りかかって花を愛でている様子である。稚児がとっさに花の下に立ち隠れると、まさか人がいるとは気付かないで、女房たちは御簾を少し上げて、「姫君、散り乱れる花の夕映えを御覧なさりませ。」と申し上げると、奥方様も、「そうです、花でも見てこの程の病の苦しさを慰めなされ。」と言い、御簾をさらに上げる様子なので、畏れ多くなってさらに小暗い木陰に隠れて姫君の御姿をこっそり窺うと、御年の程は十五六と見えて、脇息に寄りかかって桜の花をうっとりと見やっている様は、初々しくも気品に溢れ、眉や額の辺りは華やかな面差しで何とも言いようがない。

 聞こえはしないが誰かの言葉に微笑んでいる様子は、その愛らしさが溢れこぼれるようであった。「このような美しいお姿にお目にかかれたのは嬉しい限りであるが、もう二度と見る事はないだろうなあ、詮無いことだが。」とわけもなく胸がいっぱいになってくる。そのうちに日が暮れて、「さあ格子を下ろしましょう。」などと言って人々の中へ入ってしまう。御簾も下ろされてしまったので立ち退くしかないのだが、稚児は心の中で耐え難いほど落胆している。

  そのままに心は空にあくがれて見し面影ぞ身をも離れぬ

  (あなたを見るやいなや私の心はうわの空で我が身を離れて何処かさまよっていま

  すが、その時見たあなたの面影は我が身を離れません)

原文

その1

 近き頃の事にや、内大臣にて左大将かけ給へる人おはしけり。公達あまたも*おはしまさす。少将にて容貌(かたち)よに優れ給へると、この世のものとも見え給はぬ姫君ぞ一人おはしましけるを、*内裏(うち)、春宮よりも*御気色ありけれども内裏には少し御年のほどもいとけなき御事なればとて、春宮にこそはと、思したつにも、ためしなきまで、かしづき奉り給ふこと限りなし。

 御容貌優れ給へるのみならず、何事も*しいて給へること、世にためしなきまでおはしければ、*殿・上などはかつ危ふきまでぞおぼえ給ひける。

(注)奈良絵本=御伽草子などに彩色の挿絵を入れた子写本。

   おはしまさす=あらす(生む)の尊敬語。

   内裏・春宮=帝・皇太子。

   御気色=寵愛。お覚え。

   しいて給へる=語義未詳。「秀(ひい)で」か?

   殿・上=父の殿と母の奥方。

その2

 如月の十日頃よりこの姫君、*なやみわたり給ふ。ただかりそめの御事に思ひきこえ給へるに、日数に添へては*ところせくのみおはしければ、御物の怪の仕業にこそとて、御祈り数を尽くして、有験(うげん)の人々加持したてまつり給ひけれども、験(しるし)もなくていよいよ頼みなきさまに見え給へば、殿・上の思し嘆くさま理にも過ぎたりけり。

 その頃、*山の座主験者に世に聞こえ給へりければ、もしやとて少将を御使いにたてまつり給へりければ、おはしましにけり。壇所に七日置きたてまつりて、加持したてまつり給ふ。

(注)なやみわたり=病気でいる。

   ところせく=難儀である。やっかいだ。

   山の座主験者に=原文「▢すかや▢のけんの▢▢に」。奈良絵本により改めた。  

    山は「比叡山」。

その3

 僧正の御加持の験にや、御心地少し*なほざりにて*御湯などもご覧じいるる様なれば、殿・上の喜び給ふ様限りなし。

 七日に過ぎぬれば、山へ帰り給ひなんとするに、*名残りもおそろしとて、今七日とて留めきこえ給ふ。

 この僧正、片時も御身を放ち給はぬ児ありけり。この度も具し給へるが、*御壺の花弥生の*十日あまりのことなれば、咲き乱れて池のわたりおもしろかりけるを、見ありきけるに、女房ども二三人ばかり出でて、高欄におしかかりて花を見ければ、児は花の下へ立ち隠れぬるに、人ありとも見えねば、女房どもこの御簾少し上げて、「散り紛ふ花の夕映えを姫君ご覧ぜさせ給へかし。」と申すに、上も「この程の御心地をも慰み給へ。」とて、御簾少し上ぐる気色なれば、空恐ろしくていよいよ小暗き陰に立ち隠れて見たてまつるに、御年は十五六の程と見え給ひて、脇息におしかかりて、花にのみ心入りて見出し給へるほど、*あてになまめかしく、*匂ひ満ちたるまみ、額つきいふばかりなし。

 何事にかうち笑みなどし給へる様、愛敬傍らにこぼるる心地し給ふ。「かかる事を見つるはうれしきものから、*あぢきなく、またはいつかは。」とそぞろに胸塞(ふた)がる心地ぞするや、暮れぬれば、「*御格子」など言ひて、人々も内へ入りぬ。御簾も下りぬれば、立ち退く心地いと堪へ難し。

  そのままに心は空にあくがれて見し面影ぞ身をも離れぬ

(注)なほざり=小康をいうか。「おこたり」と同義か。

   御湯=薬湯。「ご覧じ入る」は召し上がる。

   名残り=病気のあと、身体に残る影響。

   御壺=中庭。

   十日=奈良絵本「廿日」。

   あてになまめかしく=上品で(若々しく)美しく。

   匂ひ満ちたる=辺り一面華やかになる。

   あぢきなく=やるせなく。

   御格子=(日が暮れたので)御格子(を下ろせ)。

 

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について全ー

蹇驢嘶餘とは

 群書類従雑部45巻第490に「蹇驢嘶餘」が収められています。

 「蹇驢」とはロバ、「嘶餘」はいななき。取るに足りない者のつぶやき、という意味でしょうか。室町末期から安土時代ごろの有職所実の随筆です。作者は未詳ですが、文中の言全という人かその周辺の人のようです。

 中古・中世の稚児・童子を明らかにするにはやや時代が下る資料ですが、興味深い記述もありますので取り上げて検討したいと思います。

 本文は二十年以上前に複写した山梨大学国文学教室蔵の群書類従の活字本をテキストとしましたが、改めてパソコンで検索すると、国文学研究資料館の電子資料館の新日本古典籍データベースでは高知城歴博山内文庫の「蹇驢嘶餘」の写本が画像で見られるのですね。すごい時代になりました。影印本が自宅でただで見られるとは。これから先を読んでみたいと思う方は「蹇驢嘶餘 国文学研究資料館」で検索して本文を参照しながら見るといいと思います。活字本をテキストにしましたが、読み比べて山内文庫の方が適当と思われた所は、適宜改めました。

その1

 本文は、一、・・・という形で箇条書きの様々なことが書き留められています。大きい見出し語のような部分と小さな字で大字一行分に二行で割り注のように書かれた部分があります。電子資料館でご覧ください。

 まず白河法皇の住居であった法勝寺住持の法衣について、聖道衣であったのが、後醍醐天皇が円観(本文では慈威和尚、諱恵鎮。でもウィキペディアでは円観が見出し語です。)に再興させた時から律衣となったようです。円観を戒師として後醍醐天皇が授戒して以来「紫衣御免」となったとあります。法勝寺は現在は廃寺ですが1535年(天文4年)には法要が行われていたようで、1590年(天正18年)に勅命によって西教寺に併合されて廃寺になったようなので、もう少しお寺が元気な時の記述なのでしょう。それとも廃寺同然に零落しつつある法勝寺が、人々に忘れ去られつつあるのに対して忘れちゃいけないよ、との意味で書き記したのでしょうか。住持の法衣にこだわっています。ランクは下から聖道衣・律衣・紫衣の順でしょう。紫衣は勅許がなければ着られない法衣(袈裟と言ってはいけないのかな)ですね。法勝寺は権威あるお寺です。

 次に叡山十六谷を、東塔・西塔・横川の順に列挙します。さらに別所として五寺を隠遁地として黒谷(法然上人ゆかり)安楽院(恵心僧都ゆかり)などを挙げてています。その割り注に「律衣」「黒衣」「黒衣ハリ衣」とあるのはそれぞれの住持の法衣のランクでしょうか。

 次は 、(a)出世以下の地位と(b)山門三門の門跡以下の序列を記します。

 (a)では

 一 ①出世。院号。公家。或公家養子。②坊官。坊号妻帯。③侍法師。国名妻帯。④御承仕。持仏堂ヲ司ル。妻帯出家随意。⑤御格勤。御膳ヲ調也。⑥下僧。下法師也。

 となっています。 高い順に列挙しているのでしょう。出世者は公家あるいはその養子で「ナントカ院」と呼ばれたみたいです。坊官は「ナントカ坊」と呼ばれたのですね。妻帯者みたいですね。出世と同位かそのちょっと下なのでしょうが、公然と妻帯していたのです。その下の侍法師も妻帯で「相模法師」とか「伊予法師」とか国名で呼ばれていたのでしょう。「松帆物語」という稚児物語に登場した伊予法師はこの侍法師のランクだったのでしょう。御承仕、御格勤は職掌ですが、承仕は出家僧でも妻帯でもどちらでもいいようです。③④⑤に身分差があるのかはわかりませんが、下僧の上にあるので中僧(中間法師)かと思います。侍法師は上僧かも。ところで妻帯の僧はどこに奥さんを住ませていたのでしょうね。さすがに山には置けないので夜な夜な山を下ったのでしょうか。親鸞聖人は叡山から百夜京都の六角堂に参籠したといいますが、その宗教的情熱に匹敵するくらいの情熱で妻帯したのでしょうか。

