その1
さほど昔の事ではなかったが、四条の辺りに中納言で右衛門督を兼任している方がいた。中将である御子が一人いたが、それに続く御子が生まれず、寂しく思っていたが、ずいぶん経って年の離れた弟が生まれた。成長したらさぞ美しくなるだろうと思われるかわいらしさで、この上なく大切に育てられた。ところが、父の中納言卿が突如亡くなった。頼りとする大黒柱がなくなったが、中将の君はこの弟を愛しく思い、十歳までは自ら養育した。
ある時、中将たちの伯父にあたる横川に住む禅師房が中将を尋ねて来て言った。
「中将よ、父亡き跡、おぬしがこの若君を自分で育てようとしても、思うに任せぬ事であろう。それよりは比叡山に入山させて、しかるべき学問をさせてはいかがであろう。」
このように何度も熱心に勧めるので、横川の禅師に託して山へ上らせたのであった。
内典外典、何れの学問にもまた和歌の道にも熱心に励み、筆を取ってもしっかりとした書きぶりで、様々な遊びも巧みにこなした。心映えもひときわ優美で、比叡山中の称賛を一身に受け、稚児や童子たちとも睦まじく交らうほどに、三年ほどを過ごした。
この母君は年を取ってからの末っ子が可愛かったのだろう、「長く顔を見ないのは悲しいことです。」としばしば里へ呼び寄せる。それを見かねた禅師は、
「この御子は学問の方面でも、聡明で賢い人です。このまま法師にして、父君の菩提を弔わせたらどうですか。」
と熱心に説得したが、母君は、
「それは惜しいことです。墨染めの衣の姿に身をやつさせるのは忍びなく、八雲立つ奥山に住ませることなど、私には辛いことです。」
と言って、取り付く島もないので、禅師としてもやむを得ない。
母君はこのままでは、御子を言いくるめて出家させてしまうかもしれないと危惧して、「多少の不如意はあっても御子は京に住ませましょう。」と中将に相談すると、中将も、「弟が傍らにいれば自分も何かと慰められるでしょう。」と同意して申し入れるので、禅師も、いたしかたないと、その才を惜しんで、泣く泣く都へ送って行った。横川の山水の風景はもの寂しいとはいっても、三年間暮らしていたこの御子にとっては名残多く、一緒に遊んでいた稚児・童子と離れることも悲しかった。皆で京近くまで見送って余波(なごり)を惜しんだのである。
禅師が横川に戻ってきて、御子がこの年月手習いをして暮らしていた部屋を開けて見ると、とても美しい筆跡で障子に一首の歌が書き付けられていた。
九重に立ち帰るとも年を経て慣れし深山の月は忘れじ
(京の都に帰っていっても長年見慣れたこの深山の月は忘れませんよ)
これを見て、禅師の君をはじめとして誰も泣かない者はいなかった。
この後、御子は元服して、藤の侍従と名乗った。髪上げしてもその美しさは劣ることなく、周囲の者も目を見張るほどの容貌であった。
その2
藤の侍従が十四歳になった春の頃、かつて慣れ親しんだ横川の法師や、京の町の風流な若君たちが来合せて、
「人が申すところによると北山の桜が今盛りだそうです。侍従の君もご覧になったらどうですか。ご一緒いたしましょう。」
などと口々に言うので、奥山の桜の色や香りに強く心魅かれて、急遽出遊することとなった。身分柄道中の人目も憚られて、ことさら身をやつして出かけた。
若公達が駒を並べて道すがら見渡すと、遠山の山の端はぼんやりと霞んで、野辺の景色は一面に青めき、芝生の中に名も知らぬ花々が菫に交じって色とりどりに咲いて、空高く雲雀は姿も見えず囀り合っているその様は何とも言いようもない。
目指す山はやや深く入った所で、山川の流れも岩のたたずまいも、まるで絵を見るように思われた。吹く風にそこはかとない花の匂いが運ばれてきて、人々は浮き浮きしながら急いで登ってみると、数えきれないほどの桜の花が、枝も撓むほどに開いていて、「今日来なければ、さぞ心残りだったであろう。」と思われるほどの花ざかりである。山に隠れた所とは思われない程、都から訪れたと思しき人が大勢集まって、木の根元や岩陰の苔の上に群がって座り、歌を詠んだり酒を飲んで、様々に遊んでいるのが見える。
侍従の君は花を眺め入って佇んでいたが、みんなが花よりもこの君に目を止めて見つめているので、ぞろぞろと歩いているのもなんとなくきまりが悪く、「花が十分あって、人目につかない引き籠った所があったらなあ。」と思いながら探していくと、とある寺の本堂の傍らに院家であろうか、檜皮葺きの軒が朽ちて忍ぶ草が我が物顔に繁っていて、破れた御簾が懸けられている荒れた僧坊があった。連れの中の一人にここを知る者がいて、暫くはここに逗留しようとの事となった。
短冊を取り出して詩や歌を吟じなどして、京から持ってきた檜破子の料理や竹筒に入った酒などで、遊山のささやかな宴を楽しんでいた。そこに一人の法師が現れた。年の程は三十ほどで人品卑しからぬ風体である。花を眺め入っていた侍従の君を見染めて、心奪われたのであろう、軒端の御簾近くまで慕って来て、花には目もくれず侍従を眺めている。御簾の中に駆け込みそうな勢いで、なんとも不快なので連れの男たちが出てきて、
「お忍びで出かけたのである。だからこのような隠れ家で遊んでいるのだ。無礼ではないか。」
などと荒々しく制するので、やむを得ず出ていくしかなかった。
しばらくして、十二三歳ほどの美しく着飾った童子が、小さい花の枝を結び付けた文を、取次ぎの挨拶もしないで御簾の内に差し込んだ。侍従が手に取って見ると、
夕霞立ち隔つとも花の陰さらぬ心を厭ひやはする
(夕霞が私とあなたを隔てても花の陰のようなあなたから去らない私の心をあなた
は嫌ったりするのでしょうか、いや嫌わないでください)
と整った文字で書かれている。「返歌をなさいませ。」と周囲は勧めるが、「恥ずかしい。」と言って傍らにいる人に譲って返させようとするが、「それは薄情でしょう。」などと言って催促するので、
花に移るながめをおきて誰が方にさらぬ心のほどをわくらむ
(立ち去らずにじっと花を見ているあなたの心を差し置いて誰に私の愛情を裂こう
としましょうか)
とうっすらとした文字で書いて差し出した。法師はこれを見て非常に喜んで涙さえ流したそうだ。
さて、この文の主が気になって法師がどこから来てどこへ行ったのかを使いの童に尋ねると、きつく口止めされていたのだろう、固く口を開かなかったのだが、そこは子供の事、様々に問い詰めるととうとう、「岩倉の某の坊にいる、宰相の君という方でございます。」と白状した。侍従は「聞きもしない方だ。きっとこの宰相は、何のつてもなく自分の思いだけを頼りに、言い寄ってきたのだなあ。」と思った。
