religionsloveの日記

室町物語です。

鳥部山物語②ーリリジョンズラブ6ー

その2

 民部は稚児の姿を遠目にほのかに見だけだで、すっかり心を奪われた。花見も十分堪能し、さあ帰ろうかとなっても、花ならぬ稚児をのみうっとりと見惚れ続けている。これでは一緒に来た人々も、さすがに気が付いて言い出すかもしれない、それも思慮に足りないことだと、心に秘めて宿所へと帰った。

 しかしそれ以来、稚児の面影ばかりが心に浮かんで、昼は終日(ひねもす)夜は通夜(よもすがら)嘆き明かして、今は心もみだれ髪のように乱れ、万葉集の「恋草を力車に七車積みて恋ふらく吾が心から」ではないが、言っても言っても言い足りない恋心は、恋草を七台の力車に積んでも積み足りない程に募るのであった。車は巡る、ならば私もあの稚児に巡り会うこともあるかもと、確たる手掛かりもないのに、京の町をくまなくさすらい歩いて捜したが、恋焦がれる思いも、海人の乗り捨てた捨て舟を一人掉さして漕ぐようなもので、どこぞと教えてくれるよすがもないので、毎日毎日空しく宿所へ帰るのであった。 

 朱雀大路には、三条から九条まで東西に坊門がある。その四条坊門の辺りを通り過ぎた時、名のある公卿の住む家と見えて、古びた木立ちが奥深く繁り、どことなく心魅かれる邸宅があった。思わず門近くまで近寄って内を窺うと、梅の折り枝の蝶や鳥が飛び違っている模様の風雅な水干を着た、類なき美貌の稚児が散り過ぎた花の梢をつくづくと眺めて歌を口ずさんでいる。

  移ろひてあらぬ色香に衰へぬ花も盛りは短かかりけり

  (時は移りあられもない色や香りに衰えてしまった。花も盛りは短いものだな

  あ。)

 高欄にそっと寄りかかって頬杖をついている姿に、民部は肌寒くなるほどの感動を覚えるのであった。目を凝らせば、それは紛れもない、せめて夢にでもと恋い慕っていた北山の花のえにしのあの稚児であった。民部は高鳴る動悸を抑えながらさらに近寄ると、気配を察したのか、誰かに見られているかもしれないと、そそくさと部屋に入ってしまった。これは何という僥倖だと、暫くはそこに立ち尽くしていたが、新古今集の「忘れてはうちなげかるるゆふべかなわれのみ知りてすぐる月日を」ではないが、相手の気付いてくれない恋心に、夕暮れの鐘の響きもつれなく聞こえ、日もとっぷりと暮れていつまでもそうしてもいられず、不案内な都の道を、心乱れてさまよいながらどうにか宿所へ戻ったのだった。

 それ以来、民部は心の病に床に臥し、和尚にお仕えすることもままならぬようになった。和尚も心配して急ぎ薬などを手配したが、全くその効果もない。

 とある日、五月雨がしめやかに降り続けるもの寂しい夜に、この民部と共に長年和尚にお仕えしている者が、病に臥す枕元に近寄って、このように語った。

 「以前、北山での花の夕間暮れにほのかに見た美しい稚児、その月影が入る空のように、その人がお入りになったお屋敷を詳しく知っている者がございましたぞ。それによると某の中納言とか申す方の御子という事です。」

 民部はぼんやりとした頭で聞いていたが、聞くや重い枕をもたげて、

 「どうだろうか、その人に言い寄る手立てはないものでしょうか。」

 と尋ねると、

 「そうなんです。そのお住まいになっている東に、垣根は野苺が生えて、軒端にはしのぶ草が繁っていて侘しげに住みなしている、ささやかな家を通り過ぎがてらそっと見入ると、その家の主でしょう、六十ほどの老人がおりました。埋火に手の甲をかざして腰をかがめているのをよくよく見ると、以前から見知った人でした。近寄って、昔の思い出などを語らっているうちに、かの君のことなども問わず語りに出てきて、どうもごく親しく隣づきあいをしているようです。御病状も快方に向かったならば、かの家へお行きなさってしばらくの間、仮に逗留なさったならば、玉の簾の間を通って風のように、あなたの心をお伝えすることもきっとできるでしょう。」

 などと仕向けると、民部も大きくうなずき、笑みを浮かべていると、これも和尚に親しく使えている同朋の式部という者がやって来て、

 「御病気はいかがですか。このように寝込んでばかりでは、気も疲れひどく心もしぼんでしまいますよ。どこでもいいのです、しかるべき家をひとつ求めてそこに逗留して気を紛らわしなさい。」

 などと気の置けない語り口で勧める。折にかない、うれしく有難いとは思うが、興奮して浮き立つのもいかがかと、さりげなく振る舞い、

 「そうなんです。自分でもそうは思うのですが、和尚様がどのようにお考えになっていなさるか。」

 と眉をだるそうにひそめて言うと、

 「あなたを案じている和尚様の事だから、どうして不快に思いなさるか。一つ私から申し上げてみましょう。」

 と即座に座を離れると、まもなくやって来て、

 「おおよその事を申し上げましたところ、民部卿の御心に任そうとおっしゃいなさいました。早々にも誰かにお宿の手配をさしなさいませ。」

 と親切に語って出て行った。

 

原文

 民部、ほのかに見てしより、そぞろに心惑ひて、かへさの後も慕はしきまでなむ見惚れたるを、伴ふ人々も目咎むる程なれば、さすがに人の言ひ思はむも浅はかなればと心に籠めて、立ち帰りしより面影にのみ覚えて、昼はひめもす(終日=ひねもす)、夜はすがらに嘆き明かし、今は心もみだれ髪の、言ふにも余る恋草は、積むとも尽きぬ*七車の、また巡り会う事もやと、至らぬ隈もなく惑ひありきて求むれど、ひとり*こがるる捨て舟の掉さして、いづこと*教ふるよすがもなければ、空しく立ち帰りけるが、四条の*坊門とかやうち過ぐるに、公卿の住む家と見えて、奥深く木立ちもの古り何となくなつかしく覚えければ、門の傍らに差し入りたるに、形いと類なき児の、梅の折り枝に蝶鳥飛び違ひ*唐めきたるをうち着て、散り過ぎたる花の梢をつくづくと眺めて、

  移ろひてあらぬ色香に衰へぬ花も盛りは短かかりけり

 と口ずさみながら、そばなる高欄に、そと寄りかかりて面杖(つらづえ)つき給へる様、肌寒きまでなむ覚えける。つくづくとうちまもれば、夢にもせめてと恋ひ慕ひし北山の花の縁(えにし)、つゆまがふべくもあらず。胸うち騒ぎて、なほ立ち寄りければ、見る人ありと苦しげにて、やがて紛れ入りぬ。

 これやいかにと暫しは立ちやすらひ侍れど、*我のみ知れる夕暮れの鐘の響きもつれなくて、はや日も暮れぬれば、いつまでかくてもと、*辿る辿るうち帰りぬ。

 今はひたすら病の床に臥して、和尚に仕へものする事も怠り給ふれば、急ぎ薬の事なんどとかく沙汰し侍れど、いささかも験(しるし)なし。雨しめやかに降り暮らしたる夜のいともの寂しきに、*年頃付き従ひし者なむありしが、悩める枕に差し寄り聞こえけるは、「過ぎにし花の夕間暮れ、ほのかに影を見る*月の入り給へる空、詳しく知れる者侍り。某の中納言とかや言へる人の御子なり。」と漫ろに語るをうち聞きて、重き枕をもたげ、「いかにその人の事言ひ寄るべきよすがや*ある。」と尋ねければ、「さればとよ、その住み給ふ東にささやかなる家の垣に*苺むし、軒は*忍交りに生い茂りてもの侘しげなるを、過ぎがてにそと身入れ侍れば、主六十(むそじ)余りにもや侍らむ、*埋火の元に手の裏うち返し傾き居たるをよくよく見ればはやうより知れる人にてなむ侍る。差し寄りて来し方の事どもうち語らひしに、かの君の事まで問はず語りし出でて、いと懇ろにものし侍るぞや。御悩みも怠り給ふ程は、暫しかれが家に*立ち越え給ひて、仮にも住ませ給はば、*玉だれの隙にも御心を伝へ給ふ程の事はなどかなからむ。」と*唆し侍れば、民部うちうなづき微笑みてゐたる所に、これも和尚に親しく仕へものする*同朋の訪ひ来て、「悩みいかが侍る。かくのみ籠りては、気も疲れいとど心も*結ぼふれなむに、いづくにもあれさるべき屋、ひとつ求めて心をも慰め給へかし。」となれても聞こえければ、うれしとは聞き居たれど、*あはだれたるわざはいかにと、おいらかにもてなし、「さればよ。自らもさは思ひながら、和尚の御心の図り難きに。」と、まみいとたゆげなれば、「いかで悪しくは思し給はむ。聞こえ上げ侍らむ。」とてそのまま立ち出でぬ。

 とばかりありてまた詣で来たり。「あらましの事聞こえ侍れば、そこの心に任すべき由のたまひ侍るぞ。早く人して宿の事ものし給へ。」といと睦まじく語らひ置きて出でぬ。

 

(注)七車=「恋草を力車に七車積みて恋ふらく吾が心から(万葉集・四・69

    4)」。「恋草」は恋心。恋の草が車七台一杯になる程積もったという事。

   こがるる=「恋に焦がれる」と「捨て舟を漕ぐ」をかける。海人の捨て舟を漕ぐ

    とはあてのないことのたとえ。

   教ふる=原文「をしゆる」。

   坊門=まちの門。平安京では朱雀大路に面して、三条以下九条までの各房ごとに

    東西十四門が設けられていた。また、坊門のあった小路を坊門小路と言い、通

    りを指すこともある。

   唐めきたる=異国風の。平凡ではない、風雅な。

   我のみ知れる=忘れてはうちなげかるるゆふべかなわれのみ知りてすぐる月日を

    (新古今・恋一・1035・式子内親王)を踏まえるか。相手は気付いていない片

    思いの恋心を言う。別に典拠があるかもしれない。

   辿る辿る=迷い尋ねて行く様。

   年頃付き従ひし者=年頃というのだから、武蔵の国にいた時から和尚に仕えてい

    た者だろう。会話の内容から民部との主従関係とは思われない。友人として一

    緒に北山に行った一人だろう。その者が藤の弁の東隣の住人と旧知の間柄とは

    どういう状況かわからない。

   月=稚児を指す。

   ある=原文「あり」。

   苺=野いちご、木いちごは古くから食されていたようであり、「枕草子」にも用

    例はあるが、垣根に苺が生えているという用例は見ていない。校註日本文学大

    系では、「苔むし」としている。

   忍=しのぶ草、または軒しのぶ。荒れた庭や門の象徴。しのぶ草は秋のもの。し

    のぶ草から作った吊りしのぶなら夏だが、時代が下る。

   埋火=灰に中に埋めた炭火。冬のものであろう。季節がわからない。

   立ち越え=出かける。

   同朋=「続群書類従本」「続史籍集覧本」「校註日本文学大系本」では「式部と

    いふもの」。事情を知って助言したというより、たまたまの助言が状況にぴっ

    たりあったと解したい。

   結ぼふれ=気がめいる。

   あはだれたる=未詳。性急な様、興奮する様を言うか。

鳥部山物語①ーリリジョンズラブ6ー

 

その1

 この世はなんと無常なものであろうか。

 武蔵の国の片隅に、とある精舎があり、多くの学僧が仏道に励んでいた。その司である某の和尚と申す方の弟子に、民部卿という者がいた。この民部は容色は端正で、学道への志も深く、仏典だけではなく、史記など漢籍の難しい経巻をも読みこなし、和尚も頼もしく思って常に側近く召し使っていた。常々、松吹く風に心ときめかし、谷を流れる水の音に心を慰めながら、深い仏法の淵源を尋ね求め、窓には蛍を集め飼い、枝には雪を積み慣らし、その蛍雪で学びにいそしんでいた。周囲の人々は、その才気でいずれは法灯を掲げてこの世の闇を照らす高僧にになるだろうともてはやしていた。

 その頃、九重(宮中)では何とかいう御修法があって、諸国から高僧たちが集い参内する事があった。この和尚もその数に入って、召されて上京することになった。精舎こぞって大騒ぎで旅の準備を整え、夏の初めに都へ、向かった。当然お気に入りの民部も同道する事になったのである。

 武蔵野は、初夏の木々の梢も青々と繁り、庭の千草も花の色を添えて、とても涼し気な宵の間の三日月もすぐに草場に沈み、古今集の「紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」ではないが、余情がしみじみと感じられる。民部が出立の後の事などを何くれと同宿に託しているうちに、夏の短夜は浮き枕で休む間もなく、ほんのうたた寝するばかりで夢だけを残して夜はすっかり明け、旅立ちということになった。

 東路の旅は十日余りで都に着く。

 乱世といい、荒廃しているとはいってもやはり都、九重の歳月を重ねた荘厳さは、民部の目には神々しく映った。御修法は数日で終わったが、和尚はすぐに帰国する様子もなく都で月日を送っているうちにその年も改まった。空はくまなくうららかに晴れ渡り、雪間からは青んだ草が萌え出でて、民部の心も自然とのびのびする。まして田舎育ちの身には玉を敷き詰めたような都の豪壮な家屋敷は、庭園をはじめとして見どころ多く磨き立ててあり、詳しく説明しようにも、言葉を尽くすことができない程であった。

 とある日、都の四方の山々の春霞が晴れていく頃、民部は「そういえばまだ名高い桜の名所も見ていないなあ。」と思い立って、おなじく花見をしたいと思っていた同宿たちと連れ立って、北山の方を目指して出かけた。花見の人出でごった返して、老若貴賤が色とりどりの粧いで行き交っている。その中で、傍らの桜の花陰に寄せてひときわ鮮やかな牛車が停められていた。付き従っている下僕たちが近寄って、「とても趣深い花の様子を御覧なさいませ。下草も菫交じりでゆかしく咲いていますよ。」などと車の中に語りかける。その声に促されるように車から降りた稚児は、年の程は十六には足りぬほどで、色々に染め分けた衣を柔らかく着こなして桜を眺めている様態・髪型・後ろ姿など、この世の人とも思われない程で、艶やかな様子は計り知れないほど美しい。

原文

 とにかくに、常ならぬものはこの世なり。

 ここに、先(さい)つ頃武蔵の国の*片方(かたへ)に、物学ぶ*精舎(さうざ)なむありけり。その司(つかさ)某の和尚とかや聞こえし人の御弟子に、民部卿と言ひしは、容色いと清げに心の根ざし深く、我が家のことならぬ、史記などやうの難き巻巻をだに方々に通はし読み聞こえ給ふれば、こと人よりも*すくよかに思し給ひ、傍ら近く召されて、年頃仕え奉りぬ。

 常はただ松風に眠りを覚まし、谷水に心を遣りて、*深き法の水上を訪ね、窓の蛍を睦び、枝の雪を慣らして、法の灯し火を掲げつべき*さきらはあればとて、片方の人もいと*もてなすなるべし。

 さればその頃、*九重になにの*御修法(みしほ)かありて、国々より貴き僧たちの参り集ふことなむ侍りける。この和尚もその数に召されて上り給ふべきに定まりければ、上・中・下、旅装ひとてののしりあへり。頃は夏立つ初めなれば、木々の梢も繁りあひ、庭の千草も色添へて、いと涼し気なる宵の間の月も、やがて草葉に隠れ、武蔵野の名残り覚えて、*紫のゆかりあれば、後のことなど何くれと言ひこしらへぬるうちに、短き夜半の浮き枕、結ぶともなきうたた寝の、夢を残して明け離れむとする頃、あずまの空を立ちて、日数十日余りに都になむ着きぬ。

 何事も衰へたる世とはいへど、なほ九重の*神さびたる様こそこよなうめでたけれ。かくて程経ぬれば、御祈りの事は果てぬれど、なほ帰るほども*ゆるぎなければ、その事ともなく月日を送りけるほどに年も返りぬ。

 空の気色名残りなく、うららかに雪の間の草も青み出でて、自づから人の心ものびらかに、まいて玉を敷ける*御方々は、庭より始めて見どころ多く、磨き増し給へる有様、*まねびたてむも言の葉足るまじくなむ。

 いつしか都近き四方山の端、霞の余所になりゆく頃は、まだ見ぬ花も面影に立ちて、同じ心の友どちうち連れ、*北山の方へと志しける道の程に、老いたる・若き・貴き・賎しき、行き来る袖も色めき合へる中に、*さはやかなる車片方の木陰に寄せて、付き従ふ男(をのこ)なんど差し寄りつつ、「いとをかしき花の気色御覧ぜよ。菫交じりの草もなつかしく。」なんど聞こえければ、下り給へる粧ひ、年の程まだ*二八にも足り給はぬほどなるが、色々に染め分けたる衣いとなよやかに着なして、眺め給へる様体、*頭付き後ろ手なんどこの世の人とも思はれず、艶やかなる様計りなし。

 

(注)片方=場所。田舎。

   精舎=寺院。

   すくよかに=壮健で頼もしく。

   深き法の水上=仏法の教義の源泉。

   さきら=才気。

   もてなす=もてはやす。

   九重=宮中。内裏。または都。

   御修法=国家または個人のために僧を呼んで密教の修法を行う法会。宮中では正

    月に真言院の御修法を行うが、季節的にそれとは異なる。

   紫のゆかり=「紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(古今集

    雑上}」による。武蔵野の情景に後ろ髪引かれる思いがあったのか。

   神さびたる=古色があり荘厳な。

   ゆるぎなければ=動きがない。帰る気配がない。

   御方々=家々。

   まねびたてむ=見聞した物事の有様を詳しく言い立てる。

   北山=京都北部の山々。

   さはやか=鮮やかで美しい、の意か。

   二八=十六歳。

   頭付き後ろ手=髪型や後ろ姿。

   

嵯峨物語(全編)ーリリジョンズラブ5ー

序文 

 およそ男色の道の長い歴史を繙くと、西域(天竺)・中華・本朝に至るまで盛んに行われていたいたようである。

 仏陀の説くところでは、糞門を犯し、口門を犯すことは邪な行為として、男色を非道と名付け、功徳円満経には末世の比丘は小児を愛する罪によって五百世の間、悪趣(地獄・餓鬼・畜生道)に転生し続けるとの仏の戒めが書いてある。

 しかし、難陀は花のごとく端麗で、文珠は月に似て怜悧であった。阿難は美しい侍者で、世尊も寵愛しなさった。摩登伽女が呪術で籠絡しようとしたという言い伝えもまことであろうか、誰もが美男に心魅かれることは理(ことわり)だと思われる。