 (b)では、

 一 ①山門三門跡。②脇門跡。③院家。④出世清僧。⑤坊官。妻帯。同位或有諍。⑥侍法師。山徒。衆徒。同位也。

 となっています。出世と坊官は同位なのでしょうか。「諍」は活字本では「浄」なのですが、山内文庫の影印では「諍」になっていて、出世と坊官は身分は同じであるが仲が悪いととれます。

 身分の上下と妻帯か清僧かは留意すべき事だったようです。

 次に庁務(門跡家の坊官)、候人(門跡家の侍法師)について述べています。これも身分の違いを明らかにすることが主眼でしょう。上か中かそうでなくても微妙な違いがあったのでしょう。庁務と候人は違うぞ、という感じです。

 次は三綱について、三網とは寺院の雑務を処理する役職で、それは院家ではなくて、その下の出世・坊官などの寺家が多く務めるといいます。でもその下の中僧はなれないのでしょうね。

 「堂衆承仕中方ノナル」と続きます。中方(中僧)は三綱にはなれず、堂衆承仕までなのかな。下法師は役公人だそうです。これらはそれぞれの堂で任命していいようですが、三綱は補任(誰が任命するのでしょうか)だそうです。ちょっとわからない用語が出てきます。

 次いで張衣(はりぎぬ)について。「張衣」はつやのある布で仕立てた衣ですが、「晴れ着」に近いニュアンスでしょうか。門跡は香色(黄色味をおびた赤)の絹を着て、平人は布(絹以外のもの)を着ると書きます。

 更に、東塔西塔は事務長のような役を(多分)執行というが、横川では別当といい、名誉職として老僧が務めるが、実務役は若い衆徒が務めると書きます。衆徒は中僧でしょう。

 「右貫全語之」とあります。最初からここまでか、途中からかはわかりませんが、貫全から聞いたことだとあるのです。貫全さんは後で触れますが、筆者と親しい年長の方だと推察されます。二人の興味は身分やそれに伴う衣装など、今の叡山の衆徒の誤謬だったのではないでしょうか。(読み進めるとこの辺の認識がぶれてきますが。)

 童形についてさくっと読んでみようと思ったのですが、細かいところが気になってきます。思ったより長くなりそうです。

その2

 右貫全話之。

 と書かれた続きを読みます。ここからは筆者自身の知識でしょうか。まず山王七社について言及します。上中下七社で合計二十一社あるのですが、その上七社についてです。

 次にその七座の公人(雑役)として中方(中間僧)では無職の衆徒、法会の時先達をする維那、男(俗人?)の鑰取(かいどり=鍵の管理者)、下法師の出納・庫主・政所・専当(執当の補助役)を列挙します。

 執当が輿の先導をする引きか、次に門跡の輿舁きについて述べます。八瀬童子が十二人の結いを単位として、その人数とか屋根なしの坂輿とか、細かい規定があります。牛車の場合は八瀬童子ではなく牛飼いを使います。輿とは人力の駕籠で、八瀬村の住民がその専門職だったみたいです。童子とはいっても大人ですから皆が常時童形をしていたかはわかりません。牛車を牽く牛飼いは、活字本では「菊童以下」となっていますが、山内文庫影印本では、菊に読めない字です。「ナントカ童」以下で、それは八瀬童子以下の身分だったのでしょう。

 次に地位の序列が書かれています。似たような序列が出てくるのは三回目ですが、貫全さんの言ではなく、筆者のまとめ直しでしょうか。

 一 ①三門跡。②脇門跡。③院家。④清僧出世院号権大僧都法印官位共ニ極ルナリ。御持仏堂ノ法事ヲ勤也。堂上の息。或ハ養子ナリ。妻帯坊官歯黒。坊号公名叙位不任官也。御門主ニ奉公給仕スル也。出世等輩也。不禁四足二足類。以下輩同ジ。児ノ時水干。同(妻帯)侍法師。同(歯黒)国名叙位不任官也。児ノ時長絹。坊号ヲモ付ナリ。⑦御承仕。名乗也。慶信慶光ナド云ナリ。御持仏堂事ヲ司也。荘厳ヲ仕。仏具ノ取沙汰アルナリ。幼時御童子也。国名ヲモ付。又名乗之外。金光。金祐。金党。真宗。真光。真党ト云付ナリ。⑧御格勤。同。⑨下僧。下法師也。浄衣肩絹袴。幼名必有異名。

 貫全の話とそれほど齟齬はなさそうですが、いくつかの情報が追加されています。御承仕は貫全の話だと「妻帯出家随意」となっていますが、この部分では妻帯にくくられています。

 出世は院号権大僧都・法印が官位共に極(きわめ)る、と読めます。そこが昇進の頂点でしょうか。それに対して、坊官は「公名叙位」は「不任官」なようです。よくわかりませんが、権大僧都とか法印(後に述べる地下家伝では江戸時代には法印が極位のようですが。)とかには任ぜられないのでしょう。でも出世と「等輩」なのですね。お歯黒をしていたようです。お歯黒はどのような社会的記号だったのでしょうか。江戸時代には成人女性もしくは既婚の女性を意味する記号であったようですが、それ以前には公家や武士の男性もしていたようです。わざわざ坊官でそれに触れているという事は多分清僧の出世はお歯黒をしていないのでしょう。四足(獣肉)二足(鳥肉)も禁じられていません。これでは俗人とあまり変わらないような気がしますが。侍法師も国号で呼ばれるようですが、坊号も付くようで、坊官に準じたポジションのようです。

 御承仕・御格勤は、坊官や侍法師とは位が異なるようです。「名乗也」と書かれていますが、「名乗」がよくわかりません。成人名として誰かに付けてもらったのでしょうか。自ら名乗ったのでしょうか。また名乗以外にも別の呼称があったようです。あくまでも印象ですが、名乗の「慶信」「慶光」よりも別名の「金光」「金祐」などの方が「金光丸」「金祐丸」といった呼び名として使えそうな気がします。かしこまった名前と、通称なのでしょうか。

 出自について注目してみましょう。出世は(そしてそれ以上は)清僧ですから世襲はありません。出自は堂上の公家ですね。養子もありというのがひっかかりますが、これぞと見込んだ優秀な子供は、身分が低くてもいったん公家の養子になるという形で出世になれたのかもしれません。坊官・侍法師は世襲が可能な人たちですね。これらの人は幼時は「児(稚児)」であったようです。ところが坊官になる稚児は「水干」を着ていて、侍法師になる稚児は「長絹」を着ている、とあります。同じ稚児姿でも用いる衣装が違ったようです。

 ところが、御承仕・御格勤は幼時は御童子なのです。児(稚児)とは表現されません。児と御童子は区別されます。ただ他の文書に見える「法会の時の童子」は身分というより役割なので事情は違います。また、固定化された身分としての児・童子ではなく本来の意味での「こども」として使われることもありますから、「児・童子」はその場に応じて解釈しないといけませんね。ここでは出自によってランクにはっきり差をつけているようです。さらに下僧となると御童子でもありません。「幼名必有異名」とは子供時代には別の名前で呼ばれていた、ということでしょう。「ナントカ丸」とは呼ばれていても御童子ではないのですね。

 子供だから誰でも「児(稚児)」、誰でも「童子」という訳ではなさそうです。そのような視点から「稚児物語」を読んでみると、別の側面が見えてきそうです。稚児は別格なのです。もう稚児というだけで扱われ方が格段に違います。稚児が僧を慕って寺を抜け出したり、よんどころなく旅をしたりしても、行く先々で懇ろに扱われます。

 次いで、法印・法眼、は大納言以上の子息が順序を経ないで直叙されること、妻帯僧も功績や家柄によって僧正・法印まで栄達する事、三綱・堂衆・公人・山徒法師ならびに中方妻帯衆は、獣肉鳥肉は食べてはいけないが魚は食べていいと書かれています。あれっ?さっき坊官以下の妻帯は肉食OKじゃなかったっけ?次に衆徒は清僧で、権大僧都・法印が極で僧正になることは稀だと、平民も徳によって任じられるそうで、東寺にその例が多いと書かれます。あちこち話が飛びます。随録とはそのようなものでしょう。

 なんとなく比叡山の人的構成がわかってきた気がします。

その3

 次いで梶井門跡について詳しく書かれています。門跡はその1,その2でも比叡山ヒエラルキーの最上位に位置付けられます。この門跡とは皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺家・院家で、山門(比叡山)では、円融(梶井)院(三千院とも)・青蓮院・妙法院がそれに当たります。

 一 梶井殿尭胤親王。東塔南谷円融房。御住山御登山已後。一生不被下山也。坊官五日ノ番オハリテ下山仕ル。次ノ番未登山衆徒ニハ。被居間敷由被仰。御膳不参也。執当貫全ヲ。坂本召ニ人ヲ下ス。夜半ノ時節登山。御膳ヲ進也。