一行はその夜はここに留まった。この院の花はことに趣深かった。一つの木で紅い花白い花の枝が交って咲いているのである。酔いに任せてまどろみがちに時を過ごせば三日三晩遊んでも遊び足りなく思われたが、都からは帰京を促す使いがたびたび来たので、未練を覚えて振り返りがちに四条の邸へ帰っていった。
その3
岩倉の宰相は、花の下で見た侍従の面影が頭から離れず、命も保てそうもないほど悶え苦しんで、どうにか伝手を探し出して手紙を送った。
「過ぎし時、花の下で見るともなしに眺めて以来、あくがれ出た私の魂はいつまであなたの袖の中にとどまっているのでしょうか。あの時のような機会はまたいつかはあるのでしょうか。」
などと細やかに書いて、
花の紐解くる気色は見えずとも一夜は許せ木の本の山
(花の蕾が開くようにあなたが心を開く気配は見えませんが、せめて一夜の逢瀬は
許してください。木の本があったお山で。)
返歌、
木の本を尋ね訪ふとも数ならぬ垣根の花に心とめじな
(あなたが木の本を訪ねてて来ても、数にも入らない垣根の花のような私には心を
止めないでしょう。)
このような事をきっかけとして、宰相は夜な夜な四条の邸の門口に佇み、愁苦辛吟していたが、侍従もそれに気づき、次第に愛しく思うようになっていったのであろう、心を許すようになって、しばしば邸へ行き通う仲となった。終には岩倉にある宰相の僧房へも連れ立っていくようになり、馴れ親しむにつれて心から打ち解けていった。宰相が障る事あって、一日二日と会えない時は見ていられない程寂しそうで、二人は深く睦み合っていたのである。
この若君に思いを懸ける人はあまたいて、こなた彼方から花に付けたり紅葉に結んだりした恋文はあきれ返る程多く寄せられた。しかし、そのような文には適当な返歌をするだけで、この宰相とは別れる気は全くなく、交情は三年程に及んだ。
その4
その頃、時の第一人者として思いのままに政治を執り行っていた太政大臣の御子で、左大将殿という方がいた。その御前で、源氏物語の雨夜の品定めではないが、夏の雨が静かに降って日も永い頃に、くつろいで世間話などを人々がしていた。そのついでに、この侍従の 容貌・心様がたぐいまれである事を誰かが話題にしたのを、左大将は興味を覚えて何度もお召しの使いを遣わした。
宰相が出て使いに、
「仰せ事は忝うございます。お召しに応じて参りたくは思いますが、この頃は気分がすぐれず病気で臥して暮らしているのです。すこしでもよくなった時にはきっと参上いたしましょう。よろしくお伝えください。」
と言ったので、使いもその旨を伝える。
五六日あって再び使いが来た。今度は文を持参してである。
「『世の中はかくこそありけれ吹く風の目に見ぬ人も恋しかりけり(噂に聞いて実際には会ってもいない人を慕わしく思うのが本当の恋なのですね)』という古歌が身に染みて思われるのですが、そのような私の心がわかりますか。病で苦しんでいるとのこと、気がかりです。梅雨の晴れ間には心地も少しは爽やかになりなさるでしょう。思い立っておいでください。」
などと書いてあって、
ほととぎす恨みやすらん待つことを君に移せる五月雨の頃
(ホトトギスも今頃恨んでいるでしょう。自分の鳴き声を待っていると思っていた
私が待つ相手をあなたに移してしまったこの五月雨の頃に。)
との歌が添えられている。返歌に、
五月雨の晴れ間もあらば君が辺りなどとは去らん山郭公
(五月雨の晴れ間があったならばあなたの周囲をどうしてホトトギスが去りましょ
う。みんなあなたに寄り集まってきますよ。)
と申し上げるだけは申し上げて、何度催促があっても、やはりまだ心地がすぐれない旨を宰相から申し上げて、邸に籠っていた。
そうはいっても、何することもなく籠っているのも無聊で、ある時宰相はこっそりと侍従を連れて岩倉へと行った。それを左大将の家人がしっかりと見咎め、殿の御前でしかじかとありのままを注進した。左大将は「さては日頃の気分がすぐれないというのは本当の事ではなかったのだな。」と激怒した。人々は「きっと宰相法師とやらの仕業だろう。憎らしい奴です。」など異口同音に申して、すぐに使いの者が四条の邸へ向かった。
「病気ですと言っていたのは皆偽りであったのだな。宰相法師とかと忍び歩きしていたとかいうことは、太政大臣の御子である左大将殿を軽んじるにもほどがあるぞ。」
などと憤りをぶつけて、兄の中将に事細かく事情を伝えると、中将は青ざめて、宰相には何も伝えず、侍従に装束を整えさせ、一つ車に乗って急ぎ参上した。大臣の邸は門を入るや鋪き詰めた玉石がまばゆいほど輝いている豪邸である。左大将は他に誰もいない所で侍従と対面する。灯し火が仄かに灯って、空薫物(そらだきもの)がどこからか燻らせられてしっとりと趣深い。
左大将には、侍従がまだ幼かった頃殿上の間でほのかに見た記憶はあったが、今の美しさはその比ではない。正面からしっかりと見たいと思うが、恥じらっている様子で顔をはっきりとは見せず、もどかしく思われる。それでも、侍従の美貌に左大将の心はたちどころにとらえられて、侍従の気に入るような遊びをあれこれとして、片時もそばを離れさせず親しく語らった。左大将は親しく近づけば近づくほど愛情が深まり、侍従はその思いに添わねばと思うのだが、宰相の事ばかりが心を離れず、大将の喜んでいる様子にもうれしくは感じられない。心が通い合っているからか、夢に現れるのは宰相の事ばかりである。
大将殿は、この法師を心から憎らしいと思い、「近所をさえうろつきまわせたくない。」とまで怒っているのを宰相は知らないで、侍従と会いたいとの衝動に駆られて、御殿の周囲を中を窺いながら徘徊するので、口のさがない者たちがあれこれと御前に言上して、太政大臣の権力で淡路の国へと追放されることとなった。
その5
この事を聞いて侍従は耐え難く思い、
「私のせいで罪もない人に辛い目を見させているのは悲しい。今にも駆けつけてその淡路島の波音や風の声を一緒に聞きたい。」
と嘆き悲しんだが、一通の手紙さえ交わすこともできなかったので、もどかしい思いであった。
宰相は都を後にする際に、どうにかつてを得て侍従に文を書き送った。こっそり見ると、思いがびっしりと書き付けられている。
流れ木と身はなりぬとも涙川君に寄る瀬のある世なりせば
(流れ木のような流罪の身となっても、涙の川にこの浮木打ち寄せる浅瀬がある
のであればわたしも救われるのでしょうが。)
係累が及ぶのを避けるためか、あからさまには書かれてはいない。