 提婆達多は幼な子に変化(へんげ)して阿闍世太子に取り入って、膝に乗っては接吻しては抱きつき、太子を弄んで虜にし、唆して太子の父王頻婆娑羅を殺させということである。

 さて、中華では、東周春秋の宋に宋朝という公子が容貌の麗しさによって世の難を免れたという。

 老成した有徳の者もこの道に迷うといい、「男色は老いを破る(男色は老成したものをも乱れさせる)」と戦国策にも見える。

 であるから、剛毅勇猛であった漢の高祖劉邦も籍孺という少年に惑わされて政事を顧みず、二代恵帝は婉媚な閎孺を愛して常に起臥を共にした。男が宝石をちりばめた帯を佩き、白粉を粧うになったのもこの籍孺・閎孺の時に起こった風習であった。五代文帝は黄頭郎(船頭)であった鄧通の衣の裾が浮いて美しい尻が見えたのがきっかけで寵愛に及び、慈しむにいとまなかったという。

 その昔、弄児(慰み者の稚児)と呼ばれた金日磾の二人の子、金賞と金建は天子八代昭帝の首にまたがって遊んだ。韓嫣、李延年も七代武帝の寵愛を受けて天下に時めいた。何平叔の汗は白粉よりも白く肌は透きとおるようで、美男子潘安仁が車で出かけると、彼を愛する者(女性?男性?)たちが投げ込む果物で車はいっぱいになったという。この衆道は世世を経ても絶えることはないのである。

 詩人でも、韓昌黎(韓愈)は「酔留東野」という詩で、「我願身為雲 東野変為竜」と親友に栄あるを願い、蘇東坡が恋慕して追いかけた美少年李節推は風水洞で東坡を待ち、黄余章(黄庭堅)は「次韻答邢惇夫」という詩で「邢子好少年 如世有源水」と邢惇夫(邢居実)をほめたたえた、というようにこの道の例は枚挙にいとまない。

 西域・中華でこの道を尊び敬うことは以上の通りだが、本朝でも昔から伝わる中で、特に嵯峨天皇の御時には盛んであったという。

 その御宇にはこの道の師である弘法大師空海がを中華より伝え、その法を承けた弟子の 真雅阿闍梨が「思ひ出づるときはの山の岩つつじいはねばこそあれ恋しきものを(思い出す時は《常盤の山の岩躑躅の岩根ではないが》、口に出して言わないけれど恋しいことよ)」と詠んだのは、

在五中将在原業平を恋しく思って贈った歌だということである。言うも畏れ多いが、北野の天神菅原道真公もその仏道の師、尊意僧正の情けは深かったという。竹生島童子は松室上人、仲算已講が愛したというし、書写上人性空の侍童乙若は衣を無熱池に洗った(?)という。平経正仁和寺の稚児の時、琵琶の名器「青山」を師の覚性から授かったといい、舎那王源義経は僧正が谷で契った天狗僧正に剣術を習ったという。

 物語では、「秋の夜の長物語」では、瞻西は観音の化身である稚児によって道心を満たし、「松帆の草子」では少年藤侍従の風流な美が綴られている。

 この道は法師の手によるもので、世間の人は与かり知らないことだと思うかもしれないが、朋友の道でもあるので、人倫の五典に漏れるものではない。その匂いは蘭のかぐわしさに喩えられ、その契りを金石の固さに倣らえ、その心は膠漆(びゅうしつ、にかわやうるし)の堅きに比較され、その情は劉備諸葛孔明との水魚の思いに例えられ、その誓いは鋭い砥石のような山、帯のように長く続く川によそえられる。二心なくこの道理を守ることは素晴らしいことではないか。

 鎌倉の武衛(源頼朝)は大友能直を寵愛して左近将監の官職に推薦し、等持院殿(足利尊氏)は寵愛の童子に重宝の太刀を賜ったという。

 遠く西域中華から、近く本朝まで美少年はもてはやされ大切に扱われる。太古、黄帝は牧馬の童子に出会い、願って天下を治める術を聞いたという。この童子のような聖性が少年にはあるのであろう。それゆえ愛され続けられるのだ。そうはいっても、弥子瑕が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分けて一緒にむつまじく食べあっていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたと罰せられたという故事もある。寵あるからといって驕慢になってはいけない。この戒めを少年よ、忘れてはいけない。

 

本文

 近来の人の書きなさった文章を見ると、 男色があることは、西域・中華・本朝どの人々も漏れなく言っています。その文章にあるように、この道はこの道は世々を経て絶えることはないので、人が知らない思い草のような思いの種も、葉の末に結ぶ露のように、言葉の端々にかこつけて皆が物語にすることももっともなことでしょう。

 という訳で、最近ある人のおっしゃった事で、この道のあわれだなあと思われたことを、筆に任せて走り書きに書きつけることにしました。

 

 紀中将康則は中納言康直の御子でした。伝え聞きますと、ごく幼いころよりこの上なく眉目も容貌も秀麗であり、他の人にとってはそのような外見は本望だと思うのでしょうが、この方は、学才は非常に高く、学道への志は深くて、日本・中国の故実にも親しみ、古今の事情に関心を寄せて学問に励んでいたので、世間一般の軽佻浮薄な風潮には全く心を向けませんでした。そのようなわけで人々は、この君の行く末は並々ではなかろうと噂し合ったのでした。

 童名は松寿君と申しました。人の見聞も世間の評判も一方ならぬもので、父母もこの子の生い先を、月や星を見るように頼もしく思って暮らしていたのでした。

 十三歳になった年です。

 春浅いある夜、何ということなく夜が更けに人々が紀邸に参り集まったことがありました。折から吹く風が、どこからともなく梅の香を運んで人々の袖の辺りに馥郁たる香りが漂ってきました。松寿君は、「これは何とも趣深い事であろう。春がこのように過ぎていくのにも気づかないで、ぼんやり暮らしていく人がいるかもしれない。」と思って、御自ら御簾を掲げて、庭の景色を人々に見せなさったのでした。春の朧月は風情ある様に浮かび、夜目にも季節の花が色とりどりに咲き乱れています。そうでなくても人集まれば眠ることも忘れる短夜に、心奪われる春の庭の景色、松寿君の御心には詩興が沸々と湧き出てきます。そして、

 「漢詩

 と優雅に格調高く吟じたのでした。傍らにいた兵部卿有助もそれに唱和して即妙に和歌を詠んだのでございます。

  誰が袖と問ふまであらじ宿の梅触れし匂ひぞ色に知らるる

  「誰の袖の香りかと尋ねるまでもない、我が宿の梅さん。あなたがふれまった匂い

  でその趣は自然とわかってしまうのだなあ。」

 有助の素早い唱和はさすがで、その歌の体も悪くはないので、松寿君はいたく気に入って何度も酒杯を回し、月が入るまで宴を楽しんだ、そんなこともございました。

 そうしているうちに月日は昼夜を措かず水のように流れていきまして、時間に関所があるわけもなくあっという間に弥生となりました。松寿君は、空しく月日が流れるのをやるせなく思いなさって、中国の陶侃という人が、自分が閑暇に甘えて怠惰に陥るのを厭い、毎日百枚もの敷き瓦を運んで心身を錬磨したという故事を素晴らしいことだとお感じになって、

 「どこでもいいのだが、しかるべき素晴らしい方がいるところで、厳しく修行し、学道を明らめることができたらなあ。」

 と心の内で絶えず思い続けていたのですが、本源の侍従という方、この方は旧知の間柄だったのですが、紀邸をお訪ねになって、そのような話題に及んで、

 「とある山里に、なにがしという寺がございまして、心を澄まして戒律を守り修行に励んでいるとても尊い僧都殿がいるそうです。この方に入門なさってはいかがでしょうか。この方は仏道に精通しているだけではなく、漢詩漢文にも長じ、老荘の道にも人より秀でているのですが、ご自身は憂き世を厭って隠棲しているのですがね。」

 と申したところ、松寿君は深く心魅かれたようで、

 「そのような人がいるんですね。素晴らしいことを教えてくださいました。私が願っていた未来が開けるのかなと思うとうれしいことです。」

 と言って、すぐにも弟子入りしたいと気がせくようで、早速準備にかかるのでした。

 そのような所に入門するのに、調度の類は多くは持っていけないし、読んでしまった巻巻も、読みたいと思っていた書籍も、必要なもの以外は不用として、絵などの類もなにも携えません。好んで嗜む音楽でも、数ある楽器の中で手慣れた笛だけをつれづれの慰めものとして送っただけでした。

  松寿君が弥生三月に門を敲いた院のある山里は、都からはさして遠いところではなかったのですが、世間からは隔絶した住みぶりで、行き交う人も稀でした。峰々に繁っている松の木の下陰で柴木を取りに来た山賤(やまがつ)が斧を振るう音がコーンコーンと耳近く鳴り響き、いかにも山深く感じられます。また、山すそを一筋の清流が流れています。いつも童部が一人二人連れ立って閼伽の水を汲みに来るのも趣深い一景です。籬に卯の花が咲き乱れる四月となっても、卯の花くたしに見えぬ月を恋い、五月に漂う花橘の香りをまとった山杜鵑(やまほととぎす)が、村雨に霞む曙に鳴く一声に風情を覚えます。感じやすい松寿君の心にはその情景が心に染みて、思わず袖を湿らす(涙ぐむ)のです。

  松の戸をおしあけがたのほととぎす一声鳴きていづちゆくらん(山家の松の戸を押

 し開けると明け方のホトトギスは一声鳴いて行ってしまった。今頃どこを飛んでいる

 のであろうか。)

 中唐の詩人竇中行(竇常)は「香山館聴子規」の七絶で「雲埋老樹空山裡 彷彿千声一度飛(雲老樹を埋む空山の裡 千声に彷彿として一度飛ぶ」(人気のない山中は老樹が雲に包まれ、さながら千声のほととぎすが一斉に飛び立つようだ。)と吟じたといいます。松寿君もこのような風情溢れる時には、昔の人々も世間の人々も、どれほどかあわれを感じたことだろうかと思いやりなさって、このように詠じたのだろうと思われました。

 松寿君は御言葉の多い方ではなく、たった一人で脇息に凭れなさって静か見もの思いをしていることが多かったのですが、ある秋の日、思いがけず窓の外でパラパラと物音がしました。「何の音でしょうか。」と師匠の僧都に尋ねますと、師匠は謎をかけて、「『青天黄落雨(青い空に黄色い木の葉や木の実が雨のように落ちる)』と聞こえたぞ。」とおしゃったので、松寿君は即妙に、「それは『白日翠微山(ここは白昼、の山の中腹)』ということでしょうか。」とみごとな対句で答えなさったのです。

 このように学才に聡く秀でているのは言うまでもありませんが、まことにもののあわれを深く感じる方で、早朝に起きて夜半に休むにも、終日うたたねすることもなく、様々なことを想いながら、学道に思索にと心を砕いて過ごすのでした。

 秋も深まり、軒端に近い竹林に霰が降って、葉を打つ音が高く枕元に響いても、霰は跳ねるが、君の心は跳ねる(心弾む)気持ちにはなれず、まして、月が冴え霜が凍るなんとも静かな夜の折は、寝ずに軒端で夜を更かして寝所へ入りなさるのです。

 都にいる旧知の友も噂を聞いて、「このように、休みも取らないで過度に刻苦するのもいかがなものか。」と心配したのでしょうか、いつぞやはこのような歌を送ってよこしたのです。

  山里は寝られざりけり冬の夜の木の葉交じりに時雨れ降りつつ

  「山里は冬の夜は木の葉が交じった時雨がしきりに降って寝られないことだろう

  ね。」

 しかし、松寿君の学道や思索に傾ける思いは倦むことなく、蛍の光は毎夜明るさを増やし、窓の雪は日々に高く積み重ねるようにますます励んで、比類なきこの世の神童とまで称せられるようになったのです。

 論語に、「朋遠方より来る有り。」とありますが、心を寄せる友は、遠きを厭わず集い集まるのが世の習いで、神童松寿君の噂を聞いた者は、やがては会いたいと願い、松寿君を見たものは、すぐにも我が名を知られたいと願い、顔見知りとなった者は、懇ろに睦み親しむことを願うのです。荻原を吹く風が風音を立てるのに触れては訪れ(音擦れ)し、萩原に降る露を口実に近寄ろうと、松寿君を訪問する方はまことに多かったのです。

  あまたこの僧房を訪れた人々の中でも殊に風雅を覚えたのは、 一条郎と申す方でしょう。

 一条郎殿は、志深く高潔な方で、今の世は人が人としての信義節操を果たさず、放恣に流れているのを嘆き、

 「世の人は賢げな物言いばかりするが、心のこもらないことしか言わない。この浮き世を渡らおうと思っているうちは、かような人々をも前向きにとらえて、私が人を人として正しく教導すればいいとも、月々日々思っていたが、そのような機会にも恵まれないでいる。それならそれでいいだろう。人を正そうとするより己の信条を守り、他者の誉れを得ようとするより自己の内に煩いをなくし、我が身を他人から貴いとみなされるよりは、我が心を自分自身に賤しくしないと認める事こそ、望むべき道だろう。この世に仕えても苦しいばかりだ。無理にとどまって胸が裂けそうなつらさを感じても何にもならない。」

 真摯な方です。一条殿は心に決めて、浮き世の縁を断ち切って嵯峨野の奥つ方に閑居なさっていたのでした。みすぼらしい柴の扉の庵ですが明け暮れ風流に住みなしている方ですから、折に触れて情趣にあふれた暮らしとなります。花の下、緑の陰、月の夜、雪の朝、すべてが心のまま思う存分にあわれを感じるよすがとなるのです。粗末な房屋で松に当たる雨音を聞いていると、薫物の燃えかすが炉辺に香り、荒れた書院で竹にそよぐ風の嘯(うそぶ)きを聞くと、灯した燭光が四方の壁に寒々しく揺れているといった風情です。

 

 元々何の係累もない身なので、勝手気ままに野山などをさまよい歩き、帰る家路も忘れ、野宿することもたびたびありました。

 とある春の暮れ方の事でした。さほど深くはない山でしたが、その奥つかたを訪ね入る事がありました。野中の寺の鐘の音が幽かに聞こえて、夕陽が西に傾いていきます。「ままよ、今宵は花の木の下陰にでも宿を取ろう。宿主の桜が一本もないなんてことはなかろうから。」とあちらこちらに立ち寄りながら時に佇んだりしていますと、風は止んでいるのに、花びらがはらはらはらはらと落ち、春の鳥が日暮れの山にもの寂しく鳴き渡っています。それがかえって夕霞の静けさを際立たせて、「風定花猶落 鳥鳴山更幽」という詩情が思い出されて、しみじみと感じ入ります。

 と、一条郎殿は、遠くの松陰に一人の稚児を見かけました。秋の山の紅葉のような赤い水干に、まだ紅葉していない若葉のような緑の刺繍が施された装束。清艶で優美な稚児です。一条は目を凝らします。ごく若い法師をあまた連れています。花を折ろうとその美しい手で枝を撓めているようですが、知らず知らず雪のごとく舞降る花びらがお顔に散りかかっています。「拾遺集の古歌、『桜花道見えぬまで散りにけりいかがはすべき志賀の山越え(橘成元)』ではありませんが、ここでも志賀の山越えに劣らず花の吹雪は振り払うことができない程の舞いようですね。」などと言いながら幾度となくにっこり微笑む様子は言いようも例えようもないほどと一条は見ます。

 「なぜこのような奥山にこのような方がいるのだろうか。」と、この後の成り行きを知りたく思って、わき目もせずに凝視していますと、頑強な仕丁が現れて輿を舁き据えると、さっと乗り込みます。稚児の輿は山の麓の大きな御堂の内に入っていくのでした。

 なおも興味は尽きず、追いかけていって一人の法師を呼びとめて、垣間見た始終を語って問うと、「ご存じないのですか。この方こそ名高い雲の上の人、松寿君ですよ。あなたはこのような山里で行き暮れなさったのですか。この寺は古びてはいますが、僧都がしっかり管理なされて、名のある僧房もございます。今夜は私の房にお泊りになってはいかがですか。」などと言ってくれますので、「うまいこと、いいきっかけができたようだな。」と、密かに松寿君と近づけるかとの期待をかけて、寺に入りその夜を過ごしました。

 

  一条殿は夜が明けたので、下法師の案内で寺々を 見歩いていると、僧都殿が現れて、昨日来のことを法師から聞いて挨拶をします。

 「ありがたいことです。よくお訪ねくださいました。わざわざ春に家を出なくても、月の夜には閨の中にいながらでも、風情を思いやることは誰でもできましょう。そうはいっても実際に出かけて、花の下に帰ることを忘れて、月を前にして思いを陳べる貴殿の風流はなかなか捨てがたい素晴らしい心がけです。

 このような八重葎の繁るところですが春の通う道はありまして、かぐわしい梅の香をはじめ、桜の色映えなどこの上ない風情です。されどそれを共に慰め興ずる人もなくて、独り愛でては索漠として心持ちになっていたのです。桜の色も梅の香りも、それと知る人に手折って贈りたい。きっと花もなかなか訪れない風流人を待ち果てて、雪の降るように散り急いでいるのでしょう。私も全く残念なことだと寂しく思っていましたが、その甲斐あってあなたのような客人に会うことができました。

 おいおい僧たちよ、出てきて客人のお慰めをしなさい。松寿よ、松寿も出てきて詩歌でも詠じてお相手をせぬか。」

 などとおっしゃります。松寿君もほどなく立ち現れました。

 昨日は遠目にしか見なかったのですが、間近に見ると、緑の黒髪、雪の膚、御目の麗しさ、御言葉の潔さ、じつにこの世に人とも思われない美しさです。 

 

 僧都は内典外典いずれにも通じた方で、一条殿も詩に長じている気配であるのを察し、早速漢詩の宴を催したのでした。僧都は「残花」という題をお出しになります。人々が苦吟している中、まずは院主である僧都が披露しました。

 

  洞門深鎖自無為(洞門深く鎖して自ら為す無し)

  春到不知経幾時(春到りて知らず幾時をか経ることを) 

  忽被遊人勾引去(忽ち遊人に勾引せられ去りて)

  残花猶看両三枝(残花猶ほ看る両三枝)

  「寺の門は深く閉ざして何もしない。春がやってきてどれくらい時がたったのだろ

  うか。春風のような遊人が突然現れて、桜の花をことごとく持ち去った。後には花

  がニ三枝残るだけである。」

と誦しなさいました。一条郎殿が続けます。

  三日出家身未還(三日家を出でて身未だ還らず)

  山桜爛漫雨如烟(山桜爛漫雨烟のごとし)

  縦然春色渾看了(縦然《たとひ》春色渾《すべ》て看了《をは》るとも)

  猶有松花開那辺(猶ほ松花有り那辺に開く)