 筆者の執筆時もしくはそのちょっと前の梶井門跡は尭胤親王のようです。東塔の南谷円融房が居所なのでしょうか。梶井殿は生前は院号がないそうで、「円融院」とか「梶井院」とかは言わないようで、入滅あるいは隠居後に院号は贈られるそうです。その尭胤親王ですが、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。その尭胤法親王のエピソードが記されています。尭胤親王は登山以後一生山を下りなかったようです。という事は没後に書いたのか、それとも現時点での話なのか・・・ある時、陪膳係の坊官が五日間の当番を終えて下山したのに次の当番がまだ上ってこなかった。しかし親王は衆徒に陪膳させて食べようとはしませんでした。衆徒は坊官よりワンランク落ち、侍法師と同等です。門跡の陪膳は坊官の役と決まっていたようです。そこで人をして麓の坂本にいた執当の貫全を呼び寄せ、貫全が夜半に登山してから御膳を召し上がったとか。貫全ってその1であれこれ語った人ですね。執当は三綱(上座・寺主・都維那)が輪番で務めたようです。坊官クラスです。これはどんな意味のお話なのでしょう。尭胤親王が気難しい方だった?そうではなくて、このような作法は厳格に守られるべきだ、との意味でしょうね。たとえ真夜中まで門跡がお預けを食っても。逆に現状そういうことがいい加減になっていたのでしょう。それともこれほどまでに貫全は親王のお気に入りだったよ、という自慢話なのでしょうか。応仁の乱が1467年~1477年。室町時代から戦国時代にかかろうという時です。筆者は仲のいい貫全とこのような事を語り合っていたのでしょうか。

 その次に梶井殿の御膳の食器について記されます。それは省略します・

 次に寺家について。

 一 猪熊ノ寺家。梶井ノ寺家。此一族多シ。ミナ山門ノ執当ニ任ズル家也。猪熊今ハ断絶。梶井寺家イニシヘハ清僧也。貫全マデ八代(貫全マデハ代々:山内文庫本)妻帯也。当門跡ニ随ナリ。但梶井殿家来也。

 この貫全は梶井寺家の者で、猪熊寺家とともに山門の執当に任ぜられる家だったようです。猪熊寺家は廃絶してしまったのですか、もともと清僧だった梶井寺家は貫全の八代前(山内文庫本では単に代々。漢数字の「八」かたかなの「ハ」は分かりづらいらいですね。)から妻帯し梶井門跡の家来だったようです。尭胤親王(当門跡)に随ってはいますが、梶井殿に来る親王がどのような皇族かは決まっていないで、親王の家来というのではなくて、梶井殿(円融院・三千院)に由来する一族なのですね。

 固有名詞はやっかいなもので、私はこの「寺家」を「院家」より寺格の落ちる寺を指す一般名詞だと思っていました。ところが、ここでの「寺家」はそうではなくて、「寺家」という姓のようです。「猪熊系の寺家さん、梶井系の寺家さんなど、寺家一族は結構いるよ、猪熊の寺家さんは断絶したけどね。」と解釈できてすっとしました。「地下家伝」という江戸時代後期の天保年間に成立した地下官人諸家の系図をまとめた書物があります。このご時世(コロナ禍)で図書館に行って調べるという事はできないのですが、ウィキペディアによると、「地下家の一覧」の諸門跡坊官等の項に、梶井宮(院ではないところは蹇驢嘶餘の院号を持たない、という記述と合っています。)坊官として、「寺家家」がありました。本姓(藤原氏とか源氏とか)を持たず、初叙は「法橋」で極位は「法印」とあります。確かに梶井門跡の「寺家」家があったのですね。以前出てきた「極」の意味も、その家柄での最高到達点と確認できました。本姓がないのは当然で、何代か前の清僧が妻帯して世襲になったからで、テキストとの齟齬はありません。寺家一族は、国文学研究資料館・電子資料館の地下家伝・芳賀人名辞典データベースで、江戸時代の「寺家養昌」「寺家養気」「寺家養忠」「寺家養仙」「寺家養敬」「寺家養恕」「寺家養正」が確認できます。貫全の子孫ですね、たぶん。

 ただ、姓の「寺家」なのか、格式としての「寺家」なのかはその時に応じて判断しなければなりません。

 本文では尭胤親王のエピソードの前に書かれていますが、門跡の御膳に御相伴することの記述があります。

 一 門跡御相伴。堂上殿上人マデ被罷出也。殿上人ノ膳ヲバ居事ハ。坊官ナリ。アグル事ハ。侍法師也。公卿ハ。アグル事モ坊官ナリ。院家ハ御相伴也。出世。坊官。御相伴ニ古来不出也。但シ可依家ノ流例。衆徒召使童子ヲ御門跡御寵愛アレバ。白衣中帯ノ体ニテ。御次ノ間マデ参。半身ヲ出シテ杯ヲ給。或被召迄也。後ハ臈次被乱也。

 この一節は面白いと思います。門跡が(多分梶井殿でしょうが。)御膳を召し上がる時には、公卿・殿上人は同伴できるのですね。院家は同伴できます。出世、坊官は同伴できないのですね。出世・坊官はクラスとしては殿上人レベルだと思うのですが、給仕はしても同席はできないのですね。ただし、流例(古くからの習慣)によってはOKの場合もあるようです。

 「居事」とはその場にいて陪膳することだと思いますが、坊官の務めです。先の(記述は後ですが)、坊官がいなくなったので貫全が来るまで膳に付かなかった尭胤親王の話と合致します。膳の上げ下げに関しては公卿は坊官がして、殿上人は侍法師がしてもいいような記述です。その方が効率的なのか、決め事なのか。たぶん後者なのでしょう。

 その後です。「衆徒」は中方です。「出世」「坊官」も同伴できない御膳ですが、衆徒の召し使う「童子」でも御門跡の「御寵愛」があれば、「白衣中帯」の姿で、次の間まで参上し、半身を出して杯を受けることができるのです。もしくは中に入ることが(召る)こともあるようです。「後ハ臈次被乱」はちょっとわかりずらい。「臈次」は、「物事の順序」の意味ですが、「後」が「それ以外」はなのか、「時代が下ると」なのかで解釈が違ってきます。まあ、でもその辺があいまいになっているもでしょう。

 衆徒が召し使う中童子でも(杯を受けるのだから幼児ではなく少年しょう。)門跡の御寵愛があれば、杯を受けたり仕候することができたようです。ただし、白衣中帯で。ということは、それ以上の存在(児・稚児)はもっときらびやかな格好で仕候していたのでしょうね。

 という事は、門跡クラスが稚児を寵愛していたのは自明のこととして、中方の御童子にもちょっかいを出していたと読めるのですが、深読みでしょうか。

 戦国時代であれば、大名たちが男色に何の罪悪感も持たないことに、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが愕然としたという話が思い出されます。かなり昔に読んでの出どの文献に載っていたのでしょうかそれは思い出せません。

 思いがけず、梶井寺家について、その形がわかってきました。また、稚児や童子についても理解の手掛かりが見えてきました。

 その4では稚児と童子の違い、貫全とは誰だったのか、について読み進めます。

その4

 一 児公家息ハ。白水干着ル也。武家ノ息ハ。長絹ヲ着スル也。クビカミノ有ヲ水干ト云。無ヲ長絹ト云フナリ。イヅレモ菊トヂハ黒シ。中堂供養ノトキ。御門跡ノ御供奉。貫全童形ニテ仕ル也。其トキハ。空色ノ水干其時節ニ似合タル結花ヲ。菊トヂニシテ法師ノ肩ニノル也。歩時ウラナシノ藺金剛也。

 公家の子弟は、白い水干を着るそうです。貫全は坊官ですが、坊官は公家相当ですけれども、妻帯の世襲ですから正式に公家といえるのでしょうか。それに対して武家の子弟は、侍法師相当の稚児ですが、長絹を着るようです。水干は首の辺りが横に輪っかのようになっているのに対して、長絹は輪っかがないので左右から重ねた三角状になっているのでしょうね。一目でわかります。ここはこだわりどころでしょう。見る人が見ればわかるのです。

 貫全が稚児の時、梶井門跡の中堂供養の供奉に与かったようです。その時は「空色(白色にこだわらず。か?)」で菊綴(綴じ目を菊飾りにしたもの)を結花(普通は黒だが、)黒い糸ではなくその時に応じた色とりどりの糸でくくった鮮やかな衣装で、法師(中方以下の僧と思います)の肩に乗って行列に参加したようです。自分で歩く時は金剛草履だったようです。法師の肩に乗るとは、その年齢では歩くのもたどたどしいほどの幼児だったのでしょうか。

 なんとも派手な格好で供奉に加わった貫全さん。稚児の頃から御門跡のお気に入りだったようですね。陪膳がいなければ坂本(近江の坂本と京の坂本がありますが)まで呼び寄せたのもこのような関係からでしょうか。