このようなわけで大将の好意もかえって恨めしく、薄情な振る舞いに思えたので、どうしても打ち解ける事は出来ず、気が塞ぐばかりで果ては病気がちにとなった。左大将は侍従のために玉の臺に竹筵を引いて涼風を呼ぼうなどと興趣を凝らすが、心は冷めるばかりで、ただもう物思いの中で弱っていくのである。しかし対象は侍従が宰相を思って弱っているのだとは気付かないで、「物の怪などがとりついたのだろうか。」と祈祷などを試みるが、効果などあるはずもない。容体は変わらず、病状はさらに悪化するように思われたので、侍従の母は我が子を思いやって様々な理由を付けて里に下がらせた。
さて、宰相の島流しにも岩倉に留まった伊予という法師がいた。宰相に最も近しく仕えていた法師である。里に下がった侍従は、秘かに呼び寄せて病床近く、
「宰相様が、私のせいで遠島されたと聞きました。悲しみの余りこのように患う身となってしまいました。あなたもさぞ私を恨めしく思っていなさることでしょう。」
と涙に咽びながら言うと、聞く方も言いようもなく悲しい気持ちで、
「このように宰相の君をお思いになっているのはありがたい限りです。お恨みなど決していたしません。」
などと言いながら夜が更けていくと、更に枕元に呼び寄せ、誰にも聞かれないように囁いて、
「どうにかして私をこっそり宰相のいなさる淡路島へ連れて行ってください。もし露見して罪に当たるのであれば、宰相様と一緒にその島で過ごすならば、かえって願いが叶う事でしょう。」
と言うので、
「お情けは申し訳ないほどでございますが、そのお考えはまことに幼いものでございますよ。侍従様がもし淡路に赴きなされたなら、隠しおおせるものではございません。たちどころに大将殿がお聞きになって、さらに怒りが増して、より重い罪を科されるでしょう。慕う気持ちがあるのなら、とりあえず文をお書きなさいませ。私がどうにかしてこっそりお届けしましょう。」
と説得するが、なおも変わらず涙ながらに同様な事を訴えるので、その愛情の深さに感じ入って、つくづくと思い、「お慕いする宰相に死に遅れて思いに任せないこの世に生き永らえるのは私としても本意ではない。また、この人がこのように訴えるのを拒むことも辛い。もとより命が惜しいというようなたいした身ではない。世間でどのような悪評が立ってもどうという事ないだろう。ならば、この若君を連れて行ってもう一度対面させよう。」と思った。そして、
「左大将殿をたばかる手立てがあります。大将殿へも御母上にも文をお書きください。『罪のない人を私のせいで遠国へ流適させた遺恨、もう心をこの世にとどめることもありません。私は身を投げます。』としたためなさい。縁起でもない事ですが、このように書いたなら疑われる事はないでしょう。」
などとかしこまった態度で申すので、その配慮に嬉しくは思うが、
「母上がの嘆きなさって病気にでもなったらどうしましょう、それだけはつらいことです。」
と言い返すと、
「それは後で密かに、心こめて打ち明ければ納得してくださるでしょう。」
などと言うので、「そうか。」と思って一方では宰相に会える当てがついたことに胸躍るのであった。
その6
左大将からは絶えず病を気遣う使いが来るが、相変わらずの病状を伝えるだけでうかがうこともなく日は過ぎて、長月にもなった。空しく月日を送ることは心細く、ともすれば露と多さを競うかのように涙で袖をぐっしょりと濡らすのである。
ある時、兄の中将殿が物詣でに出かけ人が少なくなっている機会に、秘かに岩倉の伊予法師を呼びに使いを遣わすと、法師も心得ていて、夜陰に乗じて参上した。かねて決めておいた手筈通りに、遺書を書き置いて、それと見せるように身辺整理などをして、皆が寝静まる頃自分も寝入ったふりをしてこっそり四条の邸を後にした。
この伊予法師は頼りになる男で、てきぱきと準備を整え、乗り物などもぬかりなく用意して、未明には山崎までたどり着いた。ここで暫く休憩を取って、そこから先は常の旅人が行き交う道は誰か見咎める人がいるかもしれないと、貴人が通るとは思いもかけない山道に足を踏み入れ、「白雲跡を埋み青嵐道を進めつつ(白い雲が旅人の足跡を埋め、青い風が吹く道を進みながら)」行くほどに、若君は慣れない旅に生きた心地もしなかったが、ようよう須磨の浦に辿り着いた。歌枕として名高い所なので海に浮かぶ月でも眺めていたいところではあるが、「誰かに見咎められたらいけません。」と伊予法師が制したので、惜しくはあるが衣の片袖を敷いて一人お休みになった。聞きなれぬ波の音がおどろおどろしく、枕近く聞こえてくる。
「源氏物語」の須磨の巻で光源氏が、「心づくしの秋風」といったのも思い起こされて、
秋風の心づくしの我が袖や昔に越ゆる須磨の浦波
(物思いに沈む私の袖に、須磨の浦波の秋風が昔から変わらず吹いていること
よ。)
と一人吟じてうとうとしていると、宰相が夢に現れた。ひどく衰弱して様子で、「このようにお訪ねいただいたる嬉しさは、この世を離れてもどうして忘れる事がありましょうか。」などとさめざめと泣いて、
磯枕心づくしの悲しさに波路分けつつ我も来にけり
(磯を枕として物思いする悲しさに、対岸の淡路島から波路を分けて私もやって来
ました。)
と言うか言わないかのうちに、「たった今淡路へ渡る舟が出るぞ。」と言う声にはっと目が覚めた。
「ああこれはどういうことか。」と思うが、辺りは出発の準備で騒がしくなってきたので、侍従も外に出て、舟に乗ろうとして暫く汀で佇んでいると、暁近い月が波の上に澄切った姿を見せて、それをも心細く感じられる。
あちらこちらに船が繋ぎ置かれているのも、「唯見江心秋月白」という白楽天が「琵琶行」で詠んだ情景もこのようなものかと思われた。やがて出港し、漕いでいくほどに岩屋という浦に着いた。
その7
そうそう、一方の都では、侍従が身投げをしたとの噂が立って、左大将は慌てふためいた。
「無益に身勝手な慰みごとをして人の非難を受けることだ。それにしても惜しい人を失ったことだ。」
と悲しんではいたが、世間の人々でこの殿を擁護する者は一人もいなかった。母上はこの書き置いてあった遺書を顔に押し当ててそのまま起き上がりもせず、中将も自分の子のように育ててきた侍従が死んでしまったのかと思うと、悔恨で悲嘆にくれるばかりであった。
一方侍従は岩屋に泊まって、かの人のいる所を早く訪ねたいのだが、「人目を忍ぶ身で、道案内をしてくれる人も知らずどうしたものだろうか。」などと躊躇している。京で「松帆の浦とやらいう所に渡った。」という噂を聞いていたので先ずその浦を尋ねた。「松帆の浦は絵島が磯の向いにある。」と人々が申すのを侍従は聞いて、「京極中納言藤原定家公が、『来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩身も焦がれつつ(来ない人を待って松帆の浦の夕凪で藻塩を焼くと我が身までも恋焦がれる思いである。)』と詠んだのもこの浦の事だろうか、身が焦がれてしまうというのももっともなことだ。」と思う。