  「家を出て三日、まだ帰らずに彷徨している。山桜は爛漫として春雨は霧に煙るよ

  うだ。たとえこの春景色をすべて見終わり、季節が移ろおうとも、千年に一度咲く

  という松の花は変わらずそこにあるだろう。同様、松寿君というたぐいまれな方は

  いつまでもあり続けるだろう。」

 詠ずると同時に懐紙に書き付けて折り畳み、「これを松寿君に。」と差し出します。僧都の心にもかなったようで、「絶唱(優れた詩歌)には唱和できないと昔から言われてきている。これに続く詩はできないだろう。」と改めて「春風」という言葉を出題なさいました。松寿君は詩に歌を添えて披露なさいます。

  非熱非寒午睡身(熱きに非ず寒きに非ず午睡の身)

  春風座上火炉新(春風座上火炉新たなり)

  桜花豈是閑居物(桜花豈に是閑居の物ならんや)

  渡水吹香解引人(水を渡り香を吹きて人を引くことを解す)

  「午睡にまどろんでいますと熱くも寒くもない。冷ややかな春風が座上を吹くが、 

  その風が炉に新たに火を起こしたから。桜の花はのんびり咲いているのだろうか、

  いやそんなことはない。私はわかっている、桜は川を渡って風に香りを運んで、

  人々を引きつけているのだ。」

  隠れ家の花なりながら山桜あやなし香をも世に漏らすかな

  「隠れ家の花でありながら山桜は筋違いなことをする。香りを漏らして世間に知ら

  せようとするのだから。」

 詩は李白杜甫に始まり、歌は山部赤人柿本人麻呂より伝わるものです。松寿君の詩も歌も、表現は艶やかで、心情は優雅でしたので僧都は満面笑みを浮かべて、さらに僧たちに詩を請いなさると、雲樹院の律師というお方が、

  琴薬修来不出山(琴薬修し来りて山を出でず)

  禅心日日遠人間(禅心日日人間《じんかん》を遠ざかる)

  芳菲只在曲肱上(芳菲は只だ曲肱の上に在り)

  吹夢春風白昼閑(夢に吹く春風白昼閑かなり)

   「琴や薬(音楽?)を修行して山中を出ようとはしない。禅定に入った心は日々俗

  世間から遠ざかっていく。ひじを曲げて枕とし、清貧の内に暮らしていると、芳し

  い草花の匂いが漂う。夢の中を春風が吹くようで、のどかな白昼である。」

 などと詠じて、皆で大いに興じなさったのでした。

 一条殿も、「さてもう家路につくとしましょう。再び訪れましょう。心づもりしてお待ちください。」と言って院を後にしたのでした。

 

 過日の詩席は思い出しても、この上なく心慰められることではありましたが、今は松寿君の事ばかりが心にかかって他には何も考えられません。「自分らしくもない。世を捨てて、世にも捨てられた自分がこのように悶々としていいはずがない。」と悩みを断ち切ろうとするのですが、寝れば夢、覚めれば現に、思いは日増しに募っていくばかりです。かつて楚の懐王が巫山の神女と夢に契りを結び、神女が、「朝は雲となり、夕べは雨となって参りましょう。」と言い残して去ったのを、朝朝暮暮恋い偲んだという故事も思い出されます。

 一条郎殿は、その思いを言の葉にして何度も何度も松寿君の元へ書き送ります。しかし返事は一度もございません。

 一条は、せめて遠目にでも松寿の姿を見たいと思います。とある冷たい冬の雨が降る日、一条は意を決します。過日の詩会に同席した雲樹院の律師を訪ねます。雲樹院は僧都の院の傍らにあります。律師も一条の事は覚えております。一条が松寿君への思いを打ち明けると、律師殿も不憫に思われて、「法師というものは世間では、すげなく薄情なものと思われていますが、それでもこの仕打ちは法師の私から見ても、どれほどか つらく思われているか心中お察しいたします。歌に言う『最上の川の稲舟』の『いな』ではありませんが、松寿君が『いなぜ(否是)』どちらというかはわかりませんが、とりあえず君の御心を試みにうかがって参りましょう。」と言うので、一条はとても頼もしく思って、涙も溢れんばかりでした。

 

 律師は僧都の院に赴いて、松寿君と対面して、四方山話をした後で、やおら切り出しました。

 「それにしても、うかがう所ですと、一条郎殿から頻りに御文を戴いてるとの由。君はどのように考えておいでですか。例えるべきことではないかもしれませんが、吉野山や初瀬川の花や紅葉も見る人がいるからこそ名所となるのです。あなたのようにたった一人でつれなく過ごすのも、なんとも寂しいことで、嘆かわしく存じます。

 空に浮かぶ名高き望月(名月)も時を待たずに欠けていくものです。春が更け夏が長け秋が過ぎて、稚けない人も目の当たりに雪のような白髪になるのです。仏の神通力を得たとしても、やがては霊鷲山雲に隠れるようにいなくなり、孔子の奥深い教えを受けても、滔々と流れる泗水に消える飛沫のように散っていくのです。そうでなくとも人として、貴きも賤しきも誰一人この世に留まる者はいません。

 これほどはかない世の中に、これほど人を悩ましなさるのも、我執の罪は深く、仏のみ教えにもまことに背きなさることだと思いますよ。『今日は折しも雨が降っていて所在なく、いてもたってもいられずこちらへ参りました。』とおっしゃる一条殿の心映えも好ましいものですよ。」

 と縷々と説得するのですが、松寿はとりあえずの形だけの返事さえもしませんので、律師もそれ以上の説得もできず、「岸根に生えるとげの鋭い浜菱さえも、浪にかかることがあるように、心が靡くことがありそうなものなのに。」と恨めし気に出ていくのでした。

 一条郎の方は、律師が出ていってから、山風が吹いて来て竹の葉がそよぐ音を聞いても、「あれは応(おう)と吹いているのか、否(いな)吹いているのか。」と心も千々に乱れていました。

 やがて律師が戻ってきて、「常盤の山の峰が高いように、松寿君の志も高いようです。新古今の『わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり』『時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉は』ではないですが、松は時雨でも紅葉に染めることができないように、松寿君の心は染めることができませんでした。」と申し訳なさそうにおっしゃるのです。それも今更ながらどうしようもなく、その夜は律師の院に泊まって夜もすがら涙の内に臥したのでした。

 

  夜が明けて、せめて遠目にだけでもと、一条郎は松寿君のいる院に行って物陰から窺いますと、折悪しく不在のようだったので、立て切ってあった障子の端の方に詩歌を書き付けました。

  標格清新早玉成(標格清新早く玉成す)

  問斯風雨豈無情(問ふ斯の風雨豈に情無からん)

  怨魂一夜同床夢(怨魂一夜同床の夢)

  落月疎鐘却易驚(落月疎鐘却つて驚き易し)

  「標格は清新で若くして立派な玉となったあなた、昨夜来の風雨に情を催さないの

  か。私は恨めしく思いながら一夜同床の夢を見ても熟睡はできず、月が西に落ちる

  明け方に鐘が間遠に鳴るのにはっと目が覚めるのだ。」

  それと言はば百夜が千夜も通はめど絶えて音せぬ人いかにせん

  「はいと言ってくれたなら百夜でも千夜でも通おうが全く返事を下さらない人をど

  うしたらいいのだろうか。」

 それ以来、余りに愚かしい我が身を情けなく思い、「後世に障りがあるわけでもない世捨て人の自分が、今更恋の虜になったことだなあ。」と思うと、涙も枯れ果てて、露を払うように涙を払った寝覚めも、今となってはかえって昔の事になったのです。

 律師も一条郎の余りの嘆きぶりにいたたまれず、再び松寿君の元に行き、あれこれ言い含めて、とにかく返事を取り付けて、一条の元に送りました。一条が驚いて文を開いて見ると、律師の筆跡と思われます。

 「須磨の海人の綱手引く網が弛(たゆ)いようにあなたもたゆく(元気がなく)、網にかかる海松布(みるめ)ではありませんが、傍から見る目にもいたわしくて、やっとのことであれこれ言い繕って松寿君の御返事を取り付けて。」

 などと細々と書いてあります。

 「ああ、この律師殿の情けほど類ないことよ。」とうれしく思い、松寿君の御返事を見ると、漢詩と和歌が一首づつ書かれてありました。

  錦字慇懃織得成(錦字慇懃に織成るを得)

  無情未料又多情(無情未だ料らず又多情)

  君恩元是如朝露(君恩元是れ朝露のごとし)

  薄命一時何足驚(薄命一時何ぞ驚くに足らん)  

  「錦に思いの詩を縫い付けて織物とした。それが妻から夫への愛の便りだ。それは

  無常と言えようか、かえって多情かもしれはいよ。あなたの思いは朝露のように

  はかなく過ぎていく。運の悪さも一時の事、気にすることでははい。(いず

  れ情は通じよう。)」

  それと言はぬまをこそ我は通はめれとはで音する人のなければ

  「はいともいいえとも言わぬ間を行ったり来たりしています。問いかけずに訪ねて

  くるような人はいないので。(形式にこだわらず訪ねてくればいいのに)」

 「これはきっと、氷っていたいた松寿君の心も溶けたという意味であろう。」と一条は気もそぞろに、地に足もつかず、律師の元に一目散に駆けつけ、ここ数日の厚情に感謝したのでした。

 律師も格別に喜んで、「松寿殿にお会いしますか。君に気に入られるなど妬ましいことです。」と軽口をたたいておりました。

 

 そんな折、僧都の院には松寿君の母君から御使いが来ていたのです。

 「父中納言殿は御具合がよくなく、患っていましたが、ただの風邪だろうかと気にも留めずに過ごしていましたが、急に病状が悪化したようでございます。御使いではなく、あなたご自身が急いで都へおいでなさい。その際には僧都もお誘いなさい。御祈祷をしていただきたいのです。」

 使者はこのように母上の言葉を伝えます。松寿は、「これはなんということだ。」と驚いて、僧都に子細を告げると、すぐさま僧都と連れ立って都へ向かおうとします。出がけに松寿君は律師を近くに呼びなさって、

 「『一条郎殿がこれほど私に深く想いをかけてくださったのに、すげなくやり過ごしたことは、我ながら今となっては返す返す申し訳ないことだと思っています。一条殿はどれほど不快な思いをなさったかと恥じ入るばかりです。それなのに未だ私を 見下しなさらず、昨日からこの里を訪れなさったと聞いて、うれしく思い、お会いして心ゆくまま親しくお言葉を交わして、今までの失礼を言い訳したいなどとも思っていましたが、父君の危篤と言う思いがけないことが起きてしまったので、致し方ないこととなってしまいました。こうなっては今はもう私の事など思い捨ててしまってください。その方がありがたいです。』一条殿にはこのようによくよく申してくださいませ。長年暮らしたこの院を出立するのも名残りが多く、再びここに戻ってくるのもいつの事かと思うと涙が・・・」

 などとおっしゃって、涙の袖を絞りなさいます。律師も、「まことに。」とだけ言葉をかける他なくて、松寿君の行くのを見送るのでした。

 雲樹院に戻り、一条郎に伝えますと、「はかなく消えた契りをあれこれ言ってもどうにもならない。」とただただ泣くばかりでした。

 

 松寿君が都へ帰りなさると、母君は待ち受けなさっていて、

 「それにしても長いこと会っていなかったので、どのようになっているのかと思いも募っていましたが、こんなにもすばらしく成長しなさって。自ら志した学問の道なので場所は選ばないとは言っても、山里は侘しいことこの上ないと聞きますので、心慰められることもなかったでしょう。子を思う親の心ほどやるせないものですよ。それにしても立派になられました。 聞くところでは学問もたいそう上達なさったとのこと、父中納言殿もどれほどかうれしく思われていることでしょう。これで父君のご病気が快方に向かえば、決して悲しいことにはならないでしょう(喜ばしいことこの上ありません)。」

 と言って袖の涙を絞るのです。松寿は父君の枕元に寄り添います。

 「父上、どうしてこのようにお弱りになったのですか。松寿もここにおりますよ。」

 と声をかけますと、中納言殿は、少し首をもたげて、一言、

 「わしの亡き後は帝にしっかりお仕えするのだぞ。」

 と言ったなりでした。

 禰宜や法師が、祈祷やほぎまじない(祝ぎ呪い)を試みましたが、無常の世の中、生者必滅のはかない有待(うだい)の身であり、、ついにははかなくお亡くなりになりました。

 悲しみに暮れてばかりはいられませんので、鳥辺山の夕べの煙と、火葬いたしました。親しい身内の嘆きは言うまでもありませんが、上は帝をはじめとして、下は賤しい仕丁(よほろ)までも、この人のために悲しんだのです。昔、唐の魏徴が薨去した時、皇帝太宗は、「この一臣を失うことは、鏡を失うようなものだ。」と嘆き、心暖かく「温公」と慕われた宋の司馬光の喪には、百姓が自分の衣服を売ってさえ香奠を供えた、という故事もこのようなものかと思い浮かべられるのでした。

 

 やがて死後の弔いも済ませて、松寿君は父の遺言通り、内裏へ出仕することとなりました。帝も故中納言殿の生前の功労の偉大さを思い出しなさって、出仕したその日にも松寿を元服させ、中将に任じました。

 これよりは、紀中将康則と名のりなさいます。

 出仕するや、中将の容貌品格のすべては忽ち帝の叡慮にかない、常に側近く親しく付き従わせて、退出するのも名残惜しいと思いなさいます。そこで、故中納言殿が暮らしていたのは内裏から離れた西の京だったのですが、いつでも参内できた方がよかろうと、一条室町に御殿を造営して、中将を移り住ませなさったのでした。

 このように帝の寵愛は、人目もはばからない様子でしたので、左右の大臣、公達方は羨ましく妬ましく思いなさるのでした。しかし、中将は決して寵愛によって取り入ろうとは思いなさらず、帝に向かってさえ、

 「私は古人が主君に仕えた先例を模範として、そのように行動できたならば真実の忠孝の身と言えると考えております。どうして移ろいやすい色香をもって、かりそめの帝の御心を貪ろうとしましょうか。それは主君を正し、亡き父の遺徳を顕彰する道ではありません。

 帝もご承知の事とは思います。漢の哀帝が董賢を寵愛したのを、諫臣鄭崇は不可としました。衛の弥子瑕が、霊公の寵愛が衰えると罰せられた、『余桃の罪』故事もあります。これらをもって後世の参考にせよと史書にも書いてあります。」

 と申し上げて、人一倍慎んで行動なさったので、帝も己の軽率な思いを恥じ、人臣も中将の人徳を慕って敬い申し上げたのでした。

 

   一方、一条郎殿は松寿君が都へ戻って中将となってからは、文を伝える術もなく、かといって思いを断ち切ることもできないでいました。鬱々たる思いで、京師にさまよい出でてゆかりある古御所を訪ねて、様々なことを語り合って、鬱屈した心を晴らそうとしました。 この屋敷の主は本源の侍従と申します。かつて故中納言殿の邸宅に出入りしていて、松寿君僧都に紹介した男でありました。ゆかりあるとはいっても、一条郎の事は名前を聞いているだけの、初対面だったのでその素性までやよく存じません。話題が最近の中将殿の活躍ぶりに及び、並々ならぬ人徳などを語ったついでに、

 「先日中将殿にお会いしたら、嵯峨野の奥に某とかいう世捨て人がいて、中将殿も想いをかけていたそうですが、今でも慕わしく思われているなどとおっしゃっていましたなあ。」

 などと語ったので、一条郎は、今も自分の事を思っていてくれているのだと、心ときめく思いで今までの経緯を語り、すぐさま自分の思いを手紙に綴り、本源の侍従に託します。侍従は快く承知し、一条の文を中将へと取り次ぎました。

 中将は、「思いがけない手紙であることよ。きっと私の事を恨めしくご覧になっていることだろう。」と冗談交じりに文を開いてみると、平素に受け取る文とは異なり優雅に書かれていて、末尾に一首の漢詩が書かれてありました。

  一片忱誠尽不成(一片の忱誠尽くせども成らず)

  鯉沈雁断叵伝情(鯉沈み雁断えて情伝へ叵《がた》し)

  梧桐雨渡風灯底(梧桐雨渡る風灯の底)

  寤寐思君暗地驚(寤寐君を思ひて暗地に驚く)

  「私の真心はことごとく成就しなかった。鯉や雁に託した手紙は届かず、思いは伝

  わらない。あおぎりは雨に打たれて私の命の灯は消えそうで、寝ても覚めてもあな

  たを想い暗闇の中でおののいているばかりだ。」

  いかにして身をも恨みん心をば君にとどめて我ならなくに

  「どのようにして我が身を恨もうか、恨みようもない。心をあなたに預けてしまっ

  て私は私の心をなくしているのだから。」

 中将は、かつてのやり取りを思い出し、同じ韻字で唱和した詩にいたく感じ入り、慕わしく思われたのですが、政事が多忙を極めていて、徒言(ただごと=詩歌を添えない散文)だけの返事をするだけで月日は過ぎていきました。一条には侍従しか伝手はなく、侍従頼みで送ったのですが、その甲斐もなかったのでした。

 年も暮れて、今年も今日ばかりという大晦日、一条は再び文を書き送りました。今度は、旅先の夫を思う妻の心情を詠んだ「文選」の古詩を引用して、

  思君令人老(君を思へば人をして老いしむ)

  歳月忽已晩(歳月忽ち已に晩るる)

  「あなたを思うと私はすっかり老いてしまいます。歳月はあっという間に過ぎてい

  きます。」

  年の尾も人のつらさも今日のみとなさばやものを思はざらまし

  「私のつらさも今日を限りとすれば、年が改まった明日からは何も悩み事がなくな

  るだろう。」

 このように詠じたのです。

 

   年も改まり、毎年の事ですが、新鮮な気持ちで、日の光ものどやかで、すがすがしい空の様子に、人の心も喜ばしくなります。慶賀の歌を奏上する人も多く、仙洞御所で歌会が催されました。中将も参内して、「立春の心を」という事で次のように詠まれました。

  ひととせの行き交ふ空の曙に霞や早き春や先立つ

  「新しい一年のやって来る曙の空に早くも霞が春に先立ってやってきた。」

 これにとどまらず、詩歌に心を傾け、風月の方面(詩歌)にも熱心に取り組んで、季節の移り変わりの折にももののあわれをお詠みになられました。

  秋に来て春には帰る雁がねの月にや花の劣るものかは

  「秋に来て春には帰る雁は、秋の月と雁の取り合わせが愛でられるが、春の帰雁と

  花の取り合わせも劣らない。」

 晩春には、

  青柳のいとはかなくも見ゆるかなさりとて春を繋ぎとめねば

  「青柳の糸のような枝はとてもはかなく見えることだ。糸とはいっても春をつなぎ

  とめるわけにもいかないので。(夏はすぐ来る。)」

 芳しい春草は夢の中でまだ残っているのに、秋の気配は枕元に忍び寄ってくる。かように季節の移り変わりは早く、卯月(四月=夏の初め)一日となりました。

 今日は衣更えという事で、山里の僧都の元にいた頃、故中納言殿が夏の装束を仕立てて送ってくださったことなどを思い出して、

  夏衣花橘の香をしめば今日も昔になりぬべきかな

  「夏衣に花橘の香りが染みている。夏装束を送ったくれた父の思い出も今となって

  は昔の事になってしまったなあ。」

 