 筆者と貫全はどのような関係でしょうか。筆者が貫全とごく親しい存在なのはわかりますが。貫全は梶井寺家の世襲になってから八代目(山内文庫本では代々)でしたね。その息子でしょうか。父の語ったことを書き留めたとも考えられます。しかし供奉の時法師に肩に乗った、などというリアルな描写は目撃しなければ書かない気がします。すると父とか兄なのかも。そうでなければ、かなり長い間付き合いのあった親しい人でしょう。あるいは本人かも。

 白水干の稚児ではないが、長絹を着ている侍法師の稚児とは扱いが違うよ、ちょっと上だよ、とのニュアンスが感じられます。

 その文脈の続きで、稚児の眉と御童子の眉の違いを述べます。眉毛を毛抜きで抜いてのっぺりさせてその上に眉を書く黛は、化粧の一つだったのでしょうが、階級を示す記号でもあったようです。

 児眉。上ニシンヲ立。末ニホフ。

 御童子眉。三日月ナリニ脇ニシンヲ立。両方ニホヒアリ

 「芯を立てる」とはどのような行為でしょうか。「匂い」というのは黛で眉を描いてぼかした部分のようです。眉毛を抜いて黛を引く習慣はどの階層の人までがしていたのでしょうか。中方の御童子も眉は作っているのですが、差をつけているのです。

 その次に堂衆について書かれます。根本中堂の長講は清僧で、

 「中方ナレドモ此職准上方弟子児ヲ持也。」

 とあります。この記述は二つの意味を含みます。先ず、中方は稚児を持たない事です。稚児を持つのは上方なのです。上方は稚児を訓育する立場です。その稚児がやがて上僧となって次の稚児を訓育します。それに対して中方は雑役として童子を使うのみです。稚児は持てません。次に、稚児・童子を持つのは清僧なのですね。堂衆は中方であっても重要な役割であって、清僧だから稚児を持てたのです。妻帯はそれを必要としません。上僧は清僧であるから血統の後継を待ちません。その代わり弟子として稚児を取り、その稚児が後継となっていきます。その過程で稚児が崇高な愛情の対象ともなっていったようです。(稚児灌頂などという秘事があるようですが、ここでは触れません。)

 次は執当について。貫全が務めていた職掌ですね。根本中堂では清僧が務めるようです。あれっ、貫全は妻帯ですね。

 本文では、

 一 執当。根本ハ清僧也。中古ヨリ以来妻帯ノユエニ。寒中三十三日暁垢離一ヲトリ。従正月朔至十五日修正。毎暁彼堂至内陳出仕也。此外妻帯不入内陳。言全ハ不修此行。貫全ハ。一生修此行也。

 とあります。中世以来、根本中堂の執当は清僧が務めることになっていたようで寺家家は寒中の早暁に、三十三日間水垢離をして身を清めてから、正月一日から十五日までの修正(修正会?正月の法会か?)の毎暁に中堂の内陣に出仕したと記述されます。このようにお清めをした執当以外の妻帯は内陣に入ることはできなかったようです。「言全」はこの行を修めなかったようです。当然中堂には入れなかったのでしょうね。貫全は(活字本では「貫マツタクは」と書かれています。「全」を「マツタク」とカタカナで書いたのは「貫全」を固有名詞と思わずに書写か翻刻したのでしょう。)ずっとこの厳しい寒垢離をしながら出仕していたのでしょう。ところで、この水垢離を放棄したヘタレな言全って誰?ヘタレは言い過ぎか。貫全が立派だったのでしょう。「全」という字がつくのだから貫全の一族っぽい感じです。この人が筆者かな?「言」のつく僧侶の名前ってあまり聞きません。

 一 下僧。下法師也。後ニ公人ニ成ル。公人ノ息モ。御童子ニナレバ。中方ト成ル。中方ノ息モ。児ニナレバ上方ト成ル。下法師モ三代目ニハ。上方ニ成ルトハ申セドモ。中方ニハ成レドモ。上方ニ成ル事ハ稀也。

 ここまで「蹇驢嘶餘」を漫然と読んできた感じですが、この部分を読んで「ああそうか。」と思った二十数年前が思い出されます。

 土谷恵氏は「中絵寺院の童と児」(史学雑誌101-12)という論文で稚児と童の関係について考察されました。そこでは、従来論じられてきた寺院児童に関する言説が持つ曖昧さ、不正確さの原因に貴族・房官・侍などの児童の帰属する階層性が明確に示されていない点を指摘して、それを明らかにしました。

 土谷氏は中世寺院の童たちの代表は、児・中童子・大童子であるとし、その房内での序列は児ー中童子ー大童子、法会などの行列の中では上童ー中童子ー大童子であることを論証します。さらに児にも貴族・房官・侍などの出自によって身分差・階層差があり主に房内の雑事を務めていた存在と見ています。

 中童子は法会の行列や持幡童など児と共通する役を務めることも多のですが、児とは出身階級を異にし、明確な身分差があったとします。

 大童子は御童子とも呼ばれ、中童子との違いは従来言われてきたような年齢による区別ではなく身分差であるとします。この下層にある大童子には出家の道は閉ざされ、生涯童形で過ごすこととなり、寺院での役務も多様であったと述べます。氏はこの大童子が中世寺院の童姿の代表であったとしています。

 「蹇驢嘶餘」は成立が室町末から戦国時代にかけてですので、中世寺院から多少制度が変わってきているかもしれませんが、土谷氏の指摘にかなっている記述です。氏も参照されているでしょうから当然かもしれませんが。

 ただ、ここでは下僧も三代後には上方になれる可能性がある、と書かれています。稀にはですが。いろいろな僧職・いろいろな童形が寺院にはいたようですが、おおざっぱに上・中・下に別けられていたようですね。

 土谷氏のいう、大童子という出家できない寺院関係者がいるのは、そうかとも思いますが、どちらかというと下僧にはなれても、童形のままの方が仕事がもらえるので童形にとどまったと考えた方がいいように思われます。

 今は「寺院における童形の研究」ってどうなっているのでしょうか。「文学」も「国文学」も「解釈と鑑賞」も、更には「言語」も「受験の国語」もなくなった今。

 そうそう、その二十年ほど前の頃、 

 「竉 南都ニ童子ヲ松コソ千代コソト云殿ノ字ヲ不云トコソト云也」(運歩色葉集) 

 「雑仕美女モシハ僧坊ノ中童子ヲナニコソトヨヘリ」         (名語記)

 なんて記述を見つけていました。稚児は「○○殿」と呼ばれていたのですね。それに対して、童子(南都の)・中童子は「○○こそ」と呼ばれていたみたいですね。「~こそ」は子供や女性を呼ぶ時の呼称です。性愛の対象だから女性を呼ぶように呼んだのかなあ、と思った記憶があります。

 その4はここまでにしましょう。 

 「蹇驢嘶餘」は まだまだ続くのですが、童形に関する記述はこの辺までです。その5で、貫全という人物や童形について考えてまとめとしたいと思います。

その5 まとめ

 「蹇驢嘶餘」はまだまだ続くのですが、後半部には稚児・童子に関する記述は多くありません。「山内文庫本」で確認できる本文はは活字本よりずいぶん長く、奥書があります。その末尾はこのように書かれています。

 右蹇驢嘶餘一冊者不知誰人作愚按台家僧侶之所作歟天正前後之記也申出滋野井殿御本写之

               享保十五年二月十九日御厨子所領采女正紀宗直

 活字本は後半部分が欠落したものと思われます。精読すれば逆に山内本が増補したとの説も出てきそうですが、それはまたの日に。

 滋野井氏は江戸時代の有職故実家で、公澄ー実全ー公麗の三代は大家として知られたようです。そのどなたかから(公麗は享保十五年には生まれていませんから、公澄か実全でしょう。)借りた紀(高橋)宗直が書写したようです。「紀」と「高橋」は「氏」と「姓」の関係でしょう。信長が「織田信長」なのに氏で書くと「平信長」になるような感じです。高橋宗直も有職故実家で、高橋家は代々御厨子所の預(あづかり=実務を執り行う者)を務めていたようです。

 宗直は、「蹇驢嘶餘」は天正前後の記録ではないかと推定しています。天正元年は1573年です。織田信長比叡山焼き討ちが1571年(元亀2年)です。ちょっとそれ以降とは考えられないと思います。焼き討ちが事実なら、こんな随録を書く余裕はないと思いますし、貫全の体験と、聞き書きにしても間がありすぎますから。普通に考えて、法灯が途絶えるような大災害の後でのんびり随録する雰囲気はないでしょうから。(途絶えた法灯は出羽のお寺に分灯されていて復活したことになっています。ただ、焼き討ちの実態には様々な説があるようなので、よくわかりません。

 稚児に関する記述は少ないと書きましたが、次の部分はちょっと気になりました。

 一 横川ノ別当ハ。衆入ノ一老ガ持也。衆入トテ児立ノ衆徒也。縦児立ナレドモ。行断トテ擯出セラレテ皈レバ。衆入ニテナシ。別当不持ナリ。東塔西塔ノ執行ハ横入。他宗交衆入ル人也。他方来モ事ニヨリ持也。