さてその日はこの浦を尋ねて、ここかしこと立ち止まりつつ捜しながら灯が暮れていくと、時雨が荒々しく降り出して、波音高く打ち寄せる。浦は海士の家居ばかりで、宰相の住まいはどこともわからない。と、灯の光がほのかに見えて、それを目標にに行くと板葺きの堂があった。「海人の苫屋に宿るよりはここに泊めてもらったほうがいいだろう。」などと言って尋ねて行くと、近くに小さな庵がある。立ち寄って見ると、松の葉を囲炉裏にくすべて老僧が一人こちらに向かって座っているようだ。「ごめんください。」と言うと、干からびた声で、「誰ですか。」と言う。「私どもは摂津の国の者です。四国へ渡ろうとして、便りの舟に乗り遅れて困っているのです。この御堂の軒先にでも雨宿りさせたいただきたく思います。」などと言うと不審に思ったのだろう、出てきて灯明の光をかざして見ると、粗末な身なりに身をやつしてはいるけれども、侍従をただの者ではないと思ったのだろう、「それは御気の毒に。」と言って、庵の内へ呼び入れた。
もの寂しげに住んでいるようだ。達磨大師の画像が一幅掛けてあり、助老(老僧の使う座禅の時のひじ掛け)・蒲団(座禅用の円座)・麻の粗末な夜具などが置かれている。暫く世間話などをしながら、宰相の行方などを尋ねる機会をうかがったが、唐突に切り出すのも不躾だろうとなかなか言い出せない。
この僧は、若君をつくづくと見て、
「ちょっと変ですね、津の国とおっしゃいましたが都の御方ではございますまいか。実は私も昔は都の者でした。二十歳ばかりの年、人を殺める事があって、京に住みかねまして、やがて髻を切って江湖山林を浮かれ歩きながら、何年も過ごしてきましたが、どのような縁であったか、このように漁師の苫屋の隣に庵を結び、鴛鴦や鷗を友としながら三十余年を送ってまいりました。」
などと語るのもおもしろく、それをきっかけに、ここに流された人の事を尋ねると、
「松帆の浦にそのような人がいましたよ。この夏頃からこの島へ流されてきましたよ。」
と言う。
「詳しくお話しいただけますか。訳あって聞きたいのです。」
と言うと、
「その人は松帆の浦からこの庵まで頻繁にいらして、都の恋しさなどを語りあっていました。とある殿上人の事を、明けても暮れても恋しく思って泣き続け、その思いを私にも隠し隔てなく語ってくれましたが、その思いのせいでしょうか、気分が優れず病気となって、日々に重くなっていって、この庵へやって来ることもできなくなりました。付き添い看護する人もいず、不憫に思って、日を隔てずに出かけて行って看病しましたが、終に亡くなってしまいました。今日初七日になりました。煙になす(火葬する)ことも、この老僧がいたしました。」
と語った。侍従はこれを聞くや茫然自失となって、胸が熱くなりその場に倒れ臥して泣くばかりである。
この僧も、「なんともかんとも、それではあなたがたは宰相殿と縁ある方だったのですね。」などと言って、一緒に泣いたのである。
その8
しばらくして伊予法師が言った。
「今まではつつみ隠していましたが、かの人亡くなってしまった上は憚ることもないでしょう。この方こそ宰相殿が恋しく思って泣いたという殿上人です。このように卑しい山賎(やまがつ)の身なりをしているのも、道中の人目を忍んだからです。それにしても、このように看取りくださって、後の業まで執り行ってくださったご厚意は、いくら感謝申し上げても言い足りない程です。」
などと言う。老僧は、
「あの方は、今わの際に目を閉じながら、『ありがたい御志です。』とおっしゃって、小さな法華経や念珠なをくださいました。」
と言って取り出して見せた。都にいた時から平生手慣れて使っていたもので、見覚えもあり、侍従は目の前が真っ暗になる思いである。
また、細かに文字がしたためられて巻き固められ、表に「四条殿へ」と青侍への宛名が書かれた手紙があった。
「これも今わの際に、『いい伝手があったならば、これこれの所を訪ねさせてください 。』とおっしゃっていただいたものです。」と言う。「この手紙は、宛先を憚られて青侍にしたのでしょうが、きっとこの侍従の御方へのものでしょう。」と伊予法師が言うので、「ああ嬉しいことです、それならば確かに差し上げましたよ。」と言うので、開けて見ると、確かに岩倉の宰相が藤の侍従へ宛てたものであった。都を出てからこの島に暮らした様子、もう死がそこまで迫った来ていることなどが書きまとめられている。命が果てようとした際の朦朧とした中で書いたのだろうか、たどたどしい文字は鳥の足跡のように見える。
悔しきはやがて消ゆべき憂き身とも知らぬ別れの道芝の露
(すぐにも消えていくべきつらい身の上とも知らないであなたと別れた道芝の露の
ような私の命が悔しいことです。)
などと書かれていた。ありし夜にかの須磨で見た夢が今、思い合わせられて、とても悲しみが胸に迫る。
翌朝この僧にを導かれて松帆の浦に行き、先ずは、ここに来て以来住んでいた庵の様を見ると、惨めなほど倒れ傾いて、松の柱や竹の垣根もみな壊れかかっている。どのような思いでここで日々を過ごしたのかと思うとまた悲しい。
さて少し隔たって、松が一群れある所に簡素な墓があった。墓標の松が一本植えてあるのを、「これがお墓でございます。」と言うと、伊予法師も近寄って転び臥して泣き濡れた。かの晋の王褒が父の死に柏の樹の下で泣いてその涙の塩分で木を枯らしたとの故事ではないが、ここでも涙に枯れはしないかと思われる。
侍従はためらいがちにこの墓標の木に、歌を書き付けた。
遅れじの心も知らでほど遠く苔の下にや我を待つらむ
(あなたに死に遅れまいという私の心も知らないで遥か遠くの苔の下で私を待って
いるというのですか。)
そして、そのままこの海に身を投げようとするのを、伊予法師取り押さえて言った。
「宰相の事は、今は言っても甲斐ありません。もしお気持ちがあるならば、亡き跡を弔いなさいませ。あなた自身が亡くなったならば、後世へ罪障を負うことになりますよ。それにきっとお母上も深く御嘆きなさるでしょう。」
などと様々に説得するので、やむをえず身を投げる事はあきらめた。
「それならばせめて出家をしよう。」
と言い出す。これにも「御身をお大事にしないませ。」と制したけれど、制止を振り切って海に身を投じてしまいそうな様子であった。
今年十六になったばかり、花なら蕾、月なら山の端に出たばかりの可憐な容貌であったのに、泣く泣く御髪(みぐし)を剃り落として、墨染めの衣に身をやつしたのであった。まさに夢のような話である。