 同月の十三日は父君の忌日で、中将殿は仏事を執り行いなさいました。法事も果てて夕方となり、中将は中納言殿がかつて住んでいた西の京へ出かけて行きました。旧宅に着き、昔を恋しく思い出されますと、ますます感慨がが募ります。

 まことに移り行くこの世の習いは言うまでもないことではあるけれども、もののあわれを深く解する中将殿には、ひとしお悲しく思われます。とても立派な邸宅として住みなしていた跡も、今は猪の寝床となって雑草が生い茂って、侘しい限りでございます。

 そもそもこの場所は、故中納言殿が長年にわたって住まれた所で、玉の(ような磨き上げた)礎や黄金色に輝く砂(いさご)を敷き詰めて、美麗の限りを尽くしなさったものでした。特に帝もお気に入りなさって、行幸もたびたびありました。春は花見に絶景だと庭園を作り、桜の木々を並べ、秋は名月を鑑賞するのに好都合だと、池を掘って水を湛えました。

 様々に興趣溢れる所であったのに、いつの間にか荒れ果てて、草深い伏見の里ともたいして違わず、鶉の鳴く磐余(いわれ)の野辺も今目の前にあるようで、その光景を目の当たりにするや否や、とめどもなく涙が流れ、袖を湿らせます。そうはいっても思い出多い場所なので、知らず知らず夜更けまで時を過ごしてお帰りになりました。

  中将は、 三年間父上の行った道を改めることなく守ってこそ孝子の道と言えるのに、勅命なので拒否できるわけもないが、どれほども経たないのに住み替えたことは、何とも畏れ多く罪深いことだと思いなさって、つらいことと思い悩んでいました。

 そんな折、本源の侍従が、中将がふさぎ込んでいるとのうわさを聞いたのか、ふらりとやってきて、昔の父君の思い出などを話題にして、言い慰めていたのですが、ふと思い出したように一通のとても上品に書きなした文を取り出して、「これをご覧ください。」と差し出します。中将が開いて見ますと、一条郎の筆跡で、

  恋ひ死なん後にあはれや知らるべき生きてし問ふは甲斐なかりけり

  「私が恋に焦がれて死んだ後であなたは私の『あはれ』に気づくでしょう。生きて

  このように手紙を書き続けても甲斐のないことです。」

 と詠まれていました。

  中将は、

 「『本当に、このように思いを寄せる文を送り続ける方がいらっしゃるのを、知らん顔して放っておいたのは、ひどく情け知らずに思われるでしょうが、ご存じのように、故中納言殿がみまかった後は、政事にばかり紛れて、ああしようこうしようと思っても、なかなか思うようにはいかない毎日でした。いつとやお約束できませんが、突然にはなるかもしれませんが、きっとお訪ねいたしましょう。』このように一条殿に申し上げなさってくれませぬか。」

 と言って、侍従をお返しなさいました。

 一条はこのことを聞いて、「ああつらい、生きているのも嫌だ。」と思っていた自分の命も、今はただ惜しくばかりなって、「今日はあの人が到りなさるか、明日は中将が来たるか。」と毎日毎日門に立って待っていましたが、中将は待てど暮らせど現れず、あたかも、西王母の仙桃が落ちて、再び結実する三千年後を待って今は花も咲くだろうかと待っているようなもので、かえって期待しなかった時より苦しく連れく思われるのです。

 

 中将は、決して約束は忘れず、少しでも暇があったら思っていましたが、八月二十三夜は月待の日で、月が出ている間はと、出立なされました。

 お供には誰彼などを伴わせ、急いで馬を引き寄せて乗り、慌ただしくお立ちなさいます。夕闇は道もおぼつかなくはっきりしません。辺り一面の野原をかき分けて行くと、辺りにすだく虫の声や流れる谷川の水の音、稲葉がそよめく秋風と夜が更ければ更けるほど、秋の気配が身に染みて、心あるあの人はどのように思っているだろうかと思いやりながら、一条の庵に訪ね着きなさいました。

 荒れ果てた住まいはもの寂げではあるけれど、透垣(すいがい)など、ここかしこと風情のある様です。夜はすっかり静まって物音もせず、人も寝静まっているのかと、しばし門口で佇んでいますと、童部が行ったり来たりする様が明り障子にほのかに見えます。

 そこで供の者に門扉を敲かせますと、とても気品のある男(一条郎)が出てきて、

 「ここは世捨て人が人目を避けて住んでる所、訪ねて来るような場所ではありませんのに、どちらからお訪ねですか。」

 と言います。

 「さるお方がお忍びでやって来たのです。お咎めなさいますな。」

 とお供が言うのを、一条は、「もしや。」と肝がつぶれるような思いで、外に出てみますと、まごうかたなき中将殿であります。すぐさま招き入れました。ずいぶん待たされた来訪で、接待の準備も整っていなかったのですが、普段から焚きしめた香の匂いはしめやかに香っていて、趣深く酒宴を開きなさいました。

 中将は盃を手にしながら、

 「すぐにでもお訪ねしたかったのですが、ぐずぐずして思いためらっていると様々な支障が次から次へと起こって。」

 などと申しますと、一条郎は、

 「山里に隠れ住んでいまして、『一条郎』という名前は、名前ばかりが大げさで、私は似つかわしくなくもあれこれ思い悩んで、苦しいことばかり多かったのですが、今宵あなたにお会いできて、すかっり忘れることもできそうです。ありがたい中将殿の情けは、身に余るほどです。」

 と言うと、月はまだ東の山の端に差し込んだばかりの子の刻で、深夜に野原一杯に虫の声が鳴き渡るのも、そのタイミングを心得ているようで、辺り一面露が下りるのもこの上なく情緒あるものと見えます。

 思い出すことなどを語り合わせて、話は尽きないのですが、宴が果てても枕を寄せて、夜長という名は名ばかりの秋の夜はあっけないほどに過ぎてゆくのでした。

 政務は致し方ありません。夜明け方のまだほの暗いうちに中将は帰りなさったのでした。

  西山一夜送君帰(西山一夜君帰るを送る)

  夢入白雲深処飛(夢に白雲深く飛ぶ処に入る)

  「西山の嵯峨野で一夜過ごした君を見送りる。夢で白雲のようなあなたが遠く飛

  んで行くところが見える。」

 という詩句がありますが、このような心情を語っているのでしょうか。

 この後は、中将君と一条郎殿は交わる事篤くして、中将はもちろん一条郎も漢和の知識が豊富だという事で、朝廷の公務なども相談しなさったということです。

 

 ああ、もう随分昔の事でございます。

 

  見る人の袖より袖に移すなり涙かきやる水茎の跡

  「この物語を読んだなら必ず涙を流して袖を濡らし、さらに次に読んだ人も移され

  て袖を濡らすでしょう。涙を掻き上げて。この書き写した水茎の跡を見れば。」

(完)

 

* 本文は「室町物語大成」に拠りました。中世の物語なので、仮名遣いがあいまいです。高校での古文学習者を念頭に、歴史的かな使い、新漢字で表記しました。

* 「室町物語大成」は広本で序文を持ってますが、略本の「続群書類従本」「続史籍集覧本」で適宜改めました。異同を示してないところもあります。

* 注釈の典拠は、多くは電子辞書やインターネットなので示しませんでしたが、検索しづらいものなどは出典を示しました。 

原文

 およそ*この道の久しき故を見れば、*西域・中華・本朝まで、盛りに行はれける。

 *浮屠氏の説には、糞門を犯し、口門を犯すは、邪なるによりて*非道と名付け、*功徳円満経には、「末世の比丘の小児を愛るる罪によりて、五百生の間*悪趣に生まる」と仏の戒めあれど、*難陀は花の如く、*文珠は月に似たり。*阿難は美しき侍者にて世尊も愛し給ふ。*摩登伽女が呪(まじな)ひ落とさんとせしもまことにや、理(ことわり)にぞ覚ゆる。*提婆達多が嬰児の時、阿闍世太子の膝に上り、口吸ひ抱きて、玩び給ひし事侍るめり。

 さて周の時には、*宋朝といへる男、容貌麗しきにより世の難を免れ侍り。年寄りたる人もこの道に迷ふによりて、「男色は老いを破る」と*戦国の文にも見えぬ。されば*漢祖の猛かりしも*籍孺に惑ひて政事をきかず、*恵帝は*宏孺が婉媚を愛して常に起臥し給ふ。男の宝の帯をし、粉をつくることもこの時より起こりける。*文帝は*黄頭郎が衣の浮けて、尻の美しきを見て、幸ひ給ふこと暇なかりき。

 そのかみ、弄児と呼ばれし*金日磾が子は、天子の首にまたがり*韓嫣、李延年は天下にときめきあへり。*何平叔が汗は粉よりも白く、*潘安仁が車には菓を満ち載せたり。この道世々を経て終に絶ゆることなし。*昌黎、東野は雲となり、竜とならむと願ひ、*李節推は風水洞にて東坡を待ち、*邢敦夫は源ある水のごとしと*餘章にほめらる。

(注)この道=男色。衆道

   西域=中国にとって西側の地域。広義にインドも含む。

   非道=男色の別称。美道とも。

   浮屠氏=仏陀仏教徒

   功徳円満経=不明。國學院大學蔵の「南都興福寺文書等」の応永年間の消息文に

    「功徳円満経」の文言が見える。

   悪趣=この世で悪いことをした者が死語に赴く世界。地獄道・餓鬼道・畜生道

   難陀=釈迦の異母弟で、弟子でもある。容姿端麗という。

   文珠=釈迦の脇侍を普賢とともに務める菩薩。

   阿難=釈迦のいとこで十大弟子の一人。多年にわたって釈迦に近侍した。

   摩登伽女=「楞厳経」に登場する女性。美貌の阿難を呪術で誘惑したという。芥

    川龍之介「俊寛」に引かれる。二十世紀前半、京劇で摩登伽女の話が上演され

    たらしい。「摩登伽経」という経典も存在する。

   提婆達多=釈迦のいとこで、釈迦が悟りを開いて以後弟子となったが、のち離反

    し、阿闍世王子を唆して父王を殺させ王位につかせ、自らはブッダ殺害を企て

    たという。釈徹宗氏の「『観寿無量経』をひらく」(NHK出版)によると

    「根本説一切有部毘奈耶破僧事」という仏典では提婆達多が幼い子供に化けて

    阿闍世に取り入って魅了し、自分のコントロール下に置いたという。

   宋朝春秋時代、宋の公子。美貌によって妃に愛され難を逃れたという。「論語

    雍也第六」に「宋朝の美」とある。

   戦国の文=「戦国策」(前漢劉向)。「男色老いを破り、女色舌を破る。(男色

    は老成した人をも邪道にふみこませ、女色は善人の忠告も曲解させる)」(故

    事・俗信 ことわざ大辞典)。

   漢祖・恵帝・文帝=前漢の初代・二代・五代皇帝。

   籍孺・宏孺=それぞれ高祖・恵帝の寵童。宏孺は「閎孺」。

   黄頭郎=鄧通。もと黄頭郎(水夫・船頭)であったが文帝の夢に衣服の尻に綻び

    がある鄧通を見て、水夫の中から発見して寵愛したという。「漢書佞幸伝」に

    詳しい。

   金日磾が子=漢八代昭帝の折、車騎将軍金日磾に金賞・金建がおり、寵が厚かっ

    たという。

   韓嫣、李延年=いずれも漢七代武帝の寵が厚かった。

   何平叔=何晏。魏の曹操の養子。ナルシストで色白だったという。

   潘安仁=潘岳。西晋文人。稀有な美貌の持ち主で、車で出かけると、女性たち

    が果物を投げ込み、車がいっぱいになったという。

   昌黎、東野=昌黎は韓愈。故郷の地名によって韓昌黎とも呼ばれる。東野は孟東

    野。中東の詩人。本文の表現は韓愈の「酔留東野」という詩に拠っている。

   李節推=蘇東坡が李節推という美少年に惚れて風水洞という所まで追いかける話

    が「四河入海」にあるという。「四河入海」は室町後期の蘇軾(東坡)詩の注

    釈書。先行する注釈書もあるのでどれに拠るかは分からない。

   邢敦夫=邢惇夫の誤り。邢居実、字は惇夫。宋の人、蘇軾・黄庭堅等と従遊すと

    「大漢和」にある。

   餘章=黄庭堅。黄余章は異名。北宋の詩人。蘇東坡とともに「蘇・黄」と併称さ

    れ、日本では室町時代五山の僧に愛読されたという。「次韻答邢惇夫」という

    五言詩の、9,10句目に、「邢子好少年 如世有源水」とある。

 西域、中華のこの道を尊び敬ふこと、かくのごとく多かり。本朝にては古より伝はれる中にも、*嵯峨天皇の御時盛りなりける。 かの御宇に、この道の祖、高野大師となんその法を受けし、*真雅阿闍梨の、「思ひ出づるときはの山の岩つつじ」と詠めるは、*在中将に愛でて遣はしけるとぞ。*かけまくもかしこき*北野の天神も尊意僧正には情け深かりける。竹生島童子は*仲算已講の愛せし。衣を無熱池に浣(あら)ひしは*書写上人の乙若にや。かの*経正は仁和寺に童形にて青山を伝へ、*舎那王は僧正が谷の契りにて剣術を習ふ。

 「*秋の夜の長物語」は瞻西が道心を満たし、「*松帆の草子」は少年の風流を添ふ。

 この道法師の手に入りて、世の人知らざるやうなれど、朋友の道なれば、人倫の五典にもいかで漏れ侍るべき。その匂ひを蘭に喩(たと)へ、その契りを金石に倣(なら)へ、その心を膠漆の堅きに*た比(くら)へ、その情を*魚水の思ひに例(たと)へ、その誓ひを山の*礪(と)のごとく、川の帯のごとくなるに寄(よそ)へて二心なき理を守ることしかるにや。

 *鎌倉の武衛は、能直を寵して左近の将監の官を薦め、*等持院殿は、寵愛の童子に重宝の太刀を賜ふ。

 遠くも近くも少年を*いつきかしづくこと、牧馬の童子の*黄帝に逢へるがごとくなるのみにあらず。しかあれど、*桃の余りを君に奉りし戒め、少年、忘れ給ふな。

 (注)嵯峨天皇=第52代天皇。平安初期。

   真雅阿闍梨空海(高野大師)の実弟で、弟子。空海は男色を日本に伝えたとい

    われている。

   在中将=在原業平。「伊勢物語」の主人公。「思ひ出づる常盤の山の岩つつじい

    はねばこそあれ恋しきものを」と真雅に詠みかけられたのが本朝の男色の嚆矢

    とされる。

   かけまくもかしこき=言葉に出して言うのも畏れ多いが。

   北野の天神=菅原道真。尊意は仏教の師。

   仲算已講=平安中期の法相宗の僧。松室上人とも。「観音霊験記 西国巡礼二十

    番竹生島」によれば竹生島の(神仙の境地を得た)稚児を寵愛したという。

   書写上人=性空平安時代天台宗の僧。和泉式部に「暗きより・・・」の歌を

    詠みかけられた。「三国名所図会」の東霧島権現社の条に、「性空上人当山に

    登り、当社を再建し別当寺を創立す。 〇末社 本社の左に性空上人の両侍童

    乙若の社あり。是を護法善神と崇む」とある。乙若という寵童がいたようであ

    る。

   経正=平経正平清盛の甥。琵琶に秀で、仁和寺守覚法親王から秘蔵の琵琶

    「青山」を賜った。

   舎那王=源義経鞍馬山の僧正が谷で天狗僧正に剣術を習ったという。

   秋の夜の長物語・松帆の草子=稚児物語。但し、瞻西は実在。

   た比(くら)へ=比較し。

   鎌倉の武衛=源頼朝大友能直を重用した。

   等持院殿=足利尊氏。誰に太刀を賜ったのかは未確認。この物語(の、少なくと

    も序文)は、尊氏を等持院殿と呼ぶ後世の人物によって書かれたのであろう。

   いつきかしづく=目をかける。

   黄帝=「荘子 徐無鬼篇」に黄帝が牧馬の童子に天下を治める要を聞いたとい

    う。これは童子を寵愛する例えではないが、童子の聖性を示すものか。

   桃の余り=「余桃の罪」。弥子瑕という人物が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分け

    て一緒に食べたりしていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたと罰せら

    れたという故事。「韓非子 雑難篇」

 

 *この頃人の作り給へる文を見るに、男の色ある、西域・中華・本朝の人々大方漏れ侍らず。その文にいへるごとく、この道世々を経て終に絶ゆる事なければ、人知らぬ*思ひ草の葉末に結ぶ露の*かごともなどかなからん。

 されば間近う人の仰せられし事の、あはれに覚えしかば、筆に任せて*かたばかり書きつくることになんありける。

 紀中将康則は中納言康直の御子なりける。 最も稚けなうわたらせ給ひし古を、聞き伝ふるぞ、やんごとなき。すべて眉目、貌の優れたらんを、人には本意なることなるを、才(ざえ)いみじく御志深うして、大和・唐の古き跡を慕ひ、古今(いにしへいま)の有様に御心寄せられければ、なみなみならん業にはつゆおもむかせ給はず。されば行方ただならじなど人申しけり。

 その頃、御年十三にならせ給ひて、松寿君となん申しける。父母も人の見聞き、世の覚え一方ならねば、ただこの人の生ひ立たんをぞ、*月星のやうに待ち明かし暮らし給ひける。

 ある夜、夜いと更けてわざとならず、参り集まれる人多かりけるに、折しもあれ、空吹く風の便りにつれて*何地(いづち)ともなき梅が香の御袖にとどまりければ、「これなんいかにぞや、春の行方も知らで暮らせる人*もこそあれ。」とて、自ら御簾を掲げ*させ給ひければ、朧の月も心ありげに、花もいろいろ咲き乱れたり。さらでだに眠ること得ぬ短夜に、人を悩ます春の庭にて、詩興御心に動きしかば、

 (脱文、漢詩を吟詠したか。)