 「衆入」とは衆徒から昇進したということでしょうか、「児立」は「稚児育ち」でしょうか。横川の別当は自坊で育った稚児の衆入が務めるが、「擯出」といって戒律に反したものは「衆入」の資格なしとなって別当になれないと解釈できます。東塔西塔ほ執行は自前の衆徒ではなく、よそ(他宗)から就任するようです。

まとめ1 稚児と童子について

 1 稚児について。

 門跡、院家、出世は出自は公家もしくはその養子の稚児です。坊官は公家と同等のようですが、妻帯です。侍法師も上方ですので稚児出身でしょう。でも坊官と侍法師は妻帯ですので、その家出身の稚児かもしれません。寺院、俗世に関わらず、殿上(従五位以上)レベルでなければ稚児にはなれなかったようです。

 稚児とはいっても、公家出身と侍出身(これは世襲でいう坊官と侍法師)では、衣装に水干と長絹などの区別があったようです。

 「蹇驢嘶餘」が書かれた当時には、下僧が次の代には、その子が御童子となれば中方となり、その子は稚児になる可能性もあったようですが、まあ無理だろうな、という感じです。子供の時、どのような童形になるのかが、ランクアップの鍵だったようです。

 江戸時代の咄本ですが、安楽庵策伝の「醒酔笑」に次のような小話が載っています。

◎ 山の一院に児三人あり。一人か公家にておはせし。坊主、年に二度物思ふといふ題を出せり。

  「はるは花あきは紅葉のちるをみて年に二度物おもふかな」

 一人の小児は侍にてありし。よるは二度物おもふといふ題なり。

  「宵は待ちあかつき人のかへるさに夜は二度もの思ふかな」

 いま一人の児は中方の子なり。月に二度物思ふといふ題にて、

  「大師講地蔵講にもよばれねば月に二度もの思ふかな」

 公家の稚児は、桜や紅葉の散りゆくのに年に二度「物思い」を感じ、侍の稚児は、宵には恋人を待ち、暁には恋人と別れるのに一夜のうちに二度「物思い」を感じます。季節を感じるのは雅な事です。恋の道も雅な事ですが、法師の夜這いを待つ稚児の心情とすると、それほど優雅とは思えません。それに対して中間(俗人でも法師でも)出身の稚児は、月に二度ある「大師講」や「地蔵講」に呼ばれず御馳走にありつけない事が「物思い」の種だというのです。色気もそっけもない食いしん坊の中方の稚児の和歌がオチとなっているのです。安楽庵策伝(1554~1642)が何を種本としたのかは分かりませんが、戦国時代から江戸初期においては、同じ稚児でも公家・侍・中方の出自によって区別されていた様です。そしてそれぞれには、公家稚児には清く優雅な、侍稚児には衆道の対象としての、中方稚児には無風流なイメージがあったのでしょうか。

 中古・中世のイメージとして「稚児」は比叡山のアイドルとの認識があったのですが、「蹇驢嘶餘」には直接そのような記述はありません。随録の意図がそこにはなかったのでしょう。しかし、稚児や童子を寵愛する雰囲気は端々に窺えます。

 2 童子について。

 「中童子」という表現は本文には一度も出てきません。でも文脈上、「御童子」は「大童子」のように大人になった、むくつけき(宇治拾遺物語に出てくるような)童形ではなく稚児と年齢を同じくする童形と思われますのでこの文章では「御童子=中童子」と解釈しました。この御童子は「御承仕」「御格勤」という中方の家の出自か、それに対応する俗世の身分から奉公に出た者でしょう。梶井門跡が寵愛ある時は杯を賜ったように、美童は可愛がられたようです。筆者は何気なく書いたのでしょうが、ああこの御門跡は中童子を寵愛したのだなあと、推察されます。その寵愛は宴席の場で杯を与えてジエンドではないでしょう。セカンドとしてその寵童はお召しがあるのだろうな、と推察します。

 多分、このように童形を寵愛することは比叡山の中では一般的だったと思われます。

まとめ2 貫全について

 貫全という人の足跡を追っていきましょう。この人は「蹇驢嘶餘」の多くを語っている人であり、筆者とごく親しい人か、筆者本人とも思われる人です。(言全という人が誰なのかわかったら新たな解釈もあるのでしょうが。)

 「寺家」家、という一族が多くありました。「猪熊寺家」は途絶したですが、「梶井寺家」は今(「蹇驢嘶餘」が書かれた時点)に続いています。かつては清僧が継いでいたようですが、ある機会に世襲になったようです。「寺家」家の誕生です。新しい家ですので、当然「源平藤橘」などの氏を持ちません。江戸時代の「地下家伝」では「寺家」家の本姓は空欄になっています。

 梶井門跡の東塔南谷の円融院の「寺家」に貫全は生まれました。貫全は御目も麗しく門跡のお気に入りだったようです。中堂供養の時には、まだ幼かった貫全は、法師の肩に乗り派手な格好で行列に参加したようです。

 そんな貫全ですが、根本中堂の執当の時は、寒中三十三日間水垢離をして修正会に内陣に参列したようです。普通は清僧でなければ入ることのできない内陣です。

 ある時、門跡は陪禅の坊官が当番を終えて下山したのに、次の当番が来なかった時には、わざわざ坂本まで人を遣って、貫全を召して夜半に御膳を召し上がったということです。ずいぶんお気に入りだったのでしょう。

 この門跡は、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。とすればこの思い出を語られた聞き手の筆者は時代的に、その次の世代かと思われます。

 それほど多くの情報があるわけではありませんが、一つのストーリーができそうです。

まとめ3 稚児物語をどう読むか

 稚児物語を読むのに「蹇驢嘶餘」が参考になるかと読み進めたのですが、ふと気づきました。稚児物語には比叡山の稚児は登場しない!僧侶も三人だけだ!

 代表作の「秋夜長物語」「あしびき」の印象が強くて、比叡山がほとんどの舞台だと思い込んでいたのですが、僧で登場するのは「秋夜長物語」の桂海律師と、「あしびき」の侍従君玄怡だけです。稚児は「秋夜長物語」が三井寺の梅若(花園左大臣家息)、「あしびき」は南都(興福寺または東大寺)の民部得業というおそらく坊官の出自です。

 他の物語も確認しましょう。「幻夢物語」は、大原の僧幻夢と日光山の稚児花松が主人公です。最初の舞台は比叡山ですが。「上野君消息」は、僧は源平の争乱で三井寺から比叡山に難を逃れた上野君、剃髪して円厳。稚児は嵯峨野法輪寺の稚児(名前は出てきません。)です。この物語は恋愛にまでは発展しません。「嵯峨物語」は、男は嵯峨野に閑居する一条郎です。閑居はしていても出家はしていないようです。稚児はとある山里の某の僧都に弟子入りする松寿君。「鳥辺山物語」は武蔵の国のとある寺の民部卿、稚児は四条坊門辺りの中納言の子、藤の弁です。比叡山は関係ありません。「弁の草紙」は、僧東谷の大輔も稚児格の(実際は剃髪している)弁公昌信も日光山です。松帆物語」は、僧は宰相、岩倉在住です。稚児格は四条辺りの中納言の次男藤の侍従です。横川の叔父禅師房に弟子入りしていたのですが、元服して籐の侍従を名乗っています。横川で比叡山がちょっとかすっていますが、あまり関係ありません。

 さまざまなバリエーションがあるのです。稚児物語というでけで一緒くたには出来なさそうです。

 

登場する人物について

 「蹇驢嘶餘」には何人か歴史上の人物が記述されています。紹介しましょう。

 恵林院=足利義稙。(1466年《文正元年》~1527年⦅大永7年》)

 大館左衛門大夫=大館尚氏(1454年~1546年以降)。左衛門佐。有職故実家。かその

  子の大館晴光(?~1565年)。左衛門佐。か。

 半井閑嘯軒=半井明英(生没年不詳:弟瑞策は(1522年⦅大永2年》~1596年文禄5

  年)医師。

 細川京兆と観世太夫=細川家の誰かと、観世太夫の何代目か。

 田村精観=不祥。

 どう見積もっても、このような人々について書かれているので、16世紀中盤以降の記述であることは確かなようです。彼らは今でも、パソコンや電子辞書で確認できる人なのですのですから、当時のおそらく京都周辺では著名な人だったのでしょう。その見聞の実態についても検証する必要はありそうですが、それはまた後の稿に譲るとしましょう。(後の稿はないかもしれませんが。)

 

 「有職故実」家の人が伝承した書物であれば、「蹇驢嘶餘」には今は廃れてしまった情報が織り込まれたものでしょう。その中に稚児に関する記述が多いのは面白いことです。男色に直接触れる記事はありませんが、美しい稚児を愛でる雰囲気は十分うかがえる文章です。

 

 

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について⑤ー

まとめ

 「蹇驢嘶餘」はまだまだ続くのですが、後半部には稚児・童子に関する記述は多くありません。「山内文庫本」で確認できる本文はは活字本よりずいぶん長く、奥書があります。その末尾はこのように書かれています。