この世というものはなんと恨めしいものかと思われる。
伊予法師も墨の袖を、いっそう深い色にして侍従に伴って高野山の方へ行ったとかいう。その後の行方は誰も知らない。
原文
遠からぬ世の事にや侍りけん、四条わたりに中納言にて、右衛門の督掛けたる人なむ
おはしましける。中将殿とて御子一人ありて、さうざうしく思しけるに、ありありて児出で来給ひにけり。生ひ先見えて容貌(かたち)いと美しくものし給ひければ、限りなくかしづき給ふほどに、父の卿はかなくなり給ひぬ。*方便(たつき)なきやうにておはしけるに、中将の君*らうたき者にして十ばかりまでぞありける。
その頃、*横川に禅師の房とて、このおぢ(伯父?叔父?)になんおはしける、中将に申し給ふ。
「この若君、いたづらに生ひ出で給はんよりは、*山に上(のぼ)せて物習はし給へかし。」
など、*よりより勧め申されしかば、横川へぞ上せられける。
大方の学問にも和歌の道にも心を入れて、筆取ることもたどたどしからず、はかなきすさび事もつきづきしく、心ざま人に優れたりしかば、*一山のもてあそび、児・童子も睦まじきことに思ひしほどに、三年ばかりこの山に送りけるになむ。
かかれば、この母君、「久しく見ぬは悲し。」とて折々里へ呼ばせけるに、ある時禅師申されけるは、
「学問の方も聡く、賢き人なり。法師になして父の御跡をも訪はせ給へかし。」
など懇ろに語らひ申し給へば、
「可惜(あたら)、形を墨の袖にやつさんも情けなく、*八重立つ雲に交じりなむも心苦し。」
などのたまひて、うちとけたる答へもし給はねば、力なし。
かくて後は危ふくや思はれけん、京に住ません事を中将にも申し給ふに、つれづれの慰めにもとや思はれけん、同じ心にのたまへば、禅師もいかがはせんとて、泣く泣く京へぞ送りける。この児も、横川に住み着き給ひければ、寂しかりし山水にも名残多く、遊び伴ひし児・童にも離るる事なん悲しかりける。皆、京近きわたりまで送り来てぞ、余波(なごり)惜しみける。
さて、禅師立ち帰りて、年月手習ひなどして住み給ひし所を引き開けて見給へば、いと美しき手して、障子に書き付けらる。
*九重に立ち帰るとも年を経て慣れし深山の月は忘れじ
これを見て、禅師の君よりはじめて皆泣きにけり。
かくて後は、元服して、藤の侍従とぞ申しける。*上げ劣りもせず、いよいよ目驚くばかりの容貌にて物し給ひける。
(注)松帆物語=室町物語大成に拠った。多くは「松帆浦物語」。「嵯峨物語」には
「松帆の草子」とある。
方便なき=頼りとするところがない。
らうたき=可愛い。
横川=比叡山の三塔の一つ。禅師は母君の兄か。
よりより=折々。
山=比叡山。
一山のもてあそび=比叡山中の人々の賞玩の対象。アイドル。
八重立つ雲=幾重にも雲が重なって立つ。そのような山奥の比叡山。
九重=宮中、内裏。ここでは都、京の町のこと。
上げ劣り=元服して髪を上げて結った時に、かわいらしさがなくなり、以前より
劣って見える事。
十四になり給ひし春の頃とかよ、元立ち慣れし横川の法師、また京にも優なるをのこ、あまた来合ひて、
「北山の桜今なむ盛りなるよし人申すなり。侍従の君見給へかし。伴ひ奉らん。」
と口々言へば、*深山隠れの色香もことにゆかしき心地して、俄かに思ひ立ちぬ。道の程も人目つつましければ、わざとやつしてぞおはしける。
若き*どち駒並(な)めて道すがら眺め渡せば、遠き山の端そこはかとなく霞みつつ、野辺の景色青み渡り、芝生の中に名も知らぬ花ども、すみれに交じり色々咲きて、雲居の雲雀姿も見えず囀り合ひたる様ども言はんかたなし。
志す山はやや深く入る所にて、水の流れ岩のたたずまひも、写し絵を見るやうになん覚えける。うち吹く風にそことなく匂ひ来るに、人々*心あくがれて急ぎ登りつつ見れば、数知らぬ花ども枝も撓むまで開きつつ、*今日来ずばと見えたり。山隠れとも言はず都の方の人と見えて、あまた集い来て、木の本・岩隠れの*苔に群れ居つつ、歌詠み酒飲みし、遊びなど様々にぞ見えし。
侍従の君は花に眺め入りて居給へるに、花よりもこの君に目止(とど)めたる人あまたありて、従ひありくも*もの難しく覚えければ、「花には疎からで引き入りたる所もがな。」と願ひ求めつつ行くに、本堂の傍らに*院家(いんげ)にやあらん、檜皮の軒朽ち忍ぶ草所得顔にて、破(や)れたる御簾(みす)懸けたるあり。この連れたる人の中に知る便りありて、ここに暫しの宿りを構へたり。
短冊取り出だしうち吟じなどしけり。京より持たせたる*檜破子(ひわりご)・竹筒(ささえ)やうのもの、旅の賄ひはかなくしつつ遊ぶに、花の下にて初めより侍従の君に心をとどめて見えたる法師、様形(さまかたち)よろしき三十ばかりなるありて、この御簾の元まで慕ひ来て、花には心を止めずして、この君の面影に眺め入りたるなりけり。
なほ御簾の内へも*かけりこまほしき様のもの難しければ、連れたるをのこを*出だして言はせけるは、
「人に忍ぶ故ありて、かく*隠れ家求めたり。*狼藉なり。」
など荒々しくさへ制しければ、力なき様にて出でぬ。
しばしありて、十二三ばかりの童の美しく装束したるが、小さき花の枝に結び付けたるものを*案内も言はず、御簾の内へ差し入れぬ。取りて見れば、
夕霞立ち隔つとも花の陰さらぬ心を厭ひやはする
と清げなる手して書きたり。「返しし給へ。」とこの君に勧むれど、「恥づかし。」など言ひて傍らの人に譲るを、「情けなし。」など言ひ勧むれば、
*花に移るながめをおきて誰が方にさらぬ心のほどをわくらむ
とほのかに書きて出だし給へり。*これを見て限りなく嬉しく涙もこぼれ出でにけり。
さて、この法師の向後(ゆくへ)を使ひに問ひければ、深く隠しけるを、様々言はれて、童なれば、「岩倉の某の坊に、宰相の君といふ人にておはします。」と言ふ。「さてこの宰相、思ひのみを標にて尋ね寄らむ。」とぞ思ひける。
さて人々その夜は留まりぬ。この院の花ことに面白し。*紅白枝を交へたり。*半酔半醒すれば、げに遊ぶこと三日も事足るまじう覚えぬれど、京より迎への人あまた来ぬれば、返り見がちにて出でぬ。
(注)深山隠れ=山の奥深いところ。
どち=同じ仲間。どうし。
心あくがれて=うきうきして。
今日来ずば=今日来なければ盛りは過ぎてしまうだろう、散ってしまうだろう。
苔=室町物語大成では「苺」。校註日本文学大系に拠った。「いはがくれの苔の
上に並み居て、かはらけまゐる(源氏物語・若紫)」の用例あり。
もの難し=なんとなく厭わしい、嫌だ。
院家=大寺院に属する子院。門跡に次ぐ格式。