 と気高う言い出し給ひければ、*兵部卿有助もかくぞありし。

  誰が袖ととふまであらじ宿の梅ふれし匂ひぞ色に知らるる

 さすがに*口疾くて、その様悪しからねば、*御かはらけもたびたびにめぐるにつけて、月さへ入りぬ。

 まことに過ぎゆく月日は流るる水のやうにて、とどむる関路もなければ、ほどなく弥生になりにけり。さるにつけても、*空の名残りのみ惜しみ給ひて、唐(もろこし)に*陶侃と言ひつる人の身のいとま、あたらしくて百の甓(もたひ)を取りて運びなんけることも、ゆゆしう思ひ取らせ給ひしかば、

 「いづくにもあれ、さる人ありて、道明らむるよしもがなや。」

 と心の*いとなくおはしけるに、本源の侍従、もとよりしろしめす御方にて、訪ひものしけるに、

 「さる山里の某寺とかや、いと尊く*行ひ澄ませる僧都ありけり。これぞもの学びに入らせ給はんにや。その人仏に疎からぬのみにあらず。詩書の文にも長じ、老荘の道も人には異なる。その身、世に物憂くて世にも出で侍らず。」

 と申しければ、倩(つらつ)ら御心を傾けさせ給ひて、

 「さる人あんなり。賢う人ののたまふものかな。思ふ事の末あらんほど、うれしきは。」

 などやがて急がせ給ふ。「調度などの多からんは、かかる所へはいと難しきものぞ。見てんほどの巻々、きかまほしき文など、その余は不要なり。」とて、絵も携え給はず。好いたる御ものの音なども、数ある中に笛ぞ手慣れし慰めにて、つれづれ送らせ給ひける。

(注)この頃=序文を指すか。室町期か。素直に読むと、序文をよんだ語り手が本文を

    書いたと取れる。

   思ひ草=思いの種。草で葉末、露を縁語とする。*

   かごと=言い訳。恨み言。

   かたばかり=形ばかり。ほんの少し。

   月星のやうに=「月とも星とも」は非常に頼りにすることのたとえ。「月よ星よ

    と」はこの上なく寵愛し賞美することのたとえ。両義をかねるか。

   何地=不定の方角。どこから。

   もこそあれ=「もこそ」は将来を推し量る気持ちや、気がかりに思う意をあらわ

    す。好ましくない事態を危ぶむ場合が多いが、将来を期待する場合もある。

   させ給ひ=二重敬語。使役ではない。

   兵部卿有助=不明。「参り集まれる人」の一人か。

   口疾く=返答、返歌が素早い。

   御かはらけ=酒杯。

   空の名残り=不明。時に移り行くのを名残惜しむの意か。千載集恋3・838

    「かへりつる名残りの空をながむればなぐさめがたき有明の月」。

   陶侃=中国東晋の武将。詩人陶淵明の曽祖父。「資治通鑑」に陶侃は平時におい

    ても朝に百の甓(敷き瓦)を外に運び、日暮れに中に入れるという労苦を自ら

    に課し、安逸に流されないようにして大事に備えたという。ふりがなの「もた

    ひ」は酒甕の事。

   いとなく=いとまなく。絶え間なく。

   行ひ澄ませる=仏道の戒めを守り、心を清くして修行に励んでいる。

 さて、この山里の景色、さまで都も遠からねど、まことい浮き世の外に住みなして、行き交ふ人も稀なりけり。峰に繁れる松の陰に妻木採り来る*山賤(やまがつ)の斧の*柯(え)、いと近う響き渡るも、猶山深くなりにけり。また、麓に清き川ある。常は童部の一人二人伴ひ出でて閼伽の水汲むなどいふもあはれなり。

 *籬に咲ける卯の花は、晴れぬ雨夜の月を*見し、花橘の香をとめて、山郭公(ほととぎす)の一声も、曙霞む村雨に、御袖の覚えずしほれければ、

 *松の戸を押し*あけ方のほととぎす一声鳴きていづち行くらん

 「雲埋老樹空山裡 彷彿千声一度飛(雲老樹を埋む空山の裡 千声に彷彿として一度飛ぶ」といへるは*竇中行が古(いにしへ)、香山館のなるべし。かかる時にぞ世のためしも人の心も、いかばかりか思ひ知らせ給ひけんと*覚えしか。

 *つやつや御言葉も多からねば、一人のみ*おしまづきに寄り居させ給ひて、御心を澄ましおはしけるに、思ほえず窓の外に物ありてはらはらとなる音すめり。いかにぞやと問はせ給へば、主の僧都、*「青天黄落雨」とこそ聞きしかとのたまひければ、「白日翠微山」にもやとぞおほせける。

 かく敏(と)きなる御才などは言わずもあれ、いたうあはれをしろしめししかば、早朝(つとめて)起き夜半に寝(い)ねても、まどろむ事無う、よろづに詠(なが)めがちにぞおはしける。軒端に近き竹の葉に降りゆく霰の音も御枕に高くて、これさへ*ひとり跳ぬべき御心地もおはさぬに、まして月冴え霜凍り、もの静けき折節は、端居に更かして入り給ふ。

 都の友もやは、かくはいかがなど思し出でて、いつの事にや、

 山里は寝られざりけり冬の夜の木の葉交じりに時雨れ降りつつ

 かくて*蛍の光は夜々に増し、雪の色は日々に積もりて、この世の神童なりける。

 *その朋遠きより来る習ひなれば、聞く者は見(まみ)えんと願ひ、見る者は知られんと願ひ、知れる者は睦ばん事を願ひしかば、荻吹く風のおとづれに触れ、萩置く霜の*かごとに寄せて、問ひ来る方も多かりけり。

(注)山賤=山で生活する人。猟師、木こりなど。

   柯=柄。

   閼伽=仏前に供える水を入れる器。

   籬に咲ける・・・=このくだりは七五調。

   見し、=あるいは「見じ。」か。

   松の戸=松の板で作った扉。山中の住家を連想させる。

   あけ方=「押し開け」と「明け方」を掛けるか。

   竇中行=竇常(749〜825)。中唐の詩人。中行は字。「雲埋・・・」は「三体詩」

    所収の「香山館聴子規」の転句・結句。人気のない山中は老樹が雲に包まれ、

    さながら千声のほととぎすが一斉に飛び立つようだ、との意。

   覚えしか=「語り手がそう思った。」と解釈したが、係助詞「こそ」がない。

    「覚えしが、」とも取れるが、「つやつや」から場面が転換していて不自然。

   つやつや=(下に打消しの語を伴って)まったく(~でない)。

   おしまづき=①脇息、ひじ掛け。②机。

   「青天・・・=この応酬には典拠があるのだろうか。僧都の「とこそ聞きしか」

    というのは、そのような詩句を聞いたことがあるというのか、「あれは晴れて

    いるのに木の実か落ち葉がパラパラと雨のように降っているのだよ。」と答え

    ているのかどちらだろうか。それに松寿君は対句で答えている。当意即妙な唱

    和であるとすれば、即興のやり取りと考えた方が面白い。ただ、日本国語大辞

    典」によると、「本朝無題詩・六・別墅秋望(釈蓮禅)」に「木葉声声黄落雨

    峡煙処処翠微山」の句があるようだ。翠微には「薄緑の山」と「山の中腹」の

    意味がある。

   ひとり跳ぬべき=霰は跳ねるが、自分の心は跳ねる(心弾む)ことなく、の意

    か。

   蛍の光・・・=「蛍雪の功」の故事による。日々修学に励んで神童と呼ばれるよ

    うになった、の意。

   その朋=「朋自遠方来、不亦楽乎(論語・学而」を踏まえる。

   かごと=口実。託言。

  さはある中にも、またなくあはれに覚えしは一条郎と聞こえし人なめり。

 この人は無下に志大にして、今の世の人、人にあらぬを恨みて、

 「ただ賢げにものうち言ひたる、*まこと少なきをのみやは言ふ。世に住むべく思はんほどは、世のうしろめたからで、人をも人になさばやと、日に月に思はれしかども、会ふに会ふ時なくて止みぬ由。さはさらばあれ、人を正さんより己を守らんこそ、他に誉あらんより内に煩ひなからんこそ、身の尊からんより心の卑しからぬこそ。仕へ苦しき世にしあれば、裂きけん胸も何ならず。」

 とまめやかに思ひ定めて嵯峨野の奥に閑居してぞありける。

 あやしの柴の扉(とぼそ)なれども住む人からの明け暮れなれば、折に触れたるあはれ、などかなからん。花の下、緑の陰、月の夜、雪の朝、心のままのよすがなりける。*松房に雨を聴きて眠れば香燼一炉に残り、竹院に風に嘯いて、挿せば燭光*四壁に寒し。

 もとより思ふほだしもなければ、野山などさまよひありきて、帰る家路を忘るる事なりける。

 春の暮れつ方、さらぬ深山の奥までも訪ね入る事侍りしに、野寺の鐘かすかに聞こえて、夕陽西に傾けり。「よしや今宵は花の陰にも宿らまし。主はなどかなからん。」と立ち寄りつつやすらひゐたるに、「*風静まりて花猶落つ。鳥鳴いて山更に幽かなり」と詩の心もあはれに思ほえけるに、あなたの松の陰に、艶に優しき児の、*秋山の紅葉まだ若葉がちなる縫物したる装束なるが、いと若き法師あまた連れて花を折らんとしていつくしき手して、前なる枝を撓め給ひけるに、降るとも知らぬ花の雪の、御顔に散りかかりければ、*志賀の山越えならねど、これも花の吹雪は払ひもあへずと立ち返り、うち笑みたるけはひ、言ふばかりなく物にも似ぬ。「これらはかやうの人の居たるべき所にもあらぬに。」と行く先知らまほしくて、あからめもせずまもりゐたるに、健やかなる仕丁の出で来て、輿舁き据ゑければ、やがてうち乗りて、*山の腰に大きなる御堂のある内にぞ入り給ひける。

 猶、訝しくて追ひつつ行きて、初めよりのことども問ふに、下法師のとどまりて、「これぞ名高き雲の上の松寿君なりける。僧都のこれにおはしましける寺などもの古りにたれど、名所(なところ)多し。行き暮れ給へるにや。今夜はこれに。」など言ふに、「*いしうもたより悪しからず。」と差し入り居たり。

(注)まこと少なきをのみやは言ふ=逐語訳すると、「誠実さの少ないことばかりいう

    のか(いやいわない)」となり、文脈に会わない。小賢しくて誠実さがない、

    と解釈しておく。

   松房=竹院と対をなして、「庭に松が生える房」「庭に竹が群がる院」。

   四壁=四方が壁だけの粗末な家。

   風静まりて花猶落つ。鳥鳴いて山更に幽かなり=「風定花猶落 鳥鳴山更幽」は

    異なる詩句を取り合わせて対句としたもの。集句というそうである。「風定花

    猶落」は陳の謝貞、「鳥鳴山更幽」は梁の王籍の詩の一句。宋の王安石が集句

    したという。禅語として茶席に掛け軸として掛けられるという(茶席の禅語大辞

    典時代等)。時代は下るが、良寛の集句詩に「風定花猶落 鳥鳴山更幽 観音

    妙智慧 千古空悠々」がある。

   秋山の紅葉まだ若葉がちなる縫物=秋の山の紅葉は今は春なので青葉勝ちである

    がその青葉のような青葉色の、または青葉模様の刺繍、という解釈が正しけれ

    ば、なんともまどろっこしい形容。

   志賀の山越え=近江国大津から京都北白川に出る峠道。後拾遺集・春下・137

    「桜花道見えぬまで散りにけりいかがはすべき志賀の山越え(橘成元)」

   山の腰=山の麓近く。

   いしうも=「美(い)しくも」で、うまいことの意か。

 

 夜明けければ、僧都の寺に至りて、ここかしこ見ありくほどに、僧都の出でて、

 「優しうも訪ね入らせ給ふものかな。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨ながらも思ひ遣るあはれは、誰人もあるにこそあれど、今更に捨て難きは、花の下に帰らんことを忘れ、月の前に思ひを陳ぶる習ひなるべし。

 かかる*八重葎(もぐら)へも春の来る道はありて、梅が香のなつかしきよりして、桜の色ことなるをだに、*荒むべき人もなければ、我のみ*見栄(みはや)さんもあぢきなく、色をも香をも知る人にこそ、折てもやらめ、来ぬ人をば花もやは、さは待ち果つべき。雪とのみ降りなまし。いとど惜しからぬかは。と言ひもて侘ぶる甲斐ありて、かく*まれ人に会ふなることよ。

 僧たち出でて慰めよかし。松寿はなどは詩歌をば詠じ給はぬぞや。」

 とのたまふほど、松寿君も出で給ひぬ。

 緑の髪、雪の膚(はだへ)、御目の麗しさ、御言葉の潔さ、まことにこの世に人とも覚えず、猶*見勝りてぞ侍りける。

 さて、題など出して人々造りあへる中に、まづ院主なればとて、僧都

  *洞門深鎖自無為(洞門深く鎖して自ら為す無し)

  春到不知経幾時(春到りて知らず幾時をか経ることを) 

  忽被遊人勾引去(忽ち遊人に勾引せられ去りて)

  残花猶看両三枝(残花猶ほ看る両三枝)

 となん誦(ず)んじ給ふ。一条、

  *三日出家身未還(三日家を出でて身未だ還らず)

  山桜爛漫雨如烟(山桜爛漫雨烟のごとし)

  縦然春色渾看了(縦然《たとひ》春色渾《すべ》て看了《をは》るとも)

  猶有松花開那辺(猶ほ松花有り那辺に開く)

 と書き付け押し畳みて、「これは松寿君へ。」など言ふに、僧都もよろしと見給ふ。「*絶唱に和なしと昔より言ひ来にければ、我らはいかがなすべき。」などのたまひて、*題をぞ作り給ひける。松寿君

  *非熱非寒午睡身(熱きに非ず寒きに非ず午睡の身)

  春風座上火炉新(春風座上火炉新たなり)

  桜花豈是閑居物(桜花豈に是閑居の物ならんや)

  渡水吹香解引人(水を渡り香を吹きて人を引くことを解す)

  隠れ家の花なりながら山桜あやなし香をも世に漏らすかな

 詩は*李杜の林より出で、歌は山柿の門より来たる。詞艶にして心優なりければ、僧都微笑みて、猶ほ僧たちの詩を請ひ給ひけるに、雲樹院の律師、

  *琴薬修来不出山(琴薬修し来りて山を出でず)

  禅心日日遠人間(禅心日日人間《じんかん》を遠ざかる)

  芳菲只在曲肱上(芳菲は只だ曲肱の上に在り)”

  吹夢春風白昼閑(夢に吹く春風白昼閑かなり)

 となん詠じて、いと興じ給へりける。

 一条も、「今は家路に帰り侍りなん。また来んほども頼め置きてよ。」とて出でぬ。

(注)八重葎=やえむぐら、とも。むしろこちらの方が一般的。雑草。

   荒む=心のおもむくままに慰みごとをする。慰み興ずる。

   見栄さん=見てほめる。

   まれ人=客人。まろうど。 

   見勝り=前日に遠目に見たのよりも、近くで見ると優って見える。

   洞門深鎖自無為=七言絶句。巧拙は弁じ難いが、平仄にはかなっているようであ

    る。類詩などはないようなので、語り手が自分で創作したのではなかろうか。

    「嵯峨物語」の作者には漢詩の創作・鑑賞の整った環境にいる者、五山の僧な

    どが想像される。詩の意は、「ひっそりとした家にいると、遊人が急にやって

    きて花をすべて持ち去り、ニ三の枝しか残っていない。」という意か。遊人

    春の風の比喩か。「洞門」は寺の門だろうが、「曹洞宗」をも連想させる。

   三日出家身未還=「松花」は伝説によると千年に一度咲く松の花。松寿君暗示す

    る。詩の意は、「家を出て三日、山桜が爛漫としている。春が尽きてすべてを

    見終わっても松花のような類まれな稚児、松寿君はいつまでもここにいるでし

    ょう。」との意か。

   絶唱=この上なく優れた詩や歌。

   題=一条郎の漢詩があまりに優れていて誰も唱和できないので、別に題を出した

    ということか。しかし、この後の二首も春がテーマである。あるいは前二首は

    「残花」というような題で、後の二首は「春風」という題であったか。

   非熱非寒午睡身=起句承句は、「昼寝をしていると厚くも寒くもない。春風は肌

    寒いが炉に新たに火を起こしたから」。転句結句は「桜の花はただのんびりし

    ているのか、いやそうではない。水を渡って香りを吹き届けて人々を引き付け

    ていると理解できる」。と解釈できるが、つながりがよくわからない。

   あやなし=筋が通らない。無意味である。

   李杜=李白杜甫。両者とも木にかかわるので林と言い、山柿は、山部赤人(一

    説に山上憶良)と柿本人麻呂。対句として門と形容した。

   琴薬修来不出山=「琴薬」は略本では「琴菓」。いずれにせよ意味不明。あるい

    は「琴楽」か。「禅心」は禅定の心。乱れない心。「曲肱」はひじを曲げるこ

    と。ひじを曲げて枕にすることから、清貧の内に閑適を楽しむこと。全体の意 

    味としては、「『琴薬』を山を下らず、悟った心は人の世から遠ざかる。貧し

    い住まいには草花のよい匂いが漂う。夢の中を春風が吹くようでのどかな昼で

    ある。」ということであろうか。

 

  こよなう慰むことなりながら、松寿のことのみ心にかかりて、*わくかたもなかりければ、「我ならずの心もこそあれ、世をも捨て世に捨てらるる身の程の、かくあるべきものにもなしに。」と思ひ捨て侍りけれども、猶いやましにのみして、寝ぬれば夢、覚むれば現、*雨となり雲となる朝な夕なの物思ひなりければ、はや書き遣る言の葉もあまたたびなりける。

 されど一たびの答(いら)へもおはしまさず。せめて余所ながらの姿もやと、*律師の院に至りてければ、律師もあはれに覚えて、

 「法師ばかりよにすげなう思はるる*ものから、猶これらやうのことは我が身にならばこそなれども、いかに物憂く思しめすらん。御心をば推し量らるるものを。*最上の川の稲舟の、いなせの程は知らねども、松寿君の御心をば*引き見侍らん。」

 と言へば、いと頼もしくうれしきにもいとど涙ぞこぼれける。

 律師、松寿君に至りて、いにしへ今の物語などして、

 「さてもこのほどの事どもいかに思すにか侍るらん。これは例ふべきにはあらねど、吉野、初瀬の花紅葉も見る人故の名なるべし。さのみに一人のみつれなく過ぐさせ給はんも、いとさうざうしくうたてぞ見ゆる。空に名高き望月も隠るに程やはある。春更け、夏長け、秋過ぎて、稚けなかりし人も、見るうちに雪の頭(かしら)とぞなんめる。仏の*通を得しも*鷲峰の雲に隠れ、孔子(くし)の*ゆほびかなるも*泗水の沫(あわ)と消えぬ。その外貴き賎しき、一人としてとどまるべき身にしあらず。