 右蹇驢嘶餘一冊者不知誰人作愚按台家僧侶之所作歟天正前後之記也申出滋野井殿御本写之

               享保十五年二月十九日御厨子所領采女正紀宗直

 活字本は後半部分が欠落したものと思われます。精読すれば逆に山内本が増補したとの説も出てきそうですが、それはまたの日に。

 滋野井氏は江戸時代の有職故実家で、公澄ー実全ー公麗の三代は大家として知られたようです。そのどなたかから(公麗は享保十五年には生まれていませんから、公澄か実全でしょう。)借りた紀(高橋)宗直が書写したようです。「紀」と「高橋」は「氏」と「姓」の関係でしょう。信長が「織田信長」なのに氏で書くと「平信長」になるような感じです。高橋宗直も有職故実家で、高橋家は代々御厨子所の預(あづかり=実務を執り行う者)を務めていたようです。

 宗直は、「蹇驢嘶餘」は天正前後の記録ではないかと推定しています。天正元年は1573年です。織田信長比叡山焼き討ちが1571年(元亀2年)です。ちょっとそれ以降とは考えられないと思います。焼き討ちが事実なら、こんな随録を書く余裕はないと思いますし、貫全の体験と、聞き書きにしても間がありすぎますから。普通に考えて、法灯が途絶えるような大災害の後でのんびり随録する雰囲気はないでしょうから。(途絶えた法灯は出羽のお寺に分灯されていて復活したことになっています。ただ、焼き討ちの実態には様々な説があるようなので、よくわかりません。

 稚児に関する記述は少ないと書きましたが、次の部分はちょっと気になりました。

 一 横川ノ別当ハ。衆入ノ一老ガ持也。衆入トテ児立ノ衆徒也。縦児立ナレドモ。行断トテ擯出セラレテ皈レバ。衆入ニテナシ。別当不持ナリ。東塔西塔ノ執行ハ横入。他宗交衆入ル人也。他方来モ事ニヨリ持也。

 「衆入」とは衆徒から昇進したということでしょうか、「児立」は「稚児育ち」でしょうか。横川の別当は自坊で育った稚児の衆入が務めるが、「擯出」といって戒律に反したものは「衆入」の資格なしとなって別当になれないと解釈できます。東塔西塔ほ執行は自前の衆徒ではなく、よそ(他宗)から就任するようです。

まとめ1 稚児と童子について

 1 稚児について。

 門跡、院家、出世は出自は公家もしくはその養子の稚児です。坊官は公家と同等のようですが、妻帯です。侍法師も上方ですので稚児出身でしょう。でも坊官と侍法師は妻帯ですので、その家出身の稚児かもしれません。寺院、俗世に関わらず、殿上(従五位以上)レベルでなければ稚児にはなれなかったようです。

 稚児とはいっても、公家出身と侍出身(これは世襲でいう坊官と侍法師)では、衣装に水干と長絹などの区別があったようです。

 「蹇驢嘶餘」が書かれた当時には、下僧が次の代には、その子が御童子となれば中方となり、その子は稚児になる可能性もあったようですが、まあ無理だろうな、という感じです。子供の時、どのような童形になるのかが、ランクアップの鍵だったようです。

 江戸時代の咄本ですが、安楽庵策伝の「醒酔笑」に次のような小話が載っています。

◎ 山の一院に児三人あり。一人か公家にておはせし。坊主、年に二度物思ふといふ題を出せり。

  「はるは花あきは紅葉のちるをみて年に二度物おもふかな」

 一人の小児は侍にてありし。よるは二度物おもふといふ題なり。

  「宵は待ちあかつき人のかへるさに夜は二度もの思ふかな」

 いま一人の児は中方の子なり。月に二度物思ふといふ題にて、

  「大師講地蔵講にもよばれねば月に二度もの思ふかな」

 公家の稚児は、桜や紅葉の散りゆくのに年に二度「物思い」を感じ、侍の稚児は、宵には恋人を待ち、暁には恋人と別れるのに一夜のうちに二度「物思い」を感じます。季節を感じるのは雅な事です。恋の道も雅な事ですが、法師の夜這いを待つ稚児の心情とすると、それほど優雅とは思えません。それに対して中間(俗人でも法師でも)出身の稚児は、月に二度ある「大師講」や「地蔵講」に呼ばれず御馳走にありつけない事が「物思い」の種だというのです。色気もそっけもない食いしん坊の中方の稚児の和歌がオチとなっているのです。安楽庵策伝(1554~1642)が何を種本としたのかは分かりませんが、戦国時代から江戸初期においては、同じ稚児でも公家・侍・中方の出自によって区別されていた様です。そしてそれぞれには、公家稚児には清く優雅な、侍稚児には衆道の対象としての、中方稚児には無風流なイメージがあったのでしょうか。

 中古・中世のイメージとして「稚児」は比叡山のアイドルとの認識があったのですが、「蹇驢嘶餘」には直接そのような記述はありません。随録の意図がそこにはなかったのでしょう。しかし、稚児や童子を寵愛する雰囲気は端々に窺えます。

 2 童子について。

 「中童子」という表現は本文には一度も出てきません。でも文脈上、「御童子」は「大童子」のように大人になった、むくつけき(宇治拾遺物語に出てくるような)童形ではなく稚児と年齢を同じくする童形と思われますのでこの文章では「御童子=中童子」と解釈しました。この御童子は「御承仕」「御格勤」という中方の家の出自か、それに対応する俗世の身分から奉公に出た者でしょう。梶井門跡が寵愛ある時は杯を賜ったように、美童は可愛がられたようです。筆者は何気なく書いたのでしょうが、ああこの御門跡は中童子を寵愛したのだなあと、推察されます。その寵愛は宴席の場で杯を与えてジエンドではないでしょう。セカンドとしてその寵童はお召しがあるのだろうな、と推察します。

 多分、このように童形を寵愛することは比叡山の中では一般的だったと思われます。

まとめ2 貫全について

 貫全という人の足跡を追っていきましょう。この人は「蹇驢嘶餘」の多くを語っている人であり、筆者とごく親しい人か、筆者本人とも思われる人です。(言全という人が誰なのかわかったら新たな解釈もあるのでしょうが。)

 「寺家」家、という一族が多くありました。「猪熊寺家」は途絶したですが、「梶井寺家」は今(「蹇驢嘶餘」が書かれた時点)に続いています。かつては清僧が継いでいたようですが、ある機会に世襲になったようです。「寺家」家の誕生です。新しい家ですので、当然「源平藤橘」などの氏を持ちません。江戸時代の「地下家伝」では「寺家」家の本姓は空欄になっています。

 梶井門跡の東塔南谷の円融院の「寺家」に貫全は生まれました。貫全は御目も麗しく門跡のお気に入りだったようです。中堂供養の時には、まだ幼かった貫全は、法師の肩に乗り派手な格好で行列に参加したようです。

 そんな貫全ですが、根本中堂の執当の時は、寒中三十三日間水垢離をして修正会に内陣に参列したようです。普通は清僧でなければ入ることのできない内陣です。

 ある時、門跡は陪禅の坊官が当番を終えて下山したのに、次の当番が来なかった時には、わざわざ坂本まで人を遣って、貫全を召して夜半に御膳を召し上がったということです。ずいぶんお気に入りだったのでしょう。

 この門跡は、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。とすればこの思い出を語られた聞き手の筆者は時代的に、その次の世代かと思われます。

 それほど多くの情報があるわけではありませんが、一つのストーリーができそうです。

まとめ3 稚児物語をどう読むか

 稚児物語を読むのに「蹇驢嘶餘」が参考になるかと読み進めたのですが、ふと気づきました。稚児物語には比叡山の稚児は登場しない!僧侶も三人だけだ!

 代表作の「秋夜長物語」「あしびき」の印象が強くて、比叡山がほとんどの舞台だと思い込んでいたのですが、僧で登場するのは「秋夜長物語」の桂海律師と、「あしびき」の侍従君玄怡だけです。稚児は「秋夜長物語」が三井寺の梅若(花園左大臣家息)、「あしびき」は南都(興福寺または東大寺)の民部得業というおそらく坊官の出自です。

 他の物語も確認しましょう。「幻夢物語」は、大原の僧幻夢と日光山の稚児花松が主人公です。最初の舞台は比叡山ですが。「上野君消息」は、僧は源平の争乱で三井寺から比叡山に難を逃れた上野君、剃髪して円厳。稚児は嵯峨野法輪寺の稚児(名前は出てきません。)です。この物語は恋愛にまでは発展しません。「嵯峨物語」は、男は嵯峨野に閑居する一条郎です。閑居はしていても出家はしていないようです。稚児はとある山里の某の僧都に弟子入りする松寿君。「鳥辺山物語」は武蔵の国のとある寺の民部卿、稚児は四条坊門辺りの中納言の子、藤の弁です。比叡山は関係ありません。「弁の草紙」は、僧東谷の大輔も稚児格の(実際は剃髪している)弁公昌信も日光山です。松帆物語」は、僧は宰相、岩倉在住です。稚児格は四条辺りの中納言の次男藤の侍従です。横川の叔父禅師房に弟子入りしていたのですが、元服して籐の侍従を名乗っています。横川で比叡山がちょっとかすっていますが、あまり関係ありません。