檜破子・竹筒=檜の薄板で作った弁当箱。上等なものとされた。竹筒は酒を入れ
たのであろう。
出だして言はせ=主語が侍従という事になるが、周囲が忖度して行ったのだろ
う。
隠れ家=あるいは「院家」を「隠家」に当てたのかもしれない。
狼藉=無礼。
案内=あない。取次ぎを乞うあいさつ。童の登場が唐突。
花に移る・・・=わかりづらい。「心を別く」は愛情の半分を他の人に移す、の
意。立ち去らずにじっと花を見ているあなたの心を差し置いて誰に愛情を裂こ
うとしましょうか、という意か。
これを見て=嬉しかったのは童か?法師か?法師と解する。
紅白枝を交へたり=突然変異種で一つの木に濃さの異なる花が咲く桜がある。そ
れか。
半酔半醒=半睡半醒は夢うつつ。酔いに任せてだらだら遊ぶことか。
さてかの宰相は、花の下にて見し面影身に添ひて、命も耐ふまじきほどになんなりにける。
ある時便りを求めて消息しける。
「過ぎにし折の花の下にて、見ずもあらぬ眺めより、また見に返り来ぬ魂はいつまで袖の中にとどめさせ給はん。ありしばかりのついでもまたいつかは。」
など細やかに書きて、
*花の紐解くる気色は見えずとも一夜は許せ木の本の山
返し、
木の本を尋ね訪ふとも数ならぬ垣根の花に心とめじな
かかることを便りにて、夜な夜な門に佇み、愁苦辛吟しけるを、やうやうあはれとや思ひけん、心解けゆく気色なれば、しばしば罷り通ひつつ、後には岩倉なる坊へも伴ひなどして慣れゆくままに心隔てず。この宰相障る事ありて、一二日見えぬ折はあやしう心細きまでなん*睦れける。
さて、この若君を思ひ懸けたる人、こなた彼方より花に付け紅葉に結びたる*玉梓(たまづさ)難しきまでぞ集ひ来にける。されど、返しよきほどにうちしつつ、この宰相に別くる心もなくて、*三年ばかり慣れにけり。
(注)花の紐=花の下紐。花の蕾。解けるに続き、つぼみが開くことを表現する。
睦れ=親しんでまつわりつく。親しみなつく。
玉梓=手紙。
三年ばかり=丸三年は長いか。足掛け三年ぐらい。
さてその頃、世を御心のままに治め給ひし太政大臣(おほきおとど)の御子、左大将殿の御前にて、*夏の雨静かに降りて日永き頃、世にある事打ち解けつつ人々申しけるついでに、この侍従の 容貌・心様類稀なるよし申し出でしかば、心動かせ給ひて*御消息たびたびあり。
宰相出で会ひて申しけるは、
「仰せ事なん忝く侍り。参らまほしきを、この頃*みだり心地に患ひて臥し暮らし侍り。いささかもよろしき暇あらば参りなむ。よき様に申させ給へ。」
とありしかば、しかじかのよし申す。
五六日ありて、また御使ひあり。この度は御文あり。
「『*吹く風の目に見ぬとかや』の古言も思ひ知られぬる心は分き給ふにや。*ねぬはなの苦しきよしもおぼつかなく、五月雨の晴れ間は心地も涼しくなり給ふならん。思ひ立ち給へかし。」
などありて、
*ほととぎす恨みやすらん待つことを君に移せる五月雨の頃
などあり。御返し、
五月雨の晴れ間もあらば君が辺りなどとは去らん山郭公
と聞こえて、なほ心地患はしき様いくたびも宰相申して、籠り居させたり。
さて、徒然と籠りをらむもいかがとて、ある時忍びてこの侍従を伴ひて岩倉へ行きしを、かの殿の人よく見て、御前にてしかじかの由ありのままに申しければ、「日頃のみだり心地はあらざりしことなり。」とて、怒らせ給ふに、「宰相法師の所行なり。憎し。」など異口同音に申し侍りしかば、やがて御使ひあり。
「患ひ給ふとありしは皆偽りなりけり。忍びありきし給ふなるは軽しめらるるなるべし。」
など恨み給ひて、兄の中将にしかじかの由懇ろにのたまひしかば、宰相にも言はず、装束引き繕ひ同じ車にてぞ参りける。御門差し入るより、玉輝きまばゆきまでぞ覚えける。人見えぬ方にて対面し給ふ。灯し火ほのかに、*空薫物(そらだきもの)燻り出でていと艶なり。
この人のまだ*かたなりなりし頃、殿上などにてほの見給ひし心地せしは、事の数にもあらず。*まほにも見まほしく覚え給へど、恥じらひたる様なれば、*心もとなく思すほどに、やがて御心とまりて、心に付くべき*遊びをし給ひつつ、片時去らず相ひ語らひ給ひける。御こころざしの*近優りは添ふべけれども、ただかの宰相の事なむ心に離るる折なく、めでたき御気色もうれしからず。心の通ひけるにや、常には夢にぞ見えぬる。
さて大将殿、この法師を深く憎しと思ほせば、近き世界に徘徊させじと怒り給ふをも知らで、思ひの催しけるにや、なほこの殿の辺り窺ひありきけるを、口さがなき者の御前にて様々申しければ、淡路の国へぞ追ひやらせ給ひける。
(注)夏の雨=「源氏物語・雨夜の品定め」を連想させる。
御消息=来訪を促す連絡。口頭である。
みだり心地=気分がすぐれない事。
吹く風の=「世の中はかくこそありけれ吹く風の目に見ぬ人も恋しかりけり(古
今集・475)」に拠る。男女の仲(ここでは男同士だが)はこういうものだ、
会ってもいないのに恋しく思われる、の意。
ねぬはなの=「苦し」の枕詞。
ほととぎす・・・=五月雨の頃はホトトギスの鳴き音を待つのが人々の美意識。
その対象を他の者に奪われたならホトトギスもさぞや恨んでいることだろう、
の意。
空薫物=来客のある際、香炉を隠し置き、また、別室に火取りを置いて、客室の
方を燻らせるためにたいた香。
かたなり=十分に成長していない、幼い。
まほ=直接向き合うこと。
遊び=どのような遊びをし、どのような「語らう」行為をしたのかは想像にゆだ
ねられる。「語らふ」は、①語る、相談する。②親しく交際する。③夫婦の約
束をする。④情交する。などの意味がある。
近勝り=遠くで見るよりも近くで見るほうが優って見える事。
心もとなく=じれったく。
これを聞くにも侍従は耐へ難く、「我ゆへ咎なき人の憂き目を見るらんも悲しく、かの島の波風をも共に聞かばや。」とぞ嘆かれける。互ひに一下りの消息も給(た)ぶべきやうなければ、おぼつかなし。
かの宰相都を別かるるとて、いかなる便りをか求めけん、文書きておこせたり。忍びて見れば、書き付けたる言の葉多し。
*流れ木と身はなりぬとも涙川君に*寄る瀬のある世なりせば
*そこはかとなく書きたり。
かかりければこの大将の御心も恨めしく、*情け後れて思へば、打ち解け奉る事もなし。果て果ては悩ましくて、*玉楼展簟の清風も心に付かずすさまじく、ひたぶるに*ながめがちにて衰へゆけば、かの人を思ふ故とは*知らせ給はで、物の怪にやとて祈りなどせさせ給へど、験あるべきならねば、*同じ様に患ひて弱るやうに物せられしかば、母君悲しみて様々に申して罷でさせ侍りぬ。
さて、かの岩倉に留まりゐたる伊予といふ法師を、忍びに呼び取りつつ、床近く候らはせて、