 かほどあだなる仮の世に、さのみに人を悩まし給はんも、*人我(にんが)の罪深く、仏の御教へにもさこそは違はせ給ひけんとぞ覚ゆる。

 今日は折しも雨の内にて、つれづれいと耐へ難ければ、こなたへなど言はせ給はんには、いとつきづきしからん。」

 など細々に語らひけれども、とかうの御返事もおはしまさねば、律師も諫めかねて、「*岸根に生ふる浜菱もなみかかることはあるなるものを。」とかこち顔にて出でぬ。

 一条郎はまた、律師の出でしより*吹く山風の*おとづれに竹の葉そよぐ音までも、応(おう)とやは言ふ否(いな)とやは言ふと心を千々に動かしけるに、律師のまうで来たりて、「*常盤の山の山高み松を時雨の染めかねつ。」とのたまふにぞ、いまさら栓方なかりける。その夜は律師にとどまりて、夜すがら涙に臥しにけり。

 (注)わくかたもなかり=「わくかたなし」は心を散らすことがない。他の事が考えら

    れない。

   雨となり雲となる=「巫山の雲雨」を踏まえる。楚の懐王が夢で神女と契りを結

    び、別れ際に神女が、「私は朝には雲となり、暮れには雨となりましょう。」

    と言ったという。恋い慕うことの形容。

   律師=前章に出てきた雲樹院の律師であろう。僧都の院の近くにいたのだろう。

   ものから=逆接の接続助詞。~けれども。

   最上の川の稲舟の=最上川で使われた耕作舟。いなせ(否是)を引き出す序詞的

    表現。

   引き見=引き出してみる、試す。

   通=神通力。

   鷲峰=霊鷲山。釈迦がしばしば説法をした山。理想世界を象徴するものとされ

    る。

   ゆほびか=原文「いおひか」。ゆったりとしている。深遠で奥深い。

   泗水=孔子の生地、曲阜を流れる川。「泗水の学」は儒学。「泗水の流れを酌

    む」は儒学の教えを引き継ぐ、の意。

   岸根に・・・=「岸根」は水際。「浜菱」は植物。菱とは違うようであるが実に

    鋭いとげを持つ。そのようなとげとげしい浜菱にも水際であれば浪がかかると

    いうのであるが、「なみかかる」が意味が分からない。悲しみの涙を流すこと

    がある、の意か。浪が打ち寄せるように心を寄せる、の意か。「浪」と「靡

    く」を掛けているのか。

   吹く山風=前の場面で「今日は折しも雨の内」と律師が言っているのに雨音では

    なくて風の音で例えるのはちぐはぐな感がある。

   常盤の山・・・=「時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉は(新

    古今・巻六冬・577)」。

 

  夜明けて、松寿君のおはしける所へなん到りて、ものの隙より窺ひけれども、時しもおはしまさざりければ、立てる障子の端にかくぞ書き付けける。

  *標格清新早玉成(標格清新早く玉成す)

  問斯風雨豈無情(問ふ斯の風雨豈に情無からん)

  怨魂一夜同床夢(怨魂一夜同床の夢)

  落月疎鐘却易驚(落月疎鐘却つて驚き易し)

  *それと言はば百夜が千夜も通はめど絶えて音せぬ人いかにせん

 それよりして、ただ*数ならぬ身をのみ恨みて、後世に障りなき身の今更に*恋の奴となれることよと思ふに、涙さへ尽きて、露払ふべき寝覚めも今はなかなか昔なりける。

 律師も猶憐れなることに思ひしかば、とかく言ひ含めて松寿君の御返事をなん取りて遣はしける。一条驚きて見るに、律師のと思しくて、「須磨の海人の綱手も弛く引く網の*余所にみるめもいたはしくて、やうやう言ひしつらひて、松寿君の御返事を取りて。」など細やかに書きたり。

 あはれこの人の情けばかり世に類ひもあらじとうれしくて、松寿君の御返事を見るに、一首の詩歌ありけり。

  *錦字慇懃織得成(錦字慇懃に織成るを得)

  無情未料又多情(無情未だ料らず又多情)

  君恩元是如朝露(君恩元是れ朝露のごとし)

  薄命一時何足驚(薄命一時何ぞ驚くに足らん)

  *それと言はぬまをこそ我は通はめれとはで音する人のなければ

 となん書き給へり。

 さては御心の解けさせ給ひけるにやと、一条、心空にのみなりて、踏む足さへ留まるべくもあらざりければ、律師のがり行きて、このほどの情けありし事ども、懇ろに語らふ。律師もやんごとなくて、「松寿君に見え給はんや。いと妬(ねた)ふ。」など言ひ戯れけるに、松寿君の母君のお使ひなりとて参れりけり。

(注)標格清新早玉成=「標格」は優れて高い品格。「玉成」は宝石のように立派にな

    る事。「疎鐘」は時折り鳴る鐘。詩の意は、「若くて立派なあなたはこの風雨

    に情を催さないのですか。一夜同床の夢を見て恨めしく思っている私は熟睡も

    できず、西に月が落ちて明け方の鐘が間遠に鳴るのにはっと目が覚めるので

    す。」か。

   それと言はば・・・=イエスと言ったら幾夜でも通うのに、の意。漢詩を要約し

    ている形。

   数ならぬ身=取るに足りない身。

   恋の奴=恋の奴隷。

   余所にみるめ=「傍から見る目」の意だが、海松布(みるめ)を掛けて「海人」

    や「綱手」の縁語としている。

   錦字慇懃織得成=一条の漢詩に韻字を合わせて唱和している。「錦字」は、錦に

    織り込んだ文字。妻が夫を慕って送る手紙。前秦の竇滔の妻が遠い任地の夫を

    慕って錦に長詩を織り出して送った故事による。「君恩」は主君の恩。それが

    朝露の様だったというのは判じ難い。「君恩」を「あなたの思い」と解釈する

    のか?詩の意は、「あなたから丁寧なラブレターを戴きました。無常と言いま

    すが多情かもしれませんよ。あなたの思いは朝露のようにはかない。運の悪さ

    も一時の事、気にすることではありません。」一条が喜んだのだから、松寿君

    の方でも心を許す内容なのだろうが、よくわからない。

   それと言はぬ・・・=各句の初めが、「それと言は・も(ま)・かよはめ・た

    (と)・人」と同じであったり、近い音であったりと、漢詩の唱和に近い趣向

    である。「まを」が未詳。「間を」か。「かよはめれ」は「かよふめれ」とあ

    るべきところ。音を合わせるために無理をしたのか分かりづらい。歌の意は、

    「はいとも言わずに私は行ったり来たりしているようだ。訪ねてくる人もいな

    いので。」か。

 「父中納言殿、御心地例ならずなやませしかども、そぞろ風にもやとうち過ぎぬるに、俄かにしもいとあやしく見えさせ給ひける。御自ら急ぎ都へ。僧都も誘(いざな)ひ給へ。御祈りのために。」など聞こゆ。

 松寿、さていかにと驚き給ひて、僧都にしかじかと告ぐ。やがて僧都連れ立ち出で給ふ。松寿、律師を近づけ給ひて、

 「かばかり人の思ひ深かりけるに、つれなく見過ぐしける事、今は我ながら物憂く思ひ返し侍るぞや。いかにいぶせく思しつらんほども思はれて、いと*面なからずしもあらず。しかるに猶、それとも*思ひ下げ給はず、昨日より訪ひ来し給ふなど聞けば、うれしく見奉りて、細やかに物語などして、心のゆかんほどはありし事ども言ひ分かんなど思ひつるに、かう図られぬ事のあれば、力なくうちやみぬ。今よりはただ 人の思ひ捨て給はんをこそ、猶ありがたく思ひ侍るべけれ。これらよく申させ給へなん。*たちの名残りも多く、かへさもまたいつのほどにかあらんずらんと思ふに、涙の。」

 などのたまひて、御袖を絞り給ひければ、律師も、「げにや。」とばかり言ひやりたる方なくて、立ち別(あか)れぬ。

 一条郎にかくと知らせければ、とにかうにはかなき契りの程言はんもとて泣くばかりなり。

 (注)面なからずしもあらず=面目なくないことはない。面目ない。

   思ひ下げ=見下す。軽蔑する。

   たち=「立ち」あるいは「館」か。あるいは「直路(ただじ)」か。「夢の直 

    路」は夢で恋しい人のもとへまっすぐ進むこと。

 

  松寿都へ帰り給ひければ、母君待ち取り給ひて、

 「さてもや久しく見もし見えねば、いかにいかにと思ふのみかは。生ひ立ちもいかばかりにかならせつらめ。自ら好ける道には所をしも言はねど、山里はものの侘しき事のありと聞けば、さこそはつれなく、慰む方なう侍らせ給ふらめと、人の親の子を思ふばかりやるかたもなかりしに、いとうつくしく生ふし立つる。学びもまた卑しからぬなど言へば、*いかにうれしく覚え給へるぞや。猶、父中納言殿の御いたはりのみよくならせ給はんには、よにまた悲しき事やはあらん。」

 とて御袖を絞り給ひける。

 松寿、父の御枕に寄りて、「なでうかう弱らせ給ひけるぞや。松寿もこれにありけるものを。」とのたまひければ、少し*御髪(みぐし)をもたげさせ給ひて、「我が身なからむ後、君によく仕へてよ。」となんのたまひて、その後は御言葉もなかりけり。

 宮寺の御祈り・*ほきましなひしかども、無常の世の中、*有待(うだい)の身の上なれば終にはかなくならせ給ふ。

 さてもやはあるべき事ならねば、*鳥部野の夕べの煙となし奉る。親しきうちのお嘆きはさらなり。上は君をはじめたてまつり、下は賤しき*丁(よほろ)までも、この人のためにぞ悲しみ侍りける。

 昔、唐の*魏徴が薨ぜし一臣、鏡を失ふことを嘆き、宋の*温公の喪に、百姓(はくせい)衣を鬻(ひさ)いで祀るためしもかくやと思ひなん出でられける。

(注)いかにうれしく=尊敬語が使われているのでうれしく思うのは、父中納言であろ

    う。

   御髪=頭。首。

   ほきましなひ=「祝(ほ)ぎ呪(まじな)ひ」か。辞書にはない言葉。

   有待の身=生滅無常の世に生きるはかない身。

   鳥部野=鳥辺山。化野(あだしの)と並ぶ京都の火葬場。

   丁=国家のために徴発されて使役された人民。

   魏徴=初唐の政治家。諫臣として知られ、その死に際して皇帝太宗は「この一臣

    を失うことは鏡を失うようなものだ。」と嘆いたという。

   温公=北宋の政治家、司馬光。没後「温国公」に封ぜられた。死に際しては、

    「宋史」(維基文庫)によると、人々は「鬻衣以致奠」(自分の着物を売って

    まで供物を供えた。)とある。温和な性格で百姓から慕われたという。

 

 やがて後々の業も程なく終りければ、松寿、内裏(うち)へ参上(まうのぼ)り給ふ。君も故中納言、*世にいたはり 多き事など思し出でて、その日松寿に*初冠(うひかうぶり)させて、中将康頼とぞ申しける。

 一たび君王に見え給ひしより、すべて叡慮にかなひしかば、常に御座(おまし)近く*なれまつはし給ひて、*あかぬ名残りを思しめし給ふ*故、中納言おはしける所は、*西の京なりけるを、内裏近き所なんよろしく侍らんとて、*一条室町に殿造りして移らせ給ひける。

 かく君のいとほしみ、片方(かたへ)に人なきばかりなれば、左右の大臣の公達もうらやましきことになん思ひ給へりける。

 中将は*枉(ま)げてそれとも思ひ給はず、

 「我、いにしへの人の仕へし道をもて、かくあるものにあらば、まことに忠孝の身とも言ひつべし。何せんは、移ろひやすき色をもて、仮の叡慮を貪らんは、君を正し、父を顕はす道にあらず。

 君見ずや、漢の*董賢が幸せられし、*鄭崇諫めて不可とす。衛の*弥子瑕(びしか)が行ひをもて、後の世を見つべしと、まのあたり、史の文にも見えぬるものを。」

 といやましに慎み給ひければ、君もその心ざしを恥ぢ、人もその徳になつきて、仰ぎ奉り侍り。

(注)世にいたはり=人々への慈愛。

   初冠=「最初の爵位として五位に任ぜられ、仕官すること。」(精選版日本国語

    大辞典)とあるが、「中将」は、従四位下相当官。亡父の遺徳によっての抜擢

    か。

   なれまつはし=親しく傍にいさせる。

   あかぬ名残り=中将が退出した後の空漠たる感情か。

   故、中納言=大成本では、「故中納言」としているが、続群書類従本、続史籍集

    覧本に従って、接続助詞「ゆへ」と取った。

   西の京=平安京の西の部分。都市として発展せず荒廃していた。有力貴族はこぞ

    って左京(東の京)の内裏近くに住んだ。

   一条室町=時代によって内裏の場所が異なるが、いずれにしても内裏から至近距 

    離であったろう。

   枉げて=「無理にでも」の意だが、下に打消しの語があるので、「決して~な

    い」の意か。

   董賢=漢の哀帝の寵愛を受けた官人。

   鄭崇=哀帝に仕え、董賢を寵愛するのを諫めた。

   弥子瑕=「序文 その2」、「桃余の罪」のところで触れた。寵愛の厚さに驕慢

    になっていると寵愛が衰えた時には罪を被ったという例。

 

 さて一条は、中将都へおはしけるより言ひ入るべき術もなく、また思ひ絶えん心にもあらねば、あまりの事に京の方に出でて、ある*古御所様(やう)の*しるべあるに到りて、よろづの事など語り合ふて心遣ることなりけるに、*本源の侍従一条が名をのみ聞きて、その人は未だ見給はざりければ、この頃中将殿の振る舞ひの大方ならぬ事など言ひ出だして、

 「嵯峨野の奥に、なにの世捨て人とかや、思ひ懸けてありしが、今もあはれに思しける由、一日もおほせられしか。」

 など語りけるに、一条胸躍りて、やがて「かく」と頼みければ、侍従、安き事にして、文をなん伝へ侍り。中将、

 「思ほえずの御文なりけり。*うらめづらしく見給はん。」

 など*戯れて 開き給へば、いつもよりやさしくて、奥に一首のからうたを書けり。

  *一片忱誠尽不成(一片の忱誠尽くせども成らず)

  鯉沈雁断叵伝情(鯉沈み雁断えて情伝へ叵《がた》し)

  梧桐雨渡風灯底(梧桐雨渡る風灯の底)

  寤寐思君暗地驚(寤寐君を思ひて暗地に驚く)

  *いかにして身をも恨みん心をば君にとどめて我ならなくに

 いとあはれに思しけれども、朝(てう)に暇なかりければ、*徒言(ただごと)にてうち過ぎぬ。一条は侍従のみして、*言はせけれどもその甲斐もなかりけり。

  年も暮れて、今日のみ名残りなりける日、また文を書きてやる。古き詩を引きて、

  *思君令人老(君を思へば人をして老いしむ)

  歳月忽已晩(歳月忽ち已に晩るる)

  *年の尾も人のつらさも今日のみとなさばやものを思はざらまし

 となん詠じて遣はしける。

(注)古御所=古い邸宅。

   しるべ=ゆかり。知人。どのようなゆかりかはわからない。

   本源の侍従=かつて松寿を僧都に紹介した者。一条郎とは初対面。名前だけは知

    っていたが、それが松寿君を慕う男と結びつかなく、世間話として話題とした

    ようであるが、シチュエーションや情景が想像しづらい。

   うらめづらしく=続史籍集覧本「うらめしく」。こちらの方が意が通じる。

   戯れて=なぜ「戯れ」なのか。「どうせ憎まれているのだろうな。」といった自

    嘲的な感情だろうか。

   一片忱誠尽不成=かつての漢詩のやり取りと同じ韻字。「忱誠」はまごころ。

    「鯉」や「雁」は手紙を象徴する。「風灯」は風前の灯火、はかないもののた

    とえ。あるいは消えそうな灯火の実景か。「寤寐」は寝ても覚めても。詩の意

    は「私の真心を込めた手紙の思いは伝えられず、あおぎりは雨に打たれて命の

    灯は消えそうで寝ても覚めてもあなたを想い暗闇の中でおののいているばかり

    だ。」か。

   いかにして・・・=どのようにして我が身を恨もうか、恨みようもない。心をあ

    なたに預けてしまって私は私でなくなっているから。

   徒言=和歌や漢詩を用いない日常的な言葉。

   言はせけれども=何度も書き送ったか一度だけなのかはわからない。

   思君令人老=「行行重行行」(文選・五言古詩十九首其一)の十三・十四句。遠

    い旅に出ている夫を想い妻が詠んだもの。

   年の尾も・・・=「年の尾」は年末。「年の緒」なら年月。歌の意は、「年末も

    私のつらさも今日を限りとすれば、年が改まった明日からは何も悩み事がなく

    なるだろう。」。

 

  あらたまの年も来りて常なれど、今めづらしく*日影ものどやかに、うるはしき空の気色、人の心も喜ばしくなりて、歌など奉る人多かりければ、*仙洞にて御会の御事あり。中将も参れりけるに、立春の心をとて、

  ひととせの行き交ふ空の曙に霞や早き春や先立つ

 これにしもあらず、詩歌に御心をやりて、*風月の方をこととせられしかば、折節の移り変はるにつけても、あはれをのみぞ述べられける。帰る雁を詠める。

  秋に来て春には帰る雁がねの月にや花の劣るものかは

 春の暮れに、

  *青柳のいとはかなくも見ゆるかなさりとて春を繋ぎとめねば

 *芳草夢なほ残りて、秋声枕に来らんとす。春もまた暮れて、卯月一日になんなりにける。

 今日は衣更へとて山里におはしける時、故中納言殿、装束など仕立て賜はせけることども思し出でて、

  *夏衣花橘の香をしめば今日も昔になりぬべきかな

 同じき十三日は父の忌日なりとて、御仏事などとり行はせ給ふ。

 夕べになんかかりて、中納言殿住み来し給ひける西の京へ到りて、昔恋しう思し出づるに、いとどあはれぞまさりける。

 げに移り行く世の例、言はんもさらなれど、心ある際は、今一入(ひとしほ)悲しかりぬべし。いともかしこう住みなしたる所も、*臥す猪の床となりもて行くぞわびしきや。

 さればこの所は故中納言殿、居渡り給ひしかば、玉の礎、黄金の砂(いさご)を敷きて、美麗をなん尽くし給ひける。ことさら帝の御覚えも盛んにして行幸度々なりければ、春は花を見るによろしとて、園生作りて木を並べ、秋は月を得るに便りとて、池を掘りて水を湛ゆ。様々興あることなりしに、いつの間にかは荒れ果てけん、*草深き伏見の里も遠からず、*鶉鳴く磐余の野辺も今目の前に、見るより早き御袖の涙も詮方なければ、さすがに名残り多くて、知らず夜更かし帰り給ふ。

(注)日影=日の光。

   仙洞=仙洞御所。上皇の御所。

   風月の方=自然に親しんで作る詩歌。

   こととせられ=専念する。熱中する。

   青柳の・・・=「いと」が、いと(とても)と糸の掛詞。「いと」と「繋ぐ」は

    縁語。

   芳草・・・=特に典拠のある表現ではなさそう。春だと思っていたらあっという

    間に秋が来る、という意味だろうが、晩春と初夏をつなぐ表現としてはどう

    か?