 さまざまなバリエーションがあるのです。稚児物語というでけで一緒くたには出来なさそうです。

 

登場する人物について

 「蹇驢嘶餘」には何人か歴史上の人物が記述されています。紹介しましょう。

 恵林院=足利義稙。(1466年《文正元年》~1527年⦅大永7年》)

 大館左衛門大夫=大館尚氏(1454年~1546年以降)。左衛門佐。有職故実家。かその

  子の大館晴光(?~1565年)。左衛門佐。か。

 半井閑嘯軒=半井明英(生没年不詳:弟瑞策は(1522年⦅大永2年》~1596年文禄5

  年)医師。

 細川京兆と観世太夫=細川家の誰かと、観世太夫の何代目か。

 田村精観=不祥。

 どう見積もっても、このような人々について書かれているので、16世紀中盤以降の記述であることは確かなようです。彼らは今でも、パソコンや電子辞書で確認できる人なのですのですから、当時のおそらく京都周辺では著名な人だったのでしょう。その見聞の実態についても検証する必要はありそうですが、それはまた後の稿に譲るとしましょう。(後の稿はないかもしれませんが。)

 

 「有職故実」家の人が伝承した書物であれば、「蹇驢嘶餘」には今は廃れてしまった情報が織り込まれたものでしょう。その中に稚児に関する記述が多いのは面白いことです。男色に直接触れる記事はありませんが、美しい稚児を愛でる雰囲気は十分うかがえる文章です。

 

 このブログもだいぶ間をおいてしまいました。また物語に戻って「稚児今参り」と「花みつ」にとりかかろうと思います。「海人の藻屑」と「右記」も読み直すつもりです。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について④ー

内容4

 一 児公家息ハ。白水干着ル也。武家ノ息ハ。長絹ヲ着スル也。クビカミノ有ヲ水干ト云。無ヲ長絹ト云フナリ。イヅレモ菊トヂハ黒シ。中堂供養ノトキ。御門跡ノ御供奉。貫全童形ニテ仕ル也。其トキハ。空色ノ水干其時節ニ似合タル結花ヲ。菊トヂニシテ法師ノ肩ニノル也。歩時ウラナシノ藺金剛也。

 公家の子弟は、白い水干を着るそうです。貫全は坊官ですが、坊官は公家相当ですけれども、妻帯の世襲ですから正式に公家といえるのでしょうか。それに対して武家の子弟は、侍法師相当の稚児ですが、長絹を着るようです。水干は首の辺りが横に輪っかのようになっているのに対して、長絹は輪っかがないので左右から重ねた三角状になっているのでしょうね。一目でわかります。ここはこだわりどころでしょう。見る人が見ればわかるのです。

 貫全が稚児の時、梶井門跡の中堂供養の供奉に与かったようです。その時は「空色(白色にこだわらず。か?)」で菊綴(綴じ目を菊飾りにしたもの)を結花(普通は黒だが、)黒い糸ではなくその時に応じた色とりどりの糸でくくった鮮やかな衣装で、法師(中方以下の僧と思います)の肩に乗って行列に参加したようです。自分で歩く時は金剛草履だったようです。法師の肩に乗るとは、その年齢では歩くのもたどたどしいほどの幼児だったのでしょうか。

 なんとも派手な格好で供奉に加わった貫全さん。稚児の頃から御門跡のお気に入りだったようですね。陪膳がいなければ坂本(近江の坂本と京の坂本がありますが)まで呼び寄せたのもこのような関係からでしょうか。

 筆者と貫全はどのような関係でしょうか。筆者が貫全とごく親しい存在なのはわかりますが。貫全は梶井寺家の世襲になってから八代目(山内文庫本では代々)でしたね。その息子でしょうか。父の語ったことを書き留めたとも考えられます。しかし供奉の時法師に肩に乗った、などというリアルな描写は目撃しなければ書かない気がします。すると父とか兄なのかも。そうでなければ、かなり長い間付き合いのあった親しい人でしょう。あるいは本人かも。

 白水干の稚児ではないが、長絹を着ている侍法師の稚児とは扱いが違うよ、ちょっと上だよ、とのニュアンスが感じられます。

 その文脈の続きで、稚児の眉と御童子の眉の違いを述べます。眉毛を毛抜きで抜いてのっぺりさせてその上に眉を書く黛は、化粧の一つだったのでしょうが、階級を示す記号でもあったようです。

 児眉。上ニシンヲ立。末ニホフ。

 御童子眉。三日月ナリニ脇ニシンヲ立。両方ニホヒアリ

 「芯を立てる」とはどのような行為でしょうか。「匂い」というのは黛で眉を描いてぼかした部分のようです。眉毛を抜いて黛を引く習慣はどの階層の人までがしていたのでしょうか。中方の御童子も眉は作っているのですが、差をつけているのです。

 その次に堂衆について書かれます。根本中堂の長講は清僧で、

 「中方ナレドモ此職准上方弟子児ヲ持也。」

 とあります。この記述は二つの意味を含みます。先ず、中方は稚児を持たない事です。稚児を持つのは上方なのです。上方は稚児を訓育する立場です。その稚児がやがて上僧となって次の稚児を訓育します。それに対して中方は雑役として童子を使うのみです。稚児は持てません。次に、稚児・童子を持つのは清僧なのですね。堂衆は中方であっても重要な役割であって、清僧だから稚児を持てたのです。妻帯はそれを必要としません。上僧は清僧であるから血統の後継を待ちません。その代わり弟子として稚児を取り、その稚児が後継となっていきます。その過程で稚児が崇高な愛情の対象ともなっていったようです。(稚児灌頂などという秘事があるようですが、ここでは触れません。)

 次は執当について。貫全が務めていた職掌ですね。根本中堂では清僧が務めるようです。あれっ、貫全は妻帯ですね。

 本文では、

 一 執当。根本ハ清僧也。中古ヨリ以来妻帯ノユエニ。寒中三十三日暁垢離一ヲトリ。従正月朔至十五日修正。毎暁彼堂至内陳出仕也。此外妻帯不入内陳。言全ハ不修此行。貫全ハ。一生修此行也。

 とあります。中世以来、根本中堂の執当は清僧が務めることになっていたようで寺家家は寒中の早暁に、三十三日間水垢離をして身を清めてから、正月一日から十五日までの修正(修正会?正月の法会か?)の毎暁に中堂の内陣に出仕したと記述されます。このようにお清めをした執当以外の妻帯は内陣に入ることはできなかったようです。「言全」はこの行を修めなかったようです。当然中堂には入れなかったのでしょうね。貫全は(活字本では「貫マツタクは」と書かれています。「全」を「マツタク」とカタカナで書いたのは「貫全」を固有名詞と思わずに書写か翻刻したのでしょう。)ずっとこの厳しい寒垢離をしながら出仕していたのでしょう。ところで、この水垢離を放棄したヘタレな言全って誰?ヘタレは言い過ぎか。貫全が立派だったのでしょう。「全」という字がつくのだから貫全の一族っぽい感じです。この人が筆者かな?「言」のつく僧侶の名前ってあまり聞きません。

 一 下僧。下法師也。後ニ公人ニ成ル。公人ノ息モ。御童子ニナレバ。中方ト成ル。中方ノ息モ。児ニナレバ上方ト成ル。下法師モ三代目ニハ。上方ニ成ルトハ申セドモ。中方ニハ成レドモ。上方ニ成ル事ハ稀也。

 ここまで「蹇驢嘶餘」を漫然と読んできた感じですが、この部分を読んで「ああそうか。」と思った二十数年前が思い出されます。

 土谷恵氏は「中絵寺院の童と児」(史学雑誌101-12)という論文で稚児と童の関係について考察されました。そこでは、従来論じられてきた寺院児童に関する言説が持つ曖昧さ、不正確さの原因に貴族・房官・侍などの児童の帰属する階層性が明確に示されていない点を指摘して、それを明らかにしました。

 土谷氏は中世寺院の童たちの代表は、児・中童子・大童子であるとし、その房内での序列は児ー中童子ー大童子、法会などの行列の中では上童ー中童子ー大童子であることを論証します。さらに児にも貴族・房官・侍などの出自によって身分差・階層差があり主に房内の雑事を務めていた存在と見ています。

 中童子は法会の行列や持幡童など児と共通する役を務めることも多のですが、児とは出身階級を異にし、明確な身分差があったとします。

 大童子は御童子とも呼ばれ、中童子との違いは従来言われてきたような年齢による区別ではなく身分差であるとします。この下層にある大童子には出家の道は閉ざされ、生涯童形で過ごすこととなり、寺院での役務も多様であったと述べます。氏はこの大童子が中世寺院の童姿の代表であったとしています。

 「蹇驢嘶餘」は成立が室町末から戦国時代にかけてですので、中世寺院から多少制度が変わってきているかもしれませんが、土谷氏の指摘にかなっている記述です。氏も参照されているでしょうから当然かもしれませんが。

 ただ、ここでは下僧も三代後には上方になれる可能性がある、と書かれています。稀にはですが。いろいろな僧職・いろいろな童形が寺院にはいたようですが、おおざっぱに上・中・下に別けられていたようですね。