「かの宰相の、我が身ゆへ遠き島へと聞き*給ふれば悲しくて、かく心地も患ふなり。*そこにいかにまろを恨めしく思ひ給ふらん。」
と涙に咽びつつのたまへば、聞く心地いはんかたなく悲しくて、
「かく思はせ給ふこそ、よに類なく侍れ。なにかは恨み奉るべき。」
など言ひつつ夜も更けゆくに、なほ枕の元に引き寄せ、囁き給ふやうは、
「いかにもして宰相の居給へる島へ忍びて我を誘ひ給へ。聞こえありて罪に当たり侍らば、もろともにその島にて送らんこそ、願ひかなふ心地はせめ。」
とのたまへば、
「あはれに忝くは思ひ侍れど、まことに稚けなくおはします御心にてこそ、かくはのたまへ。かの淡路へ渡らせ給ひたらば、隠れも侍らじ。やがて大将殿聞かせ給はば、なほ憎しとてこれより勝る罪にも当たり侍るべし。御志あらば文書きて給へ。いかにも忍びて持ちて罷らん。」
と言ふに、なほ同じ様にうち嘆きつつのたまへば、あはれにも不思議にも覚えて、つくづくと案じ居たるが、思ふやう、「この宰相に我も遅れて心ならぬ世に永らふるも本意なし。また、この人のかくのたまふも否み難し。もとより惜しからぬ身なれば、世に聞こえありともいかがせん。さらば、伴ひて今一度対面せさせ奉らん。」と思ふ心あり。
さてこの法師申し侍るやう、
「*我が君を謀(たばか)り申すべきやうあり。大将殿へも御母上にも文書かせ給へ。罪なき人を我ゆへ遠き国へ遣はされたる恨めしさ、とにもかくにも世に心も止まり給はねば、身を投げ給ひたる由申させ給へ。由々しき事なれども、さも侍らば*正されも侍らじ。」
など*容体つきづきしく申せば、嬉しく思せどまた打ち返し、
「母の嘆き給ひて心地も患ひ給はばいかがせんなど、これのみぞ悲しき。」
とのたまへば、
「それは後に忍びて、御心一つに知らせ給はば慰め給ふべし。」
など言へば、「げにも。」と思ひつつ嬉しかりけり。
(注)流れ木=浮木。流人のたとえ。
寄る瀬=流れ着く浅瀬。転じて拠り所、よるべ。
そこはかとなく=勘気が侍従に及ぶのを恐れてぼんやりと書いたのか。
情け後れて=情愛に乏しい。思いやりがない。
玉楼展簟の清風=「玉楼展簟」という熟語は確認できない。簟は竹で作った筵で
夏に涼むために用いられた。「玉の御殿で竹筵を展べて清風に涼もうとして
も」の意か。
ながめがち=物思いがち。
知らせ給はで=二重敬語。主語は大将。かなり傲慢で鈍感。
同じ様に=以前と変わらず。
給ふれ=下二段活用なので謙譲語。
そこに=お前は。
我が君=左大将の事。なぜ「我が」君なのか。
正され=真偽を検証する事。そのような遺書を書けば疑われないだろう、とのこ
とだが、我々の感覚では逆に疑って調査検証するだろう。
容体つきづきしく=その場にふさわしい態度で。
大将殿よりは、絶えずおぼつかながらせ給へど、同じ様なる心地の由聞こえて過ぎゆくほどに、長月にもなりぬ。いとどもの心細く、ともすれば*露に争ふ涙降り落つ。
ある時、中将殿も*物詣でし給ひ人少ななる折、忍びて岩倉の伊予法師を召しに遣はしたれば、心を得て夜に紛れて来たり。かねて契り定め給ひてしやうに、文書き置き物*取りしたためなどしつつ、寝たるやうにてぞ忍び出で給ひける。
この法師甲斐甲斐しき者にて、事整へ乗り物など構へて、明けぬほどに*山崎までぞ来たりける。ここに暫し休めて、常の旅人の行き交ふ道は人見咎めぬべしとて、あらぬ方の山路にかかれば、*白雲跡を埋み青嵐道を進めつつ行くほどに、この若君慣らはぬ旅に生ける心地もせで、須磨の浦に着きぬ。名ある所なれば海上の月も眺めまほしけれど、「*人もこそ見咎むれ。」など伊予法師制しければ、心ならず*衣かたしきて寝給ひたれど、聞くも習はぬ波の音おどろおどろしく、枕に近し。
源氏の大将の、*心づくしの秋風とのたまひしも思ひ知られて、
秋風の心づくしの我が袖や*昔に越ゆる須磨の浦波
と独り言ちて少しうちまどろみたる夢に、この宰相あさまし気に衰へて、「かく尋ねおはしましたる嬉しさは、この世ならでもなどか。」などさめざめ泣きて、
磯枕心づくしの悲しさに波路分けつつ我も来にけり
と言ふともなきに、「ただ今淡路へ渡る舟なんある。」と言ふ声に驚きぬ。
あはれと思へど、物騒がしければ立ち出でつつ、舟に乗らむとて暫し汀にやすらふほどに、暁近き月波の上に澄み渡りて心細し。
*東船西船繋ぎ置きたるにも、「唯見江心秋月白」と楽天の詠ぜしもかかるにやと覚えたり。漕ぎゆくほどに*岩屋といふ浦に着きぬ。
(注)露に争ふ=露と競うかのように多くの涙が。
物詣で=神社仏閣への参拝。
取りしたため=あと片づけをする。整理する。
山崎=京都と大阪の間にある交通の要衝。
白雲跡を埋み青嵐道を進め=「白雲跡を埋んで往来の道も定かならず。青嵐夢を
破ってはその面影も見えざりけり。山にてはつひに尋ね逢はず、海の辺に着い
て尋ぬるに(平家物語・巻三・有王島下)」とある。有王が俊寛を鬼界が島に
尋ねる場面である。山路の間道を通って須磨の浦に着いた下りは発想が共通す
る。他に漢籍の典拠があるか。「山遠雲埋行客跡 松寒風破旅人夢(和漢朗詠
集・雑・雲)」も似た表現。
人もこそ見咎むれ=人が見咎めたら大変だ。
衣かたしき=衣の方袖を下に敷き、一人寝をする。
心づくしの秋=物思いをする秋。「源氏物語・須磨・心づくしの秋」は流適の光
源氏の憂愁を表現した名文として名高い。
昔に越ゆる=袖が昔に越えるのか、須磨の浦波が昔に越えるのか?いずれにして
もよくわからない。秋風が「源氏物語」の昔から変わらずに吹いていると解し
ておく。
東船西船=室町物語大成では、「アナタノ船コナタノ船」とルビがある。「東船
西舫悄無言 唯見江心秋月白(白居易・琵琶行)」を踏まえている。楽天は白
居易の事。静かな船着き場の月夜。
岩屋=淡路島北端の港。
まことや都には、侍従の身を投げたる聞こえありければ、大将殿慌て騒ぎ給ひつつ、
「益(やう)なきすさびわざして人の*嘆きをも負ひ、また惜(あ)たら様したる人をも失ひけるよ。」
と悲しみ給ひける。世の人もこの殿をよろしとも申さず。母上はこの書き置き給ひたる文を顔に引き当ててそのまま起き上がり給はず、中将もただ御子のやうにかしづき給ひし甲斐もなく見なし給へば、惜しう悲しうぞ思しける。
さて岩屋に泊まり給ひて、かの人のある所早く訪はまほしけれども、「慎ましく、案内も知らではいかが。」などためらふ。*松帆の浦とやらんに渡らせ給ふよし、京にて聞きしかば、先づその浦を尋ぬるに、絵島が磯の向ひなる由申すを、若君聞き給ひて、「*京極中納言の、『*焼くや藻塩の』と詠め給ひしもこの浦の事にや、身の焦がれぬるも理ぞかし。」と思ふ。