   夏衣・・・=「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集・伊

    勢物語)を踏まえる。

   臥す猪の床=草を折り敷いた猪の寝床。

   草深き=草深い伏見の里と近い(似たような)状態。距離的な遠さではなく。

   鶉鳴く=やはり鶉の鳴くような草深い。磐余は奈良県桜井市の地名。歌枕。

 *三年父の道を改むる事なきをもて*孝子の道とすることなるを、勅なれば否ぶべきにはあらねど、幾程なくて住み替へし事の空恐ろしく、罪深き事に思ひ給ひて心憂く思し煩ひけるに、本源の侍従出で来たりて、去にし事など引き出でて言ひ慰めけるが、いと卑しからず書いたる文なん取り出だして、「これ見給へ。」とて奉りける。中将開きて見給ひけるに、一条郎が手して、

  *恋しなん後にあはれや知らくべきいきてしとふはかひなかりけり

 となん詠みける。

 「まことにかく言ひやまず人のなん侍りけるを、知らず顔にて過ぐさんも、わりなく思ひ知らぬやうなれど、知ろしめすらんごとく、故中納言みまかりて後は政事にのみ紛れぬれば、*心得ぬ事のみ多し。いつはとはなしに、ふとこそ*訪ひ給はめれ。」

 かく申させ給へとて、侍従を帰し給ひける。

 一条、この由をなん聞きて、つらきものにして*永らへまうき命も今は惜しくのみなりて、今日や人の到り給ふ、明日や中将の来たると、日々門に倚れども、その人も見えざりければ、*王母が桃を持ちてまた花もや咲きぬらんと、なかなか頼めざらんより、心苦しみ覚えける。

 中将は、暫くの暇もあらばと思し忘れず思しけるが、*八月二十三夜、月出づる間はとて、出で立たせ給ふ。お供に誰彼など急ぎて馬引き寄せ、うち乗りていと慌ただし。夕闇たどたどしくて道も見えず。*そことなき野原かき分け行くに、*みぎりにすだく虫の声、流るる谷の水の音、稲葉そよめく秋風は、夜更くるままに身に染みて、心ある人やいかにと、もののあはれに御心を悩まして訪ね到り給ふ。

 荒れたる宿の寂しげなるに、透垣などここかしこ、由あるさまなり。夜いたう静かにて、音もなければ、人静まりけるにやと、しばし佇み給へば、童部の行き交ふほど、明り障子に見えて、いと幽かなり。

 やがて門たたかせければ、いとあてなる*をのこ出でて、「これは問ふべきにもあらぬに、いづくよりぞ。」と言ふに、「さるお方の忍びて入らせ給ふぞ。さぞな咎めそ。」と言ふを、一条もしやと肝つぶれて、立ち出でつつ見るに、まがふべき程にもあらねば、やがて案内して入りぬ。

 *無期(むご)の事に、とりあふべきいとまなけれど、匂ひしめやかに香りて、*御酒(みき)などよきさまにとり行ひけり。持てる御杯の上にて、

 「とみにも訪はまほしけれど、思ふに怠る障りのみありて。」

 など聞こえ給へば、

 「山里に隠れぬる、*名のみことごとしくて、にげなき物思ひに苦しき事のみ多かりけるに、今宵ぞ忘るるやうなる。ありがたき情けの程も身に余るばかりなり。」

 と言ふに、差し出づる月もまだ山の端にて、野面(のもせ)の虫の声々なるも、折知り顔なり。置き渡す露までも、なべてならぬあはれと見るに、ありし事ども言ひ出でて、つきせぬ御物語に、*枕を寄せさせければ *名のみなる秋の夜にて*ことぞともなく明け過ぎぬ。東雲(しののめ)のいとほの暗きにぞ帰り給ふ。

  *西山一夜送君帰(西山一夜君帰るを送る)

  夢入白雲深処飛(夢白雲深飛ぶ処に入る)

 と言ふもこれらの事にや。

 その後よりは、親しくのみなりまさりて、この人漢和の事に富めりとて、公(おほやけ)の事など語り合はせ給ひける。

 

 今はなき世の事なりけるとぞ。

 

 *見る人の袖より袖に移すなり涙かきやる水茎の跡

 

 某日某時

 

(注)三年父の道=論語・学而篇一「子曰、父在観其志、父没観其行、三年無改於父之

    道、可謂孝矣。」とある。生前は父の志をよく観察し、没後はその行いを思い出し

    三年間父の行いの通りに行動するのが孝というのである。三年は服喪期間にもあた

    る。

   孝子=原文「かうし」。「孔子」の可能性もある。

   恋ひし・・・=「恋ひしなん」は、恋ひし+なん(係助詞)ともとれるし、恋ひ

    +死なんともとれる。「いきてしとふ」は、生きて+慕ふとも、生きてし+問

    ふともとれる。「死なん」「問ふ」と解釈した。

   心得ぬ事多し=この年の1~4月に四首の歌を詠んでいるし、季節の折々に詩歌

    を述べたとの記述がある。朝廷での詩歌の披露と、私信としての詩歌のやり取

    りとは性格が違うかもしれないが、読み手に対して周到な表現とは言い難い。

    普通に読むと苦しい言い訳に感じられる。

   訪ひ給はめれ=この後、一条郎は中将が訪れるのを待っているのだから、主語は

    中将だろうが、そうすると自分に「給は」と尊敬表現を使っていることにな

    る。「給はめれ」は、「給は(未然形)+め(意志・已然形)」か「給ふ(終

    止形)+めれ(婉曲・已然形)」であるところ。

   永らへまうき=生きているのがつらい。

   王母が桃=王母は西王母。仙女で漢の武帝に不老不死の桃を献じたという。仙桃

    は三千年に一度しか実を結ばないという。

   八月二十三夜=二十三夜は下弦の月が深夜に上り、月の出を待つ行事(月待)を

    行ったりする。ただ、1・5・9月に行うところが多いようである。ここは公務

    多忙な中将が、深夜から夜明け限定で会いに行こうとしたということか。

   そことなき=そこら一帯の。

   みぎり=①庭、軒先。②場所。③水辺。②か。

   をのこ=原文「おのこ」。「あてなる」とあるから、上品な成人男性、一条郎を

    指すのであろう。

   無期=長い時間。「突然の事で」だったらすとんと落ち着くが、「長い時間たっ

    たので」対応する余裕もない、というのは解しかねる。ずいぶん長い間放って

    おかれたので、接待する準備も整っていない、との意か。

   御酒=酒。執り行ったのだから、酒宴、酒席であろう。

   名のみことごとしく=名前ばかりが大げさである。一条という名前が山里に住む

    身には似つかわしくなく大げさというのか。「光源氏、名のみことごとしう」

    (源氏物語・帚木)の用例がある。

   枕を寄せさせ=これは文脈上、同衾というよりは宴を果てても床を並べて語り合

    った、という感じか。

   名のみなる=「秋の夜長」というが、それは名ばかりであっという間に過ぎてい

    く。

   ことそともなく=あっという間に。

   西山一夜送君帰=「と言ふも」とあるから、典拠があるのだろうが、確認できな

    かった。句意も、名残りの惜しさを語っているのだろうがよくわからない。

   見る人の=この末尾の和歌が作者か書写した人の作かわからないが、申し訳ない

    が、涙するほどの悲しさは感じられない。「うつす」は移すと写すを掛け、

    「かき」は、掻きと書きを掛けるか。 

 

次は「鳥辺山物語」かなあ。

嵯峨物語⑭ーリリジョンズラブ5ー

本文 その12

 中将は、 三年間父上の行った道を改めることなく守ってこそ孝子の道と言えるのに、勅命なので拒否できるわけもないが、どれほども経たないのに住み替えたことは、何とも畏れ多く罪深いことだと思いなさって、つらいことと思い悩んでいました。

 そんな折、本源の侍従が、中将がふさぎ込んでいるとのうわさを聞いたのか、ふらりとやってきて、昔の父君の思い出などを話題にして、言い慰めていたのですが、ふと思い出したように一通のとても上品に書きなした文を取り出して、「これをご覧ください。」と差し出します。中将が開いて見ますと、一条郎の筆跡で、

  恋ひ死なん後にあはれや知らるべき生きてし問ふは甲斐なかりけり

  「私が恋に焦がれて死んだ後であなたは私の『あはれ』に気づくでしょう。生きて

  このように手紙を書き続けても甲斐のないことです。」

 と詠まれていました。中将は、

 「『本当に、このように思いを寄せる文を送り続ける方がいらっしゃるのを、知らん顔して放っておいたのは、ひどく情け知らずに思われるでしょうが、ご存じのように、故中納言殿がみまかった後は、政事にばかり紛れて、ああしようこうしようと思っても、なかなか思うようにはいかない毎日でした。いつとやお約束できませんが、突然にはなるかもしれませんが、きっとお訪ねいたしましょう。』このように一条殿に申し上げなさってくれませぬか。」

 と言って、侍従をお返しなさいました。

 一条はこのことを聞いて、「ああつらい、生きているのも嫌だ。」と思っていた自分の命も、今はただ惜しくばかりなって、「今日はあの人が到りなさるか、明日は中将が来たるか。」と毎日毎日門に立って待っていましたが、中将は待てど暮らせど現れず、あたかも、西王母の仙桃が落ちて、再び結実する三千年後を待って今は花も咲くだろうかと待っているようなもので、かえって期待しなかった時より苦しく連れく思われるのです。

 中将は、決して約束は忘れず、少しでも暇があったら思っていましたが、八月二十三夜は月待の日で、月が出ている間はと、出立なされました。

 お供には誰彼などを伴わせ、急いで馬を引き寄せて乗り、慌ただしくお立ちなさいます。夕闇は道もおぼつかなくはっきりしません。辺り一面の野原をかき分けて行くと、辺りにすだく虫の声や流れる谷川の水の音、稲葉がそよめく秋風と夜が更ければ更けるほど、秋の気配が身に染みて、心あるあの人はどのように思っているだろうかと思いやりながら、一条の庵に訪ね着きなさいました。

 荒れ果てた住まいはもの寂げではあるけれど、透垣(すいがい)など、ここかしこと風情のある様です。夜はすっかり静まって物音もせず、人も寝静まっているのかと、しばし門口で佇んでいますと、童部が行ったり来たりする様が明り障子にほのかに見えます。

 そこで供の者に門扉を敲かせますと、とても気品のある男(一条郎)が出てきて、

 「ここは世捨て人が人目を避けて住んでる所、訪ねて来るような場所ではありませんのに、どちらからお訪ねですか。」

 と言います。

 「さるお方がお忍びでやって来たのです。お咎めなさいますな。」

 とお供が言うのを、一条は、「もしや。」と肝がつぶれるような思いで、外に出てみますと、まごうかたなき中将殿であります。すぐさま招き入れました。ずいぶん待たされた来訪で、接待の準備も整っていなかったのですが、普段から焚きしめた香の匂いはしめやかに香っていて、趣深く酒宴を開きなさいました。

 中将は盃を手にしながら、

 「すぐにでもお訪ねしたかったのですが、ぐずぐずして思っていると様々な支障が次から次へと起こって。」

 などと申しますと、一条郎は、

 「山里に隠れ住んでいまして、『一条郎』という名前は、名前ばかりが大げさで、私は似つかわしくなくもあれこれ思い悩んで、苦しいことばかり多かったのですが、今宵あなたにお会いできて、すかっり忘れることもできそうで、ありがたい中将殿の情けは、身に余るほどです。」

 と言うと、月はまだ東に差し込んだばかりの子の刻で、深夜に野原一杯に虫の声が鳴き渡るのも、そのタイミングを心得ているようで、辺り一面露が下りるのもこの上なく情緒あるものと見えます。

 思い出すことなどを語り合わせて、話は尽きないのですが、宴を果てても枕を寄せて、夜長という名は名ばかりの秋の夜はあっけないほどに過ぎてゆくのでした。

 政務は致し方ありません。夜明け方のまだほの暗いうちに中将は帰りなさったのでした。

  西山一夜送君帰(西山一夜君帰るを送る)

  夢入白雲深処飛(夢に白雲深く飛ぶ処に入る)

  「西嵯峨野で一夜過ごした君を見送ります。夢で白雲のようなあなたが遠く飛んで

  行くところが見えます。」

 という詩句がありますが、このような心情を語っているのでしょうか。

 この後は、中将君と一条郎殿は親しく交わる事篤くして、中将はもちろん一条郎も漢和の知識が豊富だという事で、朝廷の公務なども相談しなさったということです。

 

 ああ、もう随分昔の事でございます。

 

  見る人の袖より袖に移すなり涙かきやる水茎の跡

  「この物語を読んだなら必ず涙を流して袖を濡らし、さらに次に読んだ人も移され

  て袖を濡らすでしょう。涙を掻き上げて。この書き写した水茎の跡を見れば。」

(完)

 

原文

 *三年父の道を改むる事なきをもて*孝子の道とすることなるを、勅なれば否ぶべきにはあらねど、幾程なくて住み替へし事の空恐ろしく、罪深き事に思ひ給ひて心憂く思し煩ひけるに、本源の侍従出で来たりて、去にし事など引き出でて言ひ慰めけるが、いと卑しからず書いたる文なん取り出だして、「これ見給へ。」とて奉りける。中将開きて見給ひけるに、一条郎が手して、

  *恋しなん後にあはれや知らくべきいきてしとふはかひなかりけり

 となん詠みける。

 「まことにかく言ひやまず人のなん侍りけるを、知らず顔にて過ぐさんも、わりなく思ひ知らぬやうなれど、知ろしめすらんごとく、故中納言みまかりて後は政事にのみ紛れぬれば、*心得ぬ事のみ多し。いつはとはなしに、ふとこそ*訪ひ給はめれ。」

 かく申させ給へとて、侍従を帰し給ひける。

 一条、この由をなん聞きて、つらきものにして*永らへまうき命も今は惜しくのみなりて、今日や人の到り給ふ、明日や中将の来たると、日々門に倚れども、その人とも見えざりければ、*王母が桃を持ちてまた花もや咲きぬらんと、なかなか頼めざらんより、心苦しみ覚えける。

 中将は、暫くの暇もあらばと思し忘れずおはしけるが、*八月二十三夜、月出づる間はとて、出で立たせ給ふ。お供に誰彼など急ぎて馬引寄せ、うち乗りていと慌ただし。夕闇たどたどしくて道も見えず。*そことなき野原かき分け行くに、*みぎりにすだく虫の声、流るる谷の水の音、稲葉そよめく秋風は、夜更くるままに身に染みて、心ある人やいかにと、もののあはれに御心を悩まして訪ね到り給ふ。

 荒れたる宿の寂しげなるに、透垣などここかしこ、由あるさまなり。夜いたう静かにて、音もなければ、人静まりけるにやと、しばし佇み給へば、童部の行き交ふほど、明り障子に見えて、いと幽かなり。

 やがて門たたかせければ、いとあてなる*をのこ出でて、「これは問ふべきにもあらぬに、いづくよりぞ。」と言ふに、「さるお方の忍びて入らせ給ふぞ。さぞな咎めそ。」と言ふを、一条もしやと肝つぶれて、立ち出でつつ見るに、まがふべき程にもあらねば、やがて案内して入りぬ。

 *無期(むご)の事に、とりあふべきいとまなけれど、匂ひしめやかに香りて、*御酒(みき)などよくさまにとり行ひけり。持てる御杯の上にて、

 「とみにも訪はまほしけれど、思ふに怠る障りのみありて。」

 など聞こえ給へば、

 「山里に隠れぬる*名のみことごとしくて、にげなき物思ひに苦しき事のみ多かりけるに、今宵ぞ忘るるやうなる。ありがたき情けの程も身に余るばかりなり。」

 と言ふに、差し出づる月もまた山の端にて、野面(のもせ)の虫の声々なるも、折知り顔なり。置き渡す露までも、なべてならぬあはれと見るに、ありし事ども言ひ出でて、つきせぬ御物語に、*枕を寄せさせければ *名のみなる秋の夜にて*ことぞともなく明け過ぎぬ。東雲(しののめ)のいと暗きにぞ帰り給ふ。

  *西山一夜送君帰(西山一夜君帰るを送る)

  夢入白雲深処飛(夢白雲深飛ぶ処に入る)

 と言ふもこれらの事にや。

 その後よりは、親しくのみなりまさりて、この人漢和の事に富めりとて、公(おほやけ)の事など語り合はせ給ひける。

 今はなき世の事なりけるとぞ。

 

 *見る人の袖より袖に移すなり涙かきやる水茎の跡

 

 某日某時

 