 土谷氏のいう、大童子という出家できない寺院関係者がいるのは、そうかとも思いますが、どちらかというと下僧にはなれても、童形のままの方が仕事がもらえるので童形にとどまったと考えた方がいいように思われます。

 今は「寺院における童形の研究」ってどうなっているのでしょうか。「文学」も「国文学」も「解釈と鑑賞」も、更には「言語」も「受験の国語」もなくなった今。

 そうそう、その二十年ほど前の頃、 

 「竉 南都ニ童子ヲ松コソ千代コソト云殿ノ字ヲ不云トコソト云也」(運歩色葉集) 

 「雑仕美女モシハ僧坊ノ中童子ヲナニコソトヨヘリ」         (名語記)

 なんて記述を見つけていました。稚児は「○○殿」と呼ばれていたのですね。それに対して、童子(南都の)・中童子は「○○こそ」と呼ばれていたみたいですね。「~こそ」は子供や女性を呼ぶ時の呼称です。性愛の対象だから女性を呼ぶように呼んだのかなあ、と思った記憶があります。

 その4はここまでにしましょう。 

 「蹇驢嘶餘」は まだまだ続くのですが、童形に関する記述はこの辺までです。その5で、貫全という人物や童形について考えてまとめとしたいと思います。

 

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について③ー

その3

 次いで梶井門跡について詳しく書かれています。門跡はその1,その2でも比叡山ヒエラルキーの最上位に位置付けられます。この門跡とは皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺家・院家で、山門(比叡山)では、円融(梶井)院(三千院とも)・青蓮院・妙法院がそれに当たります。

 一 梶井殿尭胤親王。東塔南谷円融房。御住山御登山已後。一生不被下山也。坊官五日ノ番オハリテ下山仕ル。次ノ番未登山衆徒ニハ。被居間敷由被仰。御膳不参也。執当貫全ヲ。坂本召ニ人ヲ下ス。夜半ノ時節登山。御膳ヲ進也。

 筆者の執筆時もしくはそのちょっと前の梶井門跡は尭胤親王のようです。東塔の南谷円融房が居所なのでしょうか。梶井殿は生前は院号がないそうで、「円融院」とか「梶井院」とかは言わないようで、入滅あるいは隠居後に院号は贈られるそうです。その尭胤親王ですが、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。その尭胤法親王のエピソードが記されています。尭胤親王は登山以後一生山を下りなかったようです。という事は没後に書いたのか、それとも現時点での話なのか・・・ある時、陪膳係の坊官が五日間の当番を終えて下山したのに次の当番がまだ上ってこなかった。しかし親王は衆徒に陪膳させて食べようとはしませんでした。衆徒は坊官よりワンランク落ち、侍法師と同等です。門跡の陪膳は坊官の役と決まっていたようです。そこで人をして麓の坂本にいた執当の貫全を呼び寄せ、貫全が夜半に登山してから御膳を召し上がったとか。貫全ってその1であれこれ語った人ですね。執当は三綱(上座・寺主・都維那)が輪番で務めたようです。坊官クラスです。これはどんな意味のお話なのでしょう。尭胤親王が気難しい方だった?そうではなくて、このような作法は厳格に守られるべきだ、との意味でしょうね。たとえ真夜中まで門跡がお預けを食っても。逆に現状そういうことがいい加減になっていたのでしょう。それともこれほどまでに貫全は親王のお気に入りだったよ、という自慢話なのでしょうか。応仁の乱が1467年~1477年。室町時代から戦国時代にかかろうという時です。筆者は仲のいい貫全とこのような事を語り合っていたのでしょうか。

 その次に梶井殿の御膳の食器について記されます。それは省略します・

 次に寺家について。

 一 猪熊ノ寺家。梶井ノ寺家。此一族多シ。ミナ山門ノ執当ニ任ズル家也。猪熊今ハ断絶。梶井寺家イニシヘハ清僧也。貫全マデ八代(貫全マデハ代々:山内文庫本)妻帯也。当門跡ニ随ナリ。但梶井殿家来也。

 この貫全は梶井寺家の者で、猪熊寺家とともに山門の執当に任ぜられる家だったようです。猪熊寺家は廃絶してしまったのですか、もともと清僧だった梶井寺家は貫全の八代前(山内文庫本では単に代々。漢数字の「八」かたかなの「ハ」は分かりづらいらいですね。)から妻帯し梶井門跡の家来だったようです。尭胤親王(当門跡)に随ってはいますが、梶井殿に来る親王がどのような皇族かは決まっていないで、親王の家来というのではなくて、梶井殿(円融院・三千院)に由来する一族なのですね。

 固有名詞はやっかいなもので、私はこの「寺家」を「院家」より寺格の落ちる寺を指す一般名詞だと思っていました。ところが、ここでの「寺家」はそうではなくて、「寺家」という姓のようです。「猪熊系の寺家さん、梶井系の寺家さんなど、寺家一族は結構いるよ、猪熊の寺家さんは断絶したけどね。」と解釈できてすっとしました。「地下家伝」という江戸時代後期の天保年間に成立した地下官人諸家の系図をまとめた書物があります。このご時世(コロナ禍)で図書館に行って調べるという事はできないのですが、ウィキペディアによると、「地下家の一覧」の諸門跡坊官等の項に、梶井宮(院ではないところは蹇驢嘶餘の院号を持たない、という記述と合っています。)坊官として、「寺家家」がありました。本姓(藤原氏とか源氏とか)を持たず、初叙は「法橋」で極位は「法印」とあります。確かに梶井門跡の「寺家」家があったのですね。以前出てきた「極」の意味も、その家柄での最高到達点と確認できました。本姓がないのは当然で、何代か前の清僧が妻帯して世襲になったからで、テキストとの齟齬はありません。寺家一族は、国文学研究資料館・電子資料館の地下家伝・芳賀人名辞典データベースで、江戸時代の「寺家養昌」「寺家養気」「寺家養忠」「寺家養仙」「寺家養敬」「寺家養恕」「寺家養正」が確認できます。貫全の子孫ですね、たぶん。

 ただ、姓の「寺家」なのか、格式としての「寺家」なのかはその時に応じて判断しなければなりません。

 本文では尭胤親王のエピソードの前に書かれていますが、門跡の御膳に御相伴することの記述があります。

 一 門跡御相伴。堂上殿上人マデ被罷出也。殿上人ノ膳ヲバ居事ハ。坊官ナリ。アグル事ハ。侍法師也。公卿ハ。アグル事モ坊官ナリ。院家ハ御相伴也。出世。坊官。御相伴ニ古来不出也。但シ可依家ノ流例。衆徒召使童子ヲ御門跡御寵愛アレバ。白衣中帯ノ体ニテ。御次ノ間マデ参。半身ヲ出シテ杯ヲ給。或被召迄也。後ハ臈次被乱也。

 この一節は面白いと思います。門跡が(多分梶井殿でしょうが。)御膳を召し上がる時には、公卿・殿上人は同伴できるのですね。院家は同伴できます。出世、坊官は同伴できないのですね。出世・坊官はクラスとしては殿上人レベルだと思うのですが、給仕はしても同席はできないのですね。ただし、流例(古くからの習慣)によってはOKの場合もあるようです。

 「居事」とはその場にいて陪膳することだと思いますが、坊官の務めです。先の(記述は後ですが)、坊官がいなくなったので貫全が来るまで膳に付かなかった尭胤親王の話と合致します。膳の上げ下げに関しては公卿は坊官がして、殿上人は侍法師がしてもいいような記述です。その方が効率的なのか、決め事なのか。たぶん後者なのでしょう。

 その後です。「衆徒」は中方です。「出世」「坊官」も同伴できない御膳ですが、衆徒の召し使う「童子」でも御門跡の「御寵愛」があれば、「白衣中帯」の姿で、次の間まで参上し、半身を出して杯を受けることができるのです。もしくは中に入ることが(召る)こともあるようです。「後ハ臈次被乱」はちょっとわかりずらい。「臈次」は、「物事の順序」の意味ですが、「後」が「それ以外」はなのか、「時代が下ると」なのかで解釈が違ってきます。まあ、でもその辺があいまいになっているもでしょう。

 衆徒が召し使う中童子でも(杯を受けるのだから幼児ではなく少年しょう。)門跡の御寵愛があれば、杯を受けたり仕候することができたようです。ただし、白衣中帯で。ということは、それ以上の存在(児・稚児)はもっときらびやかな格好で仕候していたのでしょうね。

 という事は、門跡クラスが稚児を寵愛していたのは自明のこととして、中方の御童子にもちょっかいを出していたと読めるのですが、深読みでしょうか。

 戦国時代であれば、大名たちが男色に何の罪悪感も持たないことに、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが愕然としたという話が思い出されます。かなり昔に読んでの出どの文献に載っていたのでしょうかそれは思い出せません。

 思いがけず、梶井寺家について、その形がわかってきました。また、稚児や童子についても理解の手掛かりが見えてきました。

 その4では稚児と童子の違い、貫全とは誰だったのか、について読み進めます。