さてその日はこの浦を尋ねて、ここかしこに休みつつ暮るるほどに、時雨荒々しく降りて、浪の音高し。海士の家居のみにて、いづくをばかりとも覚えぬに、灯の光ほのかに見ゆ。それを標(しるべ)にて行けば板葺きの堂あり。「海人の苫屋に宿らんよりはここにこそ。」など言ひて尋ね寄るに、傍らに小庵あり。立ち寄りて見れば、松の葉*ふすべて老僧一人向かひ居たるなるべし。「*案内申さん。」と言へば、からびたる声にて、「誰ぞ。」と言ふ。「これは津の国の方の者なり。四国へ渡らむとするに、便りの舟に遅れて惑ひ侍るなり。この御堂の傍らに雨宿りせまほしく侍るなり。」など言へば怪しくや覚えけん、立ち出でて灯明の光を見るに、やつしたれどもこの若君をただならずや見けん、「あな愛ほし。」など言ひて、庵の内へ呼び入れぬ。
あはれに住みなしたり。*達磨大師の画像一幅掛けて、助老・蒲団・麻の衾ばかりうち置きたり。暫し物語などしつつ、かの人の向後(ゆくへ)問はまほしけれど、うちつけなればうち出でず。
この僧、若君をつくづくと見て、
「怪し、都方の人にてぞおはすらん。我も昔都の者なり。二十歳ばかりの年、人を過つことありて、京にも住みかね侍りしかば、やがて髻切りて*江湖山林に浮かれありきつつ、年経侍りけるに、いかなる縁かかかる漁屋の隣を占め、紫鴛白鷗を友としつつ、三十余年送り侍りぬる。」
など語るもあはれなれば、それを便りにて、この流され人の事を問ひければ、
「あの松帆の浦にさる人侍りし。この夏頃よりこの島へ移り給ひしなり。」
と言ふ。
「詳しく語り給へ。聞かまほしき故あり。」
と言へば、
「松帆の浦よりこの庵までは常に渡り給ひつつ、都の方の恋しさなど語り給ひけるが、殿上人の御事とて、明け暮れ恋ひ泣き給うて、心に思ふ事をば隔て残さず、語り給ひしや、その思ひにや侍りけん、心地患ひ侍りしが、日々に重り給ひて、この庵へも渡り給はず。付き添ひ侍る人も見えねば、あはれに見侍りて、日を隔てず罷り扱ひしほどに、終に亡くなり給ひぬ。今日七日になんなり給ふ。煙になし侍ることも、この僧し侍りし。」
と語るに、聞く心地ものも覚えず、うつぶし臥して泣き焦がれぬ。
この僧、「いかにいかに、さては縁にてこそおはすらめ。」など言ひて、我もうち泣きけり。
(注)まことや=思い出した時に使う言葉。そうそう。そういえば。草子地なのか、訳
しづらい。
嘆き=日本文学大系では、「難き」と読んでいる。非難に近い意味か。
甲斐もなく=死ぬこと。
松帆=室町物語大成「松本」。ほ(本の変体仮名)を、本と翻刻したのだろう。
岩屋の浦の古称ともいう。微妙に違うのか。歌枕。絵島が磯も歌枕。今に残る
景勝地。淡路島の北東端、やや都へ近い。
京極中納言=藤原定家。百人一首に、「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩
身も焦がれつつ」とある。
ふすべ=くすべる。いぶす。
案内申さん=挨拶。ごめんください。
達磨大師、助老、蒲団=達磨大師は禅宗の祖。助老は老僧が座禅をする時ひじを
掛けて休む道具。蒲団は蒲の葉で編んだ座禅用の円座。禅僧であることがわか
る。
江湖山林=川や湖(の禅寺)、山や林。「山林に交わる」は出家する事。都を離
れた所。
ややありて伊予法師申しける。
「今まではつつみ侍れども、かの人失せ給ひぬる上は、世にはばかりもなし。これこそ恋ひ泣き給ひしとのたまふ殿上人よ。かくあやしき山賎になし奉るも、道のほどの人目を忍ぶ故なり。さるにても、しか扱ひ給ひて後の事などまでしたため給ひける、御志、言の葉足るまじ。」
など言ふ。老僧言ひけるは、
「かの人、今はの閉じ目に、『志のほどありがたし。』とのたまひて、小さき法華経・念珠など賜はせける。」
とて取り出でて見す。平生手慣れ給ひし物どもなれば、いよいよ目もくるるばかるなり。
また、巻き固めて細かにしたためたる文の上に四条殿へとて、*青侍の名書きたるあり。
「これも今はの際に、『よき便りあらばしかじか訪ねて奉れ 。』とのたまひし。」と言ふ。「この文こそこの御方へなれ。」と言へば、「あな嬉し、さらば確かに奉り侍り。」と言ふ時、開きて見るに、岩倉の人の侍従の方へなるべし。都を出でしよりこの島に住みし有様、今はの際近き様など書き集めたる、*鳥の跡のやうに見ゆ。
悔しきはやがて消ゆべき憂き身とも知らぬ別れの道芝の露
などやうにぞ侍るける。ありし夜かの*須磨にての夢も今ぞ思ひ合はせられていとどあはれなり。
翌朝(つとめて)この僧を導(しるべ)にて松帆の浦へ行きて、まづ、このほど住み給ひし庵の様を見れば、あさましげに*よろほひ傾きて、松の柱・竹の垣も皆朽ちゆく様なり。いかでここに月日を過ぐし給ひけんと思ふも悲し。
さて少し隔たりて、松の一群あるところにおろそかなる塚あり。しるしの松一本植えたるを、「これにぞ侍る。」と申せば、立ち寄り転(まろ)び臥してぞ、伊予法師も泣きける。かの*王褒の柏樹ならねども、これも涙に枯れやしなましとぞ覚えける。
ややためらひてこのしるしの木に、若君書き付け給ひける。
遅れじの心も知らでほど遠く苔の下にや我を待つらむ
とて、やがてこの海に身を投げ給はんとするを、伊予法師取り留め奉りて、申しけるは、
「宰相の事、今は言ふ甲斐なし。御志侍らば、跡を訪はせ給へ。御身を失はせ給はば、罪をこそ負ほせ給はめ。また、御母上の御嘆き浅かるべしや。」
など様々申しければ、力なくて本意も遂げ給はず。
「さらば*様をだに変へん。」
とのたまふ。それも「惜(あた)ら御身なり。」と制しけれど、強ひて身も投げつべき様のし給へば、今年十六になり給ふ、容貌は蕾める花、山の端出づる月の様し給へる御髪(みぐし)を泣く泣く剃り落として、墨の衣にやつしたるも夢のやうなり。
恨めしきものは*この世なりけりとぞ覚ゆる。
伊予法師も墨の袖、いとど*色深くなしつつ伴ひ奉りて高野山の方へや行きけむ、後は知らずかし。(了)
(注)青侍=若い使用人。直接侍従に宛てたのでは届かないと思ったのであろう。四条
殿は、侍従や中将の邸。
鳥の跡=筆跡がたどたどしい様子。
よろほひ=倒れかかる。
王褒=「蒙求和歌第11ー8」によると、晋の王褒は父の死に涙し、墓に植えて
あった松柏が枯れたという。
様をだに変へん=出家しよう。
この世=悲劇が、現世の業に収斂されるのは、筆者の価値観なのか、当時の共通
認識なのか。左大将はさほど糾弾されず、仏教・儒教の倫理的判断もない。
「世」を恋愛と捉えるとすっきりするが、「この世」を男女の仲とする用例は
あるだろうか。
色深く=信心の度合いを墨染めの濃さで表す。いっそう信心を深くして。