(注)三年父の道=論語・学而篇一「子曰、父在観其志、父没観其行、三年無改於父之

    道、可謂孝矣。」とある。生前は父の志をよく観察し、没後はその行いを思い出し

    三年間父の行いの通りに行動するのが孝というのである。三年は服喪期間にもあた

    る。

   孝子=原文「かうし」。「孔子」の可能性もある。

   恋ひし・・・=「恋ひしなん」は、恋ひし+なん(係助詞)ともとれるし、恋ひ

    +死なんともとれる。「いきてしとふ」は、生きて+慕ふとも、生きてし+問

    ふともとれる。「死なん」「問ふ」と解釈した。

   心得ぬ事多し=この年の1~4月に四首の歌を詠んでいるし、季節の折々に詩歌

    を述べたとの記述がある。朝廷での詩歌の披露と、私信としての詩歌のやり取

    りとは性格が違うかもしれないが、読み手に対して周到な表現とは言い難い。

    普通に読むと苦しい言い訳に感じられる。

   訪ひ給はめれ=この後、一条郎は中将が訪れるのを待っているのだから、主語は

    中将だろうが、そうすると自分に「給は」と尊敬表現を使っていることにな

    る。「給はめれ」は、「給は(未然形)+め(意志・已然形)」か「給ふ(終

    止形)+めれ(婉曲・已然形)」であるところ。

   永らへまうき=生きているのがつらい。

   王母が桃=王母は西王母。仙女で漢の武帝に不老不死の桃を献じたという。仙桃

    は三千年に一度しか実を結ばないという。

   八月二十三夜=二十三夜は下弦の月が深夜に上り、月の出を待つ行事(月待)を

    行ったりする。ただ、1・5・9月に行うところが多いようである。ここは公務

    多忙な中将が、深夜から夜明け限定で会いに行こうとしたということか。

   そことなき=そこら一帯の。

   みぎり=①庭、軒先。②場所。③水辺。②か。

   をのこ=原文「おのこ」。「あてなる」とあるから、上品な成人男性、一条郎を

    指すのであろう。

   無期=長い時間。「突然の事で」だったらすとんと落ち着くが、「長い時間たっ

    たので」対応する余裕もない、というのは解しかねる。ずいぶん長い間ほうっ

    ておかれたので、接待する準備も整っていない、との意か。

   御酒=酒。執り行ったのだから、酒宴、酒席であろう。

   名のみことごとしく=名前ばかりが大げさである。一条という名前が山里に住む

    身には似つかわしくなく大げさというのか。「光源氏、名のみことごとしう」

    (源氏物語・帚木)の用例がある。

   枕を寄せさせ=これは文脈上、同衾というよりは宴を果てても床を並べて語り合

    った、という感じか。

   名のみなる=「秋の夜長」というが、それは名ばかりであっという間に過ぎてい

    く。

   ことそともなく=あっという間に。

   西山一夜送君帰=「と言ふも」とあるから、典拠があるのだろうが、確認できな

    かった。句意も、名残りの惜しさを語っているのだろうがよくわからない。

   見る人の=この末尾の和歌が作者か書写した人かわからないが、申し訳ないが、

    泣けない。「うつす」は移すと写すを掛け、「かき」は、掻きと書きを掛ける

    か。

   

嵯峨物語⑬ーリリジョンズラブ5ー

本文 その11

  年も改まり、毎年の事ですが、新鮮な気持ちで、日の光ものどやかで、すがすがしい空の様子に、人の心も喜ばしくなります。慶賀の歌を奏上する人も多く、仙洞御所で歌会が催されました。中将も参内して、「立春の心を」という事で次のように詠まれました。

  ひととせの行き交ふ空の曙に霞や早き春や先立つ

  「新しい一年のやって来る曙の空に早くも霞が春に先立ってやってきた。」

 これにとどまらず、詩歌に心を傾け、風月の方面(詩歌)にも熱心に取り組んで、季節の移り変わりの折にももののあわれをお詠みになられました。

  秋に来て春には帰る雁がねの月にや花の劣るものかは

  「秋に来て春には帰る雁は、秋の月と雁の取り合わせが愛でられるが、春の帰雁と

  花の取り合わせも劣らない。」

 晩春には、

  青柳のいとはかなくも見ゆるかなさりとて春を繋ぎとめねば

  「青柳の糸のような枝はとてもはかなく見えることだ。糸とはいっても春をつなぎ

  とめるわけにもいかないので。(夏はすぐ来る。)」

 芳しい春草は夢の中でまだ残っているのに、秋の気配は枕元に忍び寄ってくる。かように季節の移り変わりは早く、卯月(四月=夏の初め)一日となりました。

 今日は衣更えという事で、山里の僧都の元にいた頃、故中納言殿が夏の装束を仕立てて送ってくださったことなどを思い出して、

  夏衣花橘の香をしめば今日も昔になりぬべきかな

  「夏衣に花橘の香りが染みている。夏装束を送ったくれた父の思い出も今となって

  は昔の事になってしまったなあ。」

 同月の十三日は父君の忌日で、中将殿は仏事を執り行いなさいました。法事も果てて夕方となり、中将は中納言殿がかつて住んでいた西の京へ出かけて行きました。旧宅に着き、昔を恋しく思い出されますと、ますます感慨がが募ります。

 まことに移り行くこの世の習いは言うまでもないことではあるけれども、もののあわれを深く解する中将殿には、ひとしお悲しく思われます。とても立派な邸宅として住みなしていた跡も、今は猪の寝床となって雑草が生い茂って、侘しい限りでございます。

 そもそもこの場所は、故中納言殿が長年にわたって住まれた所で、玉の(ような磨き上げた)礎や黄金色に輝く砂(いさご)を敷き詰めて、美麗の限りを尽くしなさったものでした。特に帝もお気に入りなさって、行幸もたびたびありました。春は花見に絶景だと庭園を作り、桜の木々を並べ、秋は名月を鑑賞するのに好都合だと、池を掘って水を湛えました。

 様々に興趣溢れる所であったのに、いつの間にか荒れ果てて、草深い伏見の里ともたいして違わず、鶉の鳴く磐余(いわれ)の野辺も今目の前にあるようで、その光景を目の当たりにするや否や、とめどもなく涙が流れ、袖を湿らせます。そうはいっても思い出多い場所なので、知らず知らず夜更けまで時を過ごしてお帰りになりました。

 

原文

  あらたまの年も来りて常なれど、今めづらしく*日影ものどやかに、うるはしき空の気色、人の心も喜ばしくなりて、歌など奉る人多かりければ、*仙洞にて御会の御事あり。中将も参れりけるに、立春の心をとて、

  ひととせの行き交ふ空の曙に霞や早き春や先立つ

 これにしもあらず、詩歌に御心をやりて、*風月の方をこととせられしかば、折節の移り変はるにつけても、あはれをのみぞ述べられける。帰る雁を詠める。

  秋に来て春には帰る雁がねの月にや花の劣るものかは

 春の暮れに、

  *青柳のいとはかなくも見ゆるかなさりとて春を繋ぎとめねば

 *芳草夢なほ残りて、秋声枕に来らんとす。春もまた暮れて、卯月一日になんなりにける。

 今日は衣更へとて山里におはしける時、故中納言殿、装束など仕立て給はせけることども思し出でて、

  *夏衣花橘の香をしめば今日も昔になりぬべきかな

 同じき十三日は父の忌日なりとて、御仏事などとり行はせ給ふ。

 夕べになんかかりて、中納言殿住み来し給ひける西の京へ到りて、昔恋しう思し出づるに、いとどあはれぞまさりける。

 げに移り行く世の例、言はんもさらなれど、心ある際は、今一入(ひとしほ)悲しかりぬべし。いともかしこう住みなしたる所も、*臥す猪の床となりもて行くぞわびしきや。

 さればこの所は故中納言殿、居渡り給ひしかば、玉の礎、黄金の砂(いさご)を敷きて、美麗をなん尽くし給ひける。ことさら帝の覚えも盛んにして行幸度々なりければ、春は花を見るによろしとて、園生作りて木を並べ、秋は月を得るに便りとて、池を掘りて水を湛ゆ。様々興あることなりしに、いつの間にかは荒れ果てけん、*草深き伏見の里も遠からず、*鶉鳴く磐余の野辺も今目の前に見るより早き御袖の涙も詮方なければ、さすがに名残り多くて、知らず夜更かし帰り給ふ。

(注)日影=日の光。

   仙洞=仙洞御所。上皇の御所。

   風月の方=自然に親しんで作る詩歌。

   こととせられ=専念する。熱中する。

   青柳の・・・=「いと」が、いと(とても)と糸の掛詞。「いと」と「繋ぐ」は

    縁語。

   芳草・・・=特に典拠のある表現ではなさそう。春だと思っていたらあっという

    間に秋が来る、という意味だろうが、晩春と初夏をつなぐ表現としてはどう

    か?

   夏衣・・・=「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集・伊

    勢物語)を踏まえる。

   臥す猪の床=草を折り敷いた猪の寝床。

   草深き=草深い伏見の里と近い(似たような)状態。距離的な遠さではなく。

   鶉鳴く=やはり鶉の鳴くような草深い。磐余は奈良県桜井市の地名。歌枕。

嵯峨物語⑫ーリリジョンズラブ5ー

本文 その10

 一方、一条郎は松寿君都へ戻って中将となってからは、文を伝える術もなく、かといって思いを断ち切ることもできないでいました。鬱々たる思いで、京師にさまよい出でてゆかりある古御所を訪ねて、様々なことを語り合って、鬱屈した心を晴らそうとしました。 この屋敷の主は本源の侍従と申します。かつて故中納言殿の邸宅に出入りしていて、松寿君僧都に紹介した男でありました。ゆかりあるとはいっても、一条郎の事は名前を聞いているだけの、初対面だったのでその素性までやよく存じません。話題が最近の中将殿の活躍ぶりに及び、並々ならぬ人徳などを語ったついでに、

 「先日中将殿にお会いしたら、嵯峨野の奥に某とかいう世捨て人がいて、中将殿も想いをかけていたそうですが、今でも慕わしく思われているなどとおっしゃっていましたなあ。」

 などと語ったので、一条郎は、今も自分の事を思っていてくれているのだと、心ときめく思いで今までの経緯を語り、すぐさま自分の思いを手紙に綴り、本源の侍従に託します。侍従は快く承知し、一条の文を中将へと取り次ぎました。

 中将は、「思いがけない手紙であることよ。きっと私の事を恨めしくご覧になっていることだろう。」と冗談交じりに文を開いてみると、平素に受け取る文とは異なり優雅に書かれていて、末尾に一首の漢詩が書かれてありました。

  一片忱誠尽不成(一片の忱誠尽くせども成らず)

  鯉沈雁断叵伝情(鯉沈み雁断えて情伝へ叵《がた》し)

  梧桐雨渡風灯底(梧桐雨渡る風灯の底)

  寤寐思君暗地驚(寤寐君を思ひて暗地に驚く)

  「私の真心はことごとく成就しなかった。鯉や雁に託した手紙は届かず、思いは伝

  わらない。あおぎりは雨に打たれて私の命の灯は消えそうで、寝ても覚めてもあな

  たを想い暗闇の中でおののいているばかりだ。」

  いかにして身をも恨みん心をば君にとどめて我ならなくに

  「どのようにして我が身を恨もうか、恨みようもない。心をあなたに預けてしまっ

  て私は私の心をなくしているのだから。」

 中将は、かつてのやり取りを思い出し、同じ韻字で唱和した詩にいたく感じ入り、慕わしく思われたのですが、政事が多忙を極めていて、徒言(ただごと=詩歌を添えない散文)だけの返事をするだけで月日は過ぎていきました。一条には侍従しか伝手はなく、侍従頼みで送ったのですが、その甲斐もなかったのでした。

 年も暮れて、今年も今日ばかりという大晦日、一条は再び文を書き送りました。今度は、旅先の夫を思う妻の心情を詠んだ「文選」の古詩を引用して、

  思君令人老(君を思へば人をして老いしむ)

  歳月忽已晩(歳月忽ち已に晩るる)

  「あなたを思うと私はすっかり老いてしまいます。歳月はあっという間に過ぎてい

  きます。」

  年の尾も人のつらさも今日のみとなさばやものを思はざらまし

  「私のつらさも今日を限りとすれば、年が改まった明日からは何も悩み事がなくな

  るだろう。」

 このように詠じて送りました。

 

 

原文

 さて一条は、中将都へおはしけるより言ひ入るべき術もなく、また思ひ絶えん心にもあらねば、あまりの事に京の方に出でて、ある*古御所様(やう)の*しるべあるに到りて、よろづの事など語り合ふて心遣ることなりけるに、*本源の侍従一条が名をのみ聞きて、その人は未だ見給はざりければ、この頃中将殿の振る舞ひの大方ならぬ事など言ひ出だして、

 「嵯峨野の奥に、なにの世捨て人とかや、思ひ懸けてありしが、今もあはれに思しける由、一日もおほせられしか。」

 など語りけるに、一条胸躍りて、やがて「かく」と頼みければ、侍従、安き事にして、文をなん伝へ侍り。中将、

 「思ほえずの御文なりけり。*うらめづらしく見給はん。」

 など*戯れて 開き給へば、いつもよりやさしくて、奥に一首のからうたを書けり。

  *一片忱誠尽不成(一片の忱誠尽くせども成らず)

  鯉沈雁断叵伝情(鯉沈み雁断えて情伝へ叵《がた》し)

  梧桐雨渡風灯底(梧桐雨渡る風灯の底)

  寤寐思君暗地驚(寤寐君を思ひて暗地に驚く)

  *いかにして身をも恨みん心をば君にとどめて我ならなくに

 いとあはれに思しけれども、朝(てう)に暇なかりければ、*徒言(ただごと)にてうち過ぎぬ。一条は侍従のみして、*言はせけれどもその甲斐もなかりけり。

  年も暮れて、今日のみ名残りなりける日、また文を書きてやる。古き詩を引きて、

  *思君令人老(君を思へば人をして老いしむ)

  歳月忽已晩(歳月忽ち已に晩るる)

  *年の尾も人のつらさも今日のみとなさばやものを思はざらまし

 となん詠じて遣はしける。

(注)古御所=古い邸宅。

   しるべ=ゆかり。知人。どのようなゆかりかはわからない。

   本源の侍従=かつて松寿を僧都に紹介した者。一条郎とは初対面。名前だけは知

    っていたが、それが松寿君を慕う男と結びつかなく、世間話として話題とした

    ようであるが、シチュエーションや情景が想像しづらい。

   うらめづらしく=続史籍集覧本「うらめしく」。こちらの方が意が通じる。

   戯れて=なぜ「戯れ」なのか。「どうせ憎まれているのだろうな。」といった自

    嘲的な感情だろうか。

   一片忱誠尽不成=かつての漢詩のやり取りと同じ韻字。「忱誠」はまごころ。

    「鯉」や「雁」は手紙を象徴する。「風灯」は風前の灯火、はかないもののた

    とえ。あるいは消えそうな灯火の実景か。「寤寐」は寝ても覚めても。詩の意

    は「私の真心を込めた手紙の思いは伝えられず、あおぎりは雨に打たれて命の

    灯は消えそうで寝ても覚めてもあなたを想い暗闇の中でおののいているばかり

    だ。」か。

   いかにして・・・=どのようにして我が身を恨もうか、恨みようもない。心をあ

    なたに預けてしまって私は私でなくなっているから。

   徒言=和歌や漢詩を用いない日常的な言葉。

   言はせけれども=何度も書き送ったか一度だけなのかはわからない。

   思君令人老=「行行重行行」(文選・五言古詩十九首其一)の十三・十四句。遠

    い旅に出ている夫を想い妻が詠んだもの。

   年の尾も・・・=「年の尾」は年末。「年の緒」なら年月。歌の意は、「年末も

    私のつらさも今日を限りとすれば、年が改まった明日からは何も悩み事がなく

    なるだろう。」。

嵯峨物語⑪ーリリジョンズラブ5ー

本文 その9

 やがて死後の弔いも済ませて、松寿君は父の遺言通り、内裏へ出仕することとなりました。帝も故中納言殿の生前の功労の偉大さを思い出しなさって、出仕したその日にも松寿を元服させ、中将に任じました。

 これよりは、紀中将康則と名のりなさいます。

 出仕するや、中将の容貌品格のすべては忽ち帝の叡慮にかない、常に側近く親しく付き従わせて、退出するのも名残惜しいと思いなさいます。そこで、故中納言殿が暮らしていたのは内裏から離れた西の京だったのですが、いつでも参内できた方がよかろうと、一条室町に御殿を造営して、中将を移り住ませなさったのでした。

 このように帝の寵愛は、人目もはばからない様子でしたので、左右の大臣、公達方は羨ましく妬ましく思いなさるのでした。しかし、中将は決して寵愛によって取り入ろうとは思いなさらず、帝に向かってさえ、

 「私は古人が主君に仕えた先例を模範として、そのように行動できたならば真実の忠孝の身と言えると考えております。どうして移ろいやすい色香をもって、かりそめの帝の御心を貪ろうとしましょうか。それは主君を正し、亡き父の遺徳を顕彰する道ではありません。

 帝もご承知の事とは思います。漢の哀帝が董賢を寵愛したのを、諫臣鄭崇は不可としました。衛の弥子瑕が、霊公の寵愛が衰えると罰せられた、『余桃の罪』故事もあります。これらをもって後世の参考にせよと史書にも書いてあります。」

 と申し上げて、人一倍慎んで行動なさったので、帝も己の軽率な思いを恥じ、人臣も中将の人徳を慕って敬い申し上げたのでした。

 

原文

 やがて後々の業も程なく終りければ、松寿、内裏(うち)へ参上(まうのぼ)り給ふ。君も故中納言、*世にいたはり 多き事など思し出でて、その日松寿に*初冠(うひかうぶり)させて、中将康頼とぞ申しける。

 一たび君王に見え給ひしより、すべて叡慮にかなひしかば、常に御座(おまし)近く*なれまつはし給ひて、*あかぬ名残りを思しめし給ふ*故、中納言おはしける所は、*西の京なりけるを、内裏近き所なんよろしく侍らんとて、*一条室町に殿造りして移らせ給ひける。

 かく君のいとほしみ、片方(かたへ)に人なきばかりなれば、左右の大臣の公達もうらやましきことになん思ひ給へりける。

 中将は*枉(ま)げてそれとも思ひ給はず、

 「我、いにしへの人の仕へし道をもて、かくあるものにあらば、まことに忠孝の身とも言ひつべし。何せんは、移ろひやすき色をもて、仮の叡慮を貪らんは、君を正し、父を顕はす道にあらず。

 君見ずや、漢の*董賢が幸せられし、*鄭崇諫めて不可とす。衛の*弥子瑕(びしか)が行ひをもて、後の世を見つべし、とまのあたり、史の文にも見えぬるものを。」

 といやましに慎み給ひければ、君もその心ざしを恥ぢ、人もその徳になつきて、仰ぎ奉り侍り。

 

(注)世にいたはり=人々への慈愛。

   初冠=「最初の爵位として五位に任ぜられ、仕官すること。」(精選版日本国語

    大辞典)とあるが、「中将」は、従四位下相当官。亡父の遺徳によっての抜擢

    か。

   なれまつはし=親しく傍にいさせる。

   あかぬ名残り=中将が退出した後の空漠たる感情か。

   故、中納言=大成本では、「故中納言」としているが、続群書類従本、続史籍集

    覧本に従って、接続助詞「ゆへ」と取った。

   西の京=平安京の西の部分。都市として発展せず荒廃していた。有力貴族はこぞ

    って左京(東の京)の内裏近くに住んだ。

   一条室町=時代によって内裏の場所が異なるが、いずれにしても内裏から至近距 

    離であったろう。

   枉げて=「無理にでも」の意だが、下に打消しの語があるので、「決して~な

    い」の意か。

   董賢=漢の哀帝の寵愛を受けた官人。

   鄭崇=哀帝に仕え、董賢を寵愛するのを諫めた。

   弥子瑕=「序文 その2」、「桃余の罪」のところで触れた。寵愛の厚さに驕慢

    になっていると寵愛が衰えた時には罪を被ったという